ホルモン屋徒然草~珍しホルブロだ

新米ホルモン屋の親爺の日々。ホルモンのこと、店の出来事、周辺の自然や話題。

5月14日(日) 花巻・豊沢ダム そして 高村光太郎山荘に向かう

2017-05-15 22:38:03 | 自然、読書、仕事、そして生きている
5月14日(日)、一家は前夜遅くの恒例「一週間のお疲れ晩餐会」で朝はゆっくり、9時過ぎのワタシは一等賞だったが炬燵の猫ごとく起きようとしない妻の有り様を見て、二度寝。
皆で朝素麺を啜り、妻は伸び放題の雑草畑を、美しいバラ畑のある隣家の境を重点に草刈り機をかけ、勢いで(動き始めるまでは時間がかかるが、いったん動くと止まらないバネのような彼女である)ムスメのタイヤを夏用に替える。
だから、ボクは三度寝。

なお、虎刈りにされた春の雑草畑は、大好きなオダマキが駐車場に一論咲き、





フェンスの内側のタラの木には少し大きくなりすぎたタラ棒が。
これはワタシに摘まれてその夜の酒のお供となった。
一年ぶりの自宅のタラ棒は、あの苦みが舌に春を招き入れたのです。

さて、約一ヶ月ぶりの休日。これを逃すと今のところ7月の祝日まで予定が入り込んでいるから、なんとか休日らしくすごしたく、午後、嫁と予定の行動に出る。

一昨日だったか朝日デジタルニュースの岩手県版に出ていた「高村光太郎の風呂おけを初公開 花巻市の記念館」を読んで、久しぶりに山荘に行こうという魂胆。
そして今年も少し早く開通した沢内へ抜ける県道12号線花巻大曲線で豊沢の奥に春を見つけに行こうと思ったのだ。

余談だが、私たちを良く知る方は、あのいつもけんかしている二人が休日を共に過ごしているなんてとお思いでしょうが、いやはや、全くその通りなんですが、よる歳と最近の熊情報を考えるとちょっと前みたいに独りで山に入りくつろぐという行為自体が非常に危険に思われ、しぶしぶ(!?)助手席に同行させたのです。そして心底憎み合っているかどうかはともかく、激しくバトルを飛ばすが数秒後には平穏に戻るのが二人の口にしない約束事みたいなのです。ねっ、大丈夫!

で、説明は短く、写真を中心に。





豊沢湖は田植え時期で水を豊富に抱え、勢い良く放水しています。
この日の道すがら、田植えの農家が多く、半分くらい終わっている感じで、ここ一帯の水管理のためにダムが作られました。









ワタシの母はこの豊沢の出身で、京都から戦に敗れ日本海をつたい秋田から辺りを山に囲われ隠れ住むのに適したこの地にワタシの先祖は安住の地を構えたということです。
いやはや安住過ぎたのか、すっかり地に染まったのか、母の実家を長とする一族は時節を経てすっかりのんびりした性格を身にまとったようで、酒好きアレ好きの血統でもあります。因みにその血を半分、母からいただいているワタシは酒好きですがアレは苦手の部類です。

さて、今日の目的は「水芭蕉」。
そして例年通りであれば、まだカタクリも咲いているかと期待したのですが、いやいや、水芭蕉はすでに花を落とし、カタクリは見えませんでした。

では、写真で。











(あちこちに滝が。この滝上がワタシの従兄弟たちの狩場で、子供の頃は夏になるとここにテントを張り、魚を獲ったりしたものです。年長の従兄弟たちはダムができる前に住んでいて、あっちの沢、こっちの山と詳しいものでした。)






そして、次の目的地、光太郎山荘へ。







この光太郎記念館は二年前に以前の場所から移りました。
だから、毎年来ているつもりが二年ぶりの訪問となり、昔の民族博物館と様相が違い、立派になった展示室に新鮮さを覚えました。

では、写真で。

















光太郎は戦時下の昭和20年5月に親交のあった宮沢賢治の弟・清六を頼り花巻に疎開し、ここ太田山口で7年間の独居自炊の生活を送ります。
これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であったとされますが、光太郎は地元民に愛され慎ましい生活を楽しんだようでもあります。

(ついこのあいだ、ひどい評論にあいました。光太郎のこの疎開生活を無駄なものと、これがなければもっといい作品を「たくさん」出せたろうという一方的な評論です。さて、芸術は作品の「数」で決まるのでしょうか。体(てい)の悪い画商とか出版社なら「作品の数と札束の厚み」を乗じて考えるのでしょうが、それは大きな間違いでしょう。ワタシはこの7年の花巻山口での生活が、彼が必要としていたものであろうし、その生き方が無ければ自分自身を説得できなかったろうと思います。そしてなによりどんな環境下であれ、その生き方やまわりのもの全てがが自身の芸術性を支え・豊かにし・育んだものと思います。)

さて、いつも見入ってしまう山荘を(たぶん撮影はOKだったと思います)。





















ワタシの母は万屋を営んでいましたが、ちょうど目の前のバス停が光太郎山荘に歩いて向かう人達が降りる場所で、よくリュックを背負った若者が4~5㎞ある道筋を訊ねていました。そのころは奥の温泉にユースホステルもあり、今と違った旅の楽しみ方であったようです。
そして、その道を光太郎はたびたび降りてきて、酒や食料品・日常品を買ったり、電車(マッチ箱電車が花巻から西鉛温泉まで走っていました)に乗ったりしたと、近所の酒屋さんから聞きました。気さくな方だったようです。



帰り道の沿道はリンゴの花がほころんでいました。

花巻はすっかりと、春です。
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