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吉本さんのおくりもの 9吉本隆明「カール・マルクス」から現在へ (2016.4) 既発表文より

2017年03月30日 | 吉本さんのおくりもの

 ここで、わたしたちの現在に戻ってくれば、わたしたちの現在は次のような自然に対する関わり合いやその意識が大きく変貌している段階に突入しているのではないかという問題がある。当然のこととしてこのことが作者とその言葉を介して生み出される芸術作品の表現にも影響を与え浸透しているものと考えられる。

 この今までにない時代の変貌は、世代によっても感じ方や捉え方が違うように思う。若い世代はその変貌を割と自然なものと感じているかもしれないし、わたしのような老年に近づいた世代なら前段階と比べることによってその変貌の徴候を見つけ出しやすいということがあるかもしれない。わたしたちの世代なら小さい頃の見聞きした体験からすれば、まだ「百年前の日本」の風景にあんまり異和を感じなかっただろう。そして、成長するに従ってそれとの連続性をどんどん離脱していったという感じを持っている。それは「高度経済成長期」に当たっていたと思う。いずれにしても、現実の渦中にあっては人はいろんな異和があったとしても少しずつ変化に慣れていって、それらを自然なものと化していく存在であるから、変貌の進行になかなか気づきにくい。しかし、それらがある程度積み重なってきた段階で、後振り返ってみると社会が大きく変貌していたということわかって愕然とすることがある。



しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの哲学は改訂を必要としている。つまり、農村が完全に絶滅したところでは。
 たとえば、現在、アメリカでは、もっともそれに近づいており、ソ連、日本、ドイツ、フランスではそれにおくればせている。中国ではやっと都市と農村との分離がもんだいになり、農本主義を修正する段階にせまられている。現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖とその自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
 (「カール・マルクス」P191 吉本隆明全著作集12 思想家論 勁草書房)




 この「カール・マルクス」は、巻末「解題」によると、今から、50年ほど前の昭和三十九年(1964年)に発表されている。わたしが学生時代にこの引用部分に出会ったとき、吉本さんはこの世界における人と世界との関わり合いとその行く末をそこまで見通しているのか、と深い衝撃と感動を味わったのを覚えている。

 さて、そこから50年ほど経っている。わたしたちの現在では、すでに「このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。」という段階に到っていると思う。わたしたちはその渦中に生きている。例えば、キュウリやトマトが年中あって従来のそれらのイメージとは違ってきているとか、銀行などの対面でのお金の出し入れや送金等だったのが、機械装置やネットワークを介して行うようになってきているとか、徴候はいろんなところから引き出すことができる。ここでは、前回利用した政府統計で、「産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年)」を利用して、 産業社会の変貌を確認しておきたい。

 ここには表として挙げないが、その政府の統計の、各産業の「就業者数及び割合の推移」(大正9年~平成22年)というのは、産業の従事者数であって産業の規模そのものではないだろうが、その時代的な推移は、各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の社会に占める割合に対応していると見なすことができる。

 各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の従事者の割合。
1.「都市と農村問題」が切実だった戦前(大正9年)では
  (54.9、20.9、24.2)

2.上記の吉本さんの「「カール・マルクス」」が書かれた頃(昭和40年)では
  (24.7、31.5、43.7)

3.現在に近い時期(平成22年)では
  (4.2、25.2、70.6)

資料
表8-1 男女,産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年) (www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/01-08.pdf)より


 この統計データによると、わが国では農村が縮小して均質化された都市の中に小さく収まってしまったイメージが得られる。もちろん、わが国でも農業は相変わらず存在するし、昔と余り変わらない農業の形態もあれば、機械化が十分進んでいる形態もあるだろう。また、それらの一方に例えばネットやパソコンによる農の制御や管理、あるいは「植物工場」など高度化してきている農業の形態もある。しかし、上の統計データでわかるように、社会内では農業は存在しても「農村が完全に絶滅したところ」に近いと見なすことができる。

 わたしたちは、一次的な自然との関係から一段高度化した自然との関係という新たな社会の段階に到っている。この社会のあらゆる問題群の現象が象徴するのは、この社会のあらゆる分野でこのような現在的な問題を検討することをわたしたちは促されているということだろう。

 吉本さんが、若い世代の現在の詩について、自然というものがない、それらは「無だ」というようなことを述べていたことがある。(『日本語のゆくえ』2008年) おそらく以上のような社会の大きな変貌の現在を生きる、わたしたちの感性や意識の現在的な自然性とそれらの内省とが表現の世界でも促されているということであると思う。

※この文章は、「表現の現在―ささいに見える問題から⑫-補註3 (吉本隆明「カール・マルクス」に触れ)」を解題しました。

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