回覧板

この列島の一住民からの回覧板です。

「文体」についての覚書

2017年05月15日 | 批評


 「文体」についての覚書


 例えば、わたしたちが初めて誰かと出会ったとする。わたしたちは、相手の表情や仕草や言葉の選択やしゃべり方などから人柄や性格のようなものを感じ取る。つまりひとりの人が様々な表現として外に放つ固有の存在感を感じ取る。この場合、自分がこの列島社会で生きてきて経験として蓄積した人に関する抽出された共通性(普遍性)のようなものが、他者を感じ取る場合の基準になっている。そこには人に関する抽出された共通性と共にその人固有の屈折や付加もある。このようなことは、生身の他人に限らず、テレビに登場する司会者などの人物に関しても言えるだろう。表現された言葉の「文体」というものもそれと同様のものではないだろうか。

 「文体」という言葉はよく使われるが、何のことを指しているのだろうと思ったことがある。学校では「である」体か「です・ます」体かくらいに形式的なものとして文体は扱われていた。たぶんその言葉は、ヨーロッパ由来の近代に始まる言葉や概念と思うが、文章のスタイルや修辞・技法などの表現の形式的なことを指しているようなイメージをわたしは持っていた。しかし、わが国で使われている「文体」の意味やイメージは、それに留まらず作者という個の存在の固有性と関わりあるような使われ方をしている印象がある。そこには、ヨーロッパ的な言葉とアジア的な言葉との対象を捉える時の捉え方の違いが出ているように思われる。(因みに、中国に「文体」という概念があるのかどうか、あるとすればどんな概念なのかについては知らない。)ここに、ひとつの「文体」の捉え方がある。



 ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけ、作品がうみ出された  時代や社会をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移をかんがえることができるかという問題である。いままで言語について考察してきたところでは、この一見すると不可能なようにみえる課題は、ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能なことをおしえている。いわば、自己表出からみられた言語表現の全体を自己表出としての言語から時間的にあつかうのである。
    (『全著作集』6,勁草書房、163頁)

 わたしたちのいままでの考察では自己表出としての言語の表現史というところまで抽出することによって、(文学史の:著者註)必然史は可能とならなければならない。なぜならば、言語の表出の歴史は、自己表出としては連続的に転化しながら、指示表出としては時代や環境や個性や社会によっておびただしい変化をこうむるものだからである。
    (『全著作集』6,164頁)


 ここで言われている「文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげ」た表現言語空間とは、前節の最後にまとめた、「表現作用素の一般性の部分のみが作用したものとみなし」て抽出したものである。そしてみてきたように、文字で書かれたためにここでいう自己表出は、選択・転換・喩という表現の定型によって、これと指し示すことができる実在性をもって表現のなかに存在し、三浦つとむのいう「主体的表現のための言語」に注目しつつ逐語的に追跡し、比較していくことによって、自己表出性の度合い、程度、水準は考量できる、と考えてきたのだった。つまりここで考察する対象は、文学作品をその「自己表出の実在的な担い手である定型、即ち、選択・転換・喩の実相としてみたもの」ということができる。そして、作品をこのようなものとしてみた時、これを本稿では「文体」と呼ぶことにする。
 吉本隆明は『言語・美』において文体とは何か、という議論を直接にあらわな形ではやっていないが、私は右のように考えて間違いないと思う。人は、「作品を選択・転換・喩の実相としてだけみたものを文体と呼ぶ」といわれたら、ひどく切り詰められたように感じるかもしれないが、そうではない。追跡行を振り返ればわかるように、言語表現における定型は、人間の存在本質である自己対象化の力が発揮された結果としての言語の自己表出性を、書くという世界で直かに担い示す、重要な意義をもつものとして定立されたのであって、文芸作法などによくある、個性的な切り口だの言い回しなどの「技法」と同列の概念ではないことに注意が必要であろう。
 (『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』「文体空間の基底」P94-P95 柴田弘美 2014年)



 引用の冒頭の「ここ」というのは、『言語にとって美とはなにか』Ⅳ章「表現転移論」の「1 表出史の概念」から引用された部分を指している。そして、「ここ」というのは、作品から作家の個性などの固有性を退けて、抽象化し抽出された構造を指している。この引用部分での「文体」の像をもう少しはっきりと浮かび上がらせるために柴田弘美の言葉をもっとたどってみる。引用の前の章の終わり辺りで次のように述べている。



・・・・・・即ちここで振り返ってみれば、吉本隆明が遠山啓の特別講義で出会い、獲得したと考えられる「構造」の世界では、「行為する人間」は「作用素」として、むろん高度に抽象化、形式化されてはいるが、その本質を保持し存在することができるのではないか。いいかえれば、いわゆる「構造主義」が捨ててきた「人間」あるいは「主体」という概念は、日常的で具体的な生身のそれとしてではなく、疎外-外化された「作用素」として、つまり「構造」という把握が成り立つレベルの抽象水準において、「構造」世界に生きぬくことができるのではないだろうか。

 そして、本稿のそもそもの発端が、『言語・美』と、量子力学に数学的基礎を与えた位相解析学とが大変よく似ている、という直感であったことを想起してみれば、私たちはここで、表現者=作家を構造的な言語空間のうえで働く「作用素」として抽出し、把握する途についたものと考えられる。

 もう少し正確にいえば、私たちは〈書く〉という行為のうち、誰が、どこで実践しようとも、必然的に実現してしまう、普遍的一般性の部分を、構造的把握の成り立つ水準において、把握したのである。その「作用」は、表出言語の一般性を、文字によって、固定的で実在的な、表現言語空間へと変成するとともに、表現言語空間のある部分をまた他の部分へと写像する。即ち「作品」を成す。そしてこの際、表現言語空間に積み重ねられた「定型」による自己表出性の実在的あり方を、程度の差はあれ、連結し、受け継ぎ、また推進する。


 ところで当然のことながら、現実の作者あるいは表現者は、「書くことの一般性」のみ担う《表現機械》として存在することはありえない。必ず、固有の肉体をもち、固有の感性と資質をもち、特定の歴史的、時代的な、また社会的環界のうちにあって固有の関係を取り結び、固有の意志を形成しまた変動させつつ存在してきたし、今も存在している。その固有性が表現に全く影響を及ぼさないわけはないし、実際及ぼしてきたのである。したがって、表現者個人を表現言語空間上の作用素へと抽出する、という本稿の意志と関心からは、この個体の固有な現存性が表現に関与するところのものを、構造的把握の成り立つ水準、「書くことの一般作用」と同等の水準にまで抽出し、「普遍的一般性」と「固有な現存性」との二重の構造をもつものとして、「表現作用素」の概念を組み立てようと考えるのは必然である。

 ( 『 同上 』 P90-P91 )


 人間のもつ類的な必然性と個体的な現存性とを、相容れないものとせず、互いに独立であるものとして同在させる、吉本の弁証法的な考え方を先に検討しておいたのだが、まずそれは、自己表出の連続的な転化と指示表出の時代的、個的現存性として現れた。今人間の〈書く〉という行為を抽出するにあたって、右のような「類的、普遍性一般性」と「個的、時代的な現存性」の、人間の避けられない本質的規定性を担う二面性を、表現作用素の二重性として表すことは、これまでの行論からは自然である。
 では表現者の個的現存性はどこにどのように現れるかといえば、みてきたように、それは言語の指示性に現れるのだった。


 ここで改めて『言語・美』の全体を見渡してみると、第Ⅳ章が表現転移論、第Ⅴ章が構成論となっている。これまでの追跡行を踏まえるなら、この二つの章は明白である。「表現転移論(表出史論)」とは、右にみた表現作用素の一般性の部分だけが作用するものとみなした時、表現言語空間はどのようにあらわれ、作品群はどのように史的にふるまうかを追跡したものといえる。つまり自己表出性の変容にのみ焦点をあてているのだ。そして「構成論」は、さらに表現作用素の個的現存性をも含めた全体が作用した時、どうなるか、という問題を、〈書く〉ということが出発した時代に焦点をあてて、「構成」ということの意味を明らかにしつつ考察したもの、といえよう。

 ( 『 同上 』 P92-P93 )



 これはわたしの納得のいく捉え方であるが、柴田弘美の「文体」という捉え方は、吉本さんの「話体」と「文学体」とを基軸とした「表現転移論」に近い捉え方をしているように見える。つまり、作品を抽出された抽象性として、作者の「個的現存性」は考慮に入れていないように見える。上の引用の二つ目の「表現言語空間のある部分をまた他の部分へと写像する。即ち「作品」を成す。そしてこの際、表現言語空間に積み重ねられた「定型」による自己表出性の実在的あり方を、程度の差はあれ、連結し、受け継ぎ、また推進する。」という抽象性の水準で、作品の表現を捉えたものを「文体」と呼んでいるように見える。つまり、「選択・転換・喩」という具体的、実在的な定型によって担われた自己表出の水準や有り様として。柴田弘美が、自分はこれを「文体」と呼ぶということには文句はない。しかし、慣用的な使い方とは違うような気がする。

 柴田弘美も触れているけれど、 「文体」という言葉は江藤淳の『作家は行動する』にも出てきた。しかし、文体の定義はなされていなかったように記憶している。吉本さん自身もよく使い、また一般にもよく使われているけれども、「文体」とは何だろうというという疑問から、わたしも吉本さんの『言語にとって美とはなにか』に「文体」の捉え方がないかと以前調べたことがある。言葉はあったけれども「文体」を定義したものはなかった。たぶん吉本さんの場合は、「文体」という言葉の慣用的なイメージや使い方で十分だという思いがあってのことだと思う。そこで、わたしなりに「文体」について考えてみたことがある。以前どこかに書いたことがあるが見つからないので、もう一度書き出してみる。これは、文学作品を想定して書いているが、思想でも身辺雑記でも事務的な文章でも当てはまるものとして書いている。


 〈現実〉世界を呼吸する人が、〈作者〉に変身して内心の何かに促されるようにしてある〈表出〉の欲求を携えて何ものかを文学的な表現の〈言葉〉に表現しようとする過程に入ったとき、現在まで蓄積されてきた〈表現世界〉の歴史的な現在性と関わり合いながら(助けられたり親和したり反発したりしながら)、言葉を表現していく。その表現の過程での作者固有の言葉の織り成しを「文体」と呼ぶべきではないかと考えたことがある。


 わたしはこんな風に「文体」を考えてみた。これに対して、柴田弘美の「文体」の捉え方は、作者の固有性を退けて「選択・転換・喩」という実在的な定型に担われた自己表出の有り様という或る抽象性を指していて、一般になんとなく使われている「文体」という捉え方とは違うように見える。しかし、ふだんわかるようでわからないというあいまいさのままで使われる「文体」というものに、遠山啓の吉本さんに与えた数学的な考え方の強い影響があるということとその論理的な駆使が『言語にとって美とはなにか』においてもなされているという場所から、『言語にとって美とはなにか』を読み解く道程につき、そこから放たれた「文体」の捉え方である。わたしはまだ本書を読み終えていないし、十分に理解できているとは言えないけれど、本書は悪しき「文系」的な印象や論理の言葉の世界にいい意味での「理系」的な風通しのいい論理の言葉を駆使して見せているように見える。本書を読む上で少しは現代数学の近辺の素養が必要と思われるが、複雑で多様な現実というものを抽象と抽出と基軸というものによって構造化する論理になじめば割とすっきりとした視野が開けてくるような気がする。吉本さんの『言語にとって美とはなにか』を読み解く上で大きな助けになると思う。

 わたしの「表現の過程での作者固有の言葉の織り成しを『文体』と呼ぶ」という大雑把であいまいな捉え方に対して、柴田弘美の方は、『言語にとって美とはなにか』に沿いつつ「表現言語空間」での構造的な関わりとして「文体」を明確に定義しようとしている。私から見て通常の「文体」の意味やイメージとは違うのではないかということは、とりあえずどうでもいい。このような「文体」を論理的に概念や位相として位置付けようとすることが貴重だと思う。少し「文体」に触れるつもりが、柴田弘美の「文体」を捉えようとしたら、次第にこの著作自体を読み解かなくてはならないように感じられてきた。この辺りで止めておきたい。

 ここで、柴田弘美の「文体」を潜り抜けた上で、改めてわたしの「文体」把握を述べてみると次のようになる。


1.吉本さんは以下に引用(註.1)するように、「言語表現のうちで抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩」としているが、柴田弘美のは「選択・転換・喩」となり、なぜか「韻律」が入っていない。ただし、本書に引用されている、吉本さんが三浦つとむに触れた『初源への言葉』の文章では、「作者が、意識せずにつかっているめまぐるしい認識の〈転換〉が、詩歌の美を保証している。わたしは、これを緒口に、〈場面〉、〈撰択〉、〈転換〉、〈喩〉の順序を確定し、この四つが、現在までのところ、言葉で表現された作品の美を、成り立たせているだろうという、理論の根幹を、形成することができた。」( 『 同上 』 P77 )とある。ここでは三浦つとむに倣って、「詩歌の作品の言葉」を一字一字たどり、それ毎に「背後にある作者の認識の動き」推量してみたということから、〈場面〉、〈撰択〉、〈転換〉、〈喩〉と表現されているものと思う。

2.わが国では「文体」は通俗的な概念としての使用から見ても、文学であればその「文学作品」の全体が作者の固有性に関わっている概念である。つまり、ある人の持っている、あるいは放っている人柄や性格のようなものである。したがって、以下に吉本さんの『言語にとって美とはなにか』から引用するように、「表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できる」「韻律・撰択・転換・喩」のレベルでは「芸術としてではなく言語表出としてあつかうということ」になってしまう。つまり、吉本さんが述べているように芸術作品として対するには「構成」の問題を取り上げなければならないと思われる。

 言いかえると、作品の「韻律・撰択・転換・喩」だけでなく、「構成」も意識しながら作品を読み取ったとき、その作品全体から放たれてくるものをその作者固有の「文体」と呼ぶ。この場合、作品世界で「韻律・撰択・転換・喩」を具体的・現実的に表現するのは、作者または作者に派遣された語り手であり、それらを成すことによって作者の癖や好みや性格のようなものや無意識的なものも含む固有性も文体として刻印されることになる。



(註.1)
 言葉の表現を、ややつきつめてみてゆくと、表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できることにすぐに気づく。この共通性は言語表現のながい歴史が体験としてつみかさねたものだ。結果としていえば歴代の個々の表現者がそれぞれ自由に表現したものが偶然につみかさねられて、全体としてあたかも必然なあるいは不可避なものとしてつくりあげた共通性だといえる。この共通性は、いったん共通性として意識されると、こんどは個々の表現者によって自覚的に使われたりする。こういう過程は、人間が対象にたいして行なうどんなことにもいつもつきまとうもので、言語の表現にだけ特有なものではない。
 この言語表現のうちで抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩に分類すれば現在までの言語の表現のすべての段階をつくすことができる。
 わたしたちはいままでに、意識の表出としての言語を、言語表現にまでひろげることで、文学の表現をあつかう前提をとりあげている。書くという行為で文字に固定すると、表出の概念は表出と表現とに分裂する。ここまでひろげることで、文学の表現論はすべての文学理論とちがった道に一歩ふみこんだことになる。・・・中略・・・げんみつにいえば芸術しての言語表現の半歩くらい手前のところで、表現としてもんだいになることをとりあつかおうとしているわけだ。この半歩くらい手前というのは言語を文学の表現とみなしながら、芸術としてではなく言語表出としてあつかうということだ。なぜこんな態度がいるのかといえば、言語表現を文学芸術とみなすにはまだ構成ということを、取扱っていないからだ。構成を扱わなければ反復、高揚、低下、表現のはじめとおわりが意味するものをしることができない。
 (『定本 言語にとって美とはなにか Ⅰ』P114-P115 吉本隆明) ※ 傍点は省略した。


※ 「文体についての覚書」としたのは、まだ『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美)や『言語にとって美とはなにか』をわたしが読み込んで十分に理解しているとは言い難いから暫定性を込めた題名になっている。(前者は、まだ読み終えていない。)つまり、本格的に「文体」に触れようとするなら、少なくとも『言語にとって美とはなにか』は踏まえるべきだと思う。ここでの「自己表出」や「指示表出」という『言語にとって美とはなにか』の基軸概念も自然なものとして使っている。本格的な自分なりの捉え返しが必要だと思っているが、ここでは「理工系」的な便利な数式だから使っているという程度の意識で引用したり使ったりしている。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 短歌味体Ⅲ 1733-1734 最後の... | トップ | 短歌味体Ⅲ 1735-1736 最後の... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL