岡村ゼミ 3年生書評

2007年度岡村遼司ゼミ 3年生の書評です

書評⑥

2007-07-06 01:32:15 | saitouhiro
書評⑥ (2007/7/5)                   hirohisa

山田太一『異人たちとの夏』新潮文庫,1991年

 物語のあらすじ。テナントが入るような都会のマンションの一室に住む、妻子と別れ、孤独な日々を送る48歳のシナリオライターが、幼いころに死別したはずの父母と偶然浅草で出会い、そこで死んだときの年齢である35歳の両親とともに不思議な団欒を経験する。一方、同じマンションの一室に住むケイと恋仲になる。胸にやけどの跡があるといって見せようとしない彼女。そんな彼女が「もう両親と決して会わないで」と彼に懇願するが・・・。
「自分は幻覚を見ているのではないか」、「両親に会いたいという気持ちがみせている錯覚ではないか」と自分の精神を疑いながらも、何度も浅草に住む両親に会いに行く主人公。仕事であるシナリオづくりも絶好調。両親のいる浅草という憩いの場の存在と、仕事の快調なすすみ具合により、生気がみなぎり、気分がよいと感じる。順風満帆。そんなとき、脚本の打ち合わせで会ったプロデューサーに怪訝そうな目で見られながら言われる。「・・・身体、なんともありませんよね?」
 都会の一角で、主人公が「異人」たちと交流する姿を描くファンタジー。
 前回読んだ山田氏の小説である『飛ぶ夢をしばらく見ない』に続いてこれもファンタジーなのだが、その中にあるリアルな人間描写が面白い。主人公は幻覚ではないかと両親に「似た」人物を疑う。しかし次第に幻覚であるかどうかなど問題と感じなくなり、「向こうの世界」に没入していく。
 私が今回この小説で印象に残ったところは、主人公が12歳のときに死別してしまった両親と出会い交流を深めていくところを描いた部分。一緒に食事をし、酒を飲み交わし、たわいもない会話をし、硬球でキャッチボールをし、花札をし・・・という具合に、とにかく死別の時までにできなかったことをやる。そこには家族というかたまりがもたらす平和さというか幸福さが滲み出ていて、気持ちがあったかくなる。親子の絆なんていうと大それた言葉に聞こえるが、そのような種類のものが感じられる。しかし、そこには死んだときの年齢35歳の両親と48歳の息子(主人公)という年齢のずれがある。それでも親子は親子。48歳だろうがなんだろうが、息子は息子なのである。両親に囲まれた時間と空間に居心地のよさを感じる。
 ファンタジーなんだけれど、心理描写がリアルでおもしろい。主人公の精神状態はいつも正常と異常の狭間をうろついているような感じがする。死んだはずの両親と再会するという事態に遭遇する主人公だが、このような何か突飛な事態が起こったときに、それを自分の精神のせいにして考えてしまう主人公は、とても現代人だと私は思う。現代人は心労がたえないものだ。


書評⑤

2007-07-06 01:31:23 | saitouhiro
書評⑤ (2007/6/21)                   hirohisa

瀬尾まいこ『天国はまだ遠く』新潮文庫,2006年

 教員としての生活の傍らに小説を書く瀬尾まいこさん。昨年は自身の作品である『幸福な食卓』という小説が映画化された。私は見ていないのでなんともいえないが。
 本のあらすじ。仕事も人間関係もまったくうまくいかず、まいってしまった主人公・千鶴23歳。いつも人に流されながら優柔不断に生きてきた彼女だったが、毎日の生活のつらさに耐えかねて自殺を決意する。そのために、会社の机に辞表を入れ、貯金をすべておろし、うんと遠くへ行こうと特急に乗る。たどり着いたのは山奥の民宿。見た目ぼろ屋で、経営者一人の民宿。そこで彼氏にお別れのメールを送った後、睡眠薬自殺を図るが、死に切れず。途方にくれる千鶴は、民宿経営者の田村さんとの生活を始める。そして田村さんの大雑把な優しさや村人のおおらかさ、大自然の美しさに癒されていく。しかしそんな千鶴は、ここには自分の居場所がないと思い始める・・・。
 この小説は、自然を描写する文章が多い。日光のあたたかさや空気のおいしさ、緑の鮮やかさに自然のにおいがとても爽やかで心地よい。読んでいておだやかな気分になれる。また田村さんの豪快さとあたたかさあふれる人間味が素敵である。主人公の千鶴はそのような大自然や人柄に触れることでまた新たな一歩を踏み出そうとする。
 私がこの小説で気になったのは、千鶴の死生観。彼女は自殺しようとするのだが、彼女の考える死があまりにも現実味を帯びていないように感じた。例えば、自殺直前に彼氏に送ったメールの内容。以下引用。
「久秋(注:彼氏の名)へ。 こうしてメールなんかするのも、久しぶりだね。突然こんなことになってごめんね。ちゃんと何回も何回も考えた結果なんだ。だけど、久秋は悲しまないで。二年間、久秋と一緒に過ごせて、すごく幸せだった。いろいろあったけど、久秋のことちゃんと愛してた。こうして考えてみると、やっぱり久秋と過ごした時間は楽しかったんだなあって思う。久秋と出会えたこと、久秋と一緒にいられたこと、きっとずっと忘れない。私がいなくなっても、私の心の中には久秋のことがずっと残ってる。私は旅立ってしまうけど、遠くから久秋の幸せをずっと祈ってる。今までありがとう。そして、さようなら。」(同上、p31-32)
 これが自殺前の文章とは思えない。受け取った彼氏は恋人関係破棄の別れのメールだと勘違いした。無理もない。また、「私の心の中に~残ってる」とか「旅立つ」とか「祈ってる」などの言葉から、千鶴は、死はつまり異世界への移動のように考えているのではないかと推測できる。この彼氏へのメール以外に、彼女は自殺を図る直前にも家族やあの友人にはお別れを言うべきだったな、などと思っている。そして睡眠薬を飲んで布団に入るときに初めて「もう目が覚めないんだ」と気づき、恐怖する。
 こんなものなのだろうか。こんなものかもしれない。私にはよくわからない。ただ、うまくいえないが、死というものに現実味が薄れてきているのが現代の日本なのかなと思う。人間はそんなに簡単に死んではいけないと思うし、死ぬと口に出してはいけないと、理屈とかではなく私は思っている。

書評④

2007-07-06 01:30:20 | saitouhiro
書評④ (2007/6/14)                   hirohisa

山田太一『飛ぶ夢をしばらく見ない』新潮文庫,1988年

 テレビの脚本作家(代表作:『ふぞろいの林檎たち』など)として有名な山田太一氏の小説。もう何冊か読んだが、リアルな精神描写が多い。
 今回の本のあらすじ。ある企業で、ある程度の地位を確立したが行き詰まり、多大なストレスを感じて神経性不眠症、胃腸神経症、頻尿症を患い、そしてふとしたことで精神的異常をきたし建物の二階から飛び降り怪我をして入院した48歳男性。その男性が入院生活のある一晩だけ、ひょんなことからある女性と衝立越しに同室になる。そこで不思議な体験をする。うろ覚えだったはずの詩の話をしたり、言葉での性交をしたり・・・。その体験はひどく刺激的だったが、その性交相手はなんと67歳の老婆であった。
 退院後、その女性が男性の前に現れる。明らかに見た目40歳代という肉体的に若返った美しい姿で。
 社会からはみ出してしまった男性とみるみる若返っていく女性との激しい愛。それがファンタジックに描かれる。
 印象に残ったのは、若返っていく女性が言った「感情って、かなり肉体的なものに支配されるのね。」というセリフ。老婆からどんどん肉体的に若返って肌がみずみずしくなり、身体が軽くなり、生気のみなぎった状態になると、感情の感じ方も変わる。67歳のときにはもうこのまま老いて死んでいくとしか考えなかった老婆が、若返っていくとあれもやりたいこれもやりたい、しかしどんどん若返りが進行するものだから焦って突拍子もないことをしていく。本当は精神的には67歳の老婆のまま。それでも、みずみずしい身体だとものの見方や感じ方が変わってしまう。
 私は今、肉体的な若さというものを当たり前のように感じて暮らしている。この身体がいうことをきかなくなるなどとあまり想像できない。だから、何か感じたときにそれが肉体のせいだなどと感じることはない。
 ふつう、「年齢によって考え方や見方が変わってくるよ」といわれる。しかしそうなのだろうか?思うに、年齢ではなく、肉体的変化によって考え方や見方、感じ方が変わってくるのではないだろうか。何かを経験したことで視野が広がるとか考え方が変わるというのは、きっと経験によって引き起こされた肉体的な変化によるものなのだろう。こういうのを心身合一とでもいうのだろうか。よくわからないが。
 ということは、十全な肉体をもっていれば、もしくはそのような肉体を求めて努力すれば、世界が変わって見えるということだ。そして身体を動かさなかったら動かさなかったで肉体の衰えがおこり、世界観が変わる。ところで、今の子どもたちは身体を動かす機会が少なく、身体能力が低下してきているといわれる。その子たちが大人になったら一体どうなるのだろう。どのような世界観をもち、考え方をしていくのだろう。少し考えてみると、私にはとてもおそろしいことに思えてくる。 体力のない肉体に、確固とした理念とか信念などが宿るのだろうか・・・。

書評③(5/10)

2007-05-13 19:18:50 | saitouhiro
書評 (2007/5/10)                hirohisa
 「へんてこで、よわいやつはさ、けっきょくんとこ、ひとりなんだ。ひとりで生きてくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない。なんでだか、ねこ、おまえわかるか」(中略)「それがつまり、へんてこさに誇りをもっていられる、たったひとつの方法だから」(いしいしんじ『麦ふみクーツェ』新潮文庫,2005,p391-392より抜粋)
 児童文学を主に書くいしいしんじさんの作品。人より大きい図体をした、ねこの鳴きまねが本物のようにうまい少年「ねこ」。少年そっちのけで数学に没頭する父と、ねこ少年を楽器のように育てる、音楽に極めてうるさい名ティンパニストの祖父が家族。そんなねこ少年がある日、屋根裏で「とん、たたん、とん」と麦ふみするクーツェと出会うことをきっかけに、さまざまな音楽や人々やへんてこな事件に触れながら、ねこ少年が成長していく物語。現実にはありそうもない出来事が次々と起こるし、小説全体を通して音楽にあふれている。どんな音楽かを想像してみるだけでも楽しい。小説の世界に入って聞いてみたくなる。ファンタジックな展開の中に、哲学的な文も織り交ぜられ、きっと大人が読んでいても飽きないだろう。私は最後まで一気に読んだ。
 抜粋した文章は、物語後半、ねこが音楽の勉強のために師事した小さな盲目のチェリストの言葉と、その言葉に対するねこの応答。「へんてこ」で「よわいやつ」は世の中で疎外される。それでも生きなければならない。そのために、「わざ」を磨く。それが役に立つかどうか関係なく。そして途方も無い努力の末に「誇り」を手に入れる。
 私が思うに、今の世の中の人たち(日本人)は「へんてこ」になることを恐れ嫌う。「へんてこ」にならないように、周りを見回し、あらゆることをある程度できるようにする。みんなして同じ事をして、みんなで顔を見合わせ安心する。そしていざ「へんてこ」なやつを見つけたら、そいつにちょっかいを出す。それは際限なくエスカレートしていく。そのような事象を見て、より「へんてこ」になることを嫌う人が増えていく。一方、「へんてこ」とされた人は、ひどい目にあおうが耐えるしかない。「へんてこ」嫌いな世の中だから、逃げ場が無い。「わざ」を磨こうにも持っていない、もしくは何が自分の「わざ」なのかもわからない。
 上記は、「へんてこ」を「自分」、「わざ」を「夢」もしくは「希望」と読み換えることができるのではないか。本当に生きにくい世の中だと思う。
 私は、「へんてこ」でありたい。「わざ」を磨いていきたい。そして自分以外の人の「わざ」も受け入れたい。そう思っている。
 あなたは「へんてこ」ですか?「わざ」を磨いていますか?


書評②(4/26)

2007-05-13 19:16:47 | saitouhiro
書評 (2007/4/26)                hirohisa
無着成恭 『山びこ学校』 岩波書店 1995年

 まずお詫び。先週(4/19)、齋藤孝『読書力』の書評を書いたのは私です。無記名になっていました。申し訳ありません。
 今回は、有名な本である『山びこ学校』について。戦後まもなく、山形県山元村、山元中学校にて生活綴方教育を実践し続けた無着成恭先生が、子どもたちの「綴方」を集めて文集にした本である。「綴方」というのは児童生徒が書く作文のようなもの。あまり制限はない。思っていることを書く。昭和初期に鈴木三重吉が推し進め、盛んな教育運動になっている。無着成恭は綴方を書かせることで、素直に自分の考えや思いを文章という形に残す訓練や、生活に関する「なぜ」「どうして」を考える訓練、また幅広い視点を持つことを子どもたちに促している。この本の初版は戦後まもなくに出版されているが、この本が戦後の生活綴方運動復活のきっかけとなったと評価され、一時期生活綴方を実践する教師が爆発的に増えたという。
この『山びこ学校』に掲載されている綴方の中身は、友達と遊んだこと、家族と話したこと、学校での出来事、自然(花、虫など)に関して思ったこと、貧乏な暮らしのことなどである。そこには山形県の厳しい気候や経済状況を目の当たりにしながら生活する子どもたちの思ったことや考えたことが素直に書かれている。
たとえば、学校の教科書を買うためにお金を親からもらわなければいけない。けれど最近すでにいろいろな出費があってお金が不足していることを知っている。どうしよう。教科書代をもらうのに気が引ける、というようなこと。とにかく文章が素直である。飾り気はいっさいない。修辞や美文調などみるかげもない。今の子どもたちにそのような文章が書けるだろうか。学校での態度まで評価されるようになった時代である。そのまま率直に思ったことを書けというのも酷なことであろう。
 他の特徴としては、綴方の内容が子どもたちの生活に即したものであり、その生活の実体験から「なぜ」を引き出して、論理的に文章を書く子どもが多い。ときには統計資料なども持ち出して、私たちの生活が苦しいのはこういう原因が考えられる、といったことを書いている子もいる。社会全体をとらえる視点を持っているのだ。
 山元中学の子どもたちと比較して、今の子どもたちが素直じゃないとは言えない。昔の子どもたちの方が優れているなどということもない。だが、子どもたちが素直にさせないような装置が学校、もしくは世の中に組み込まれているのではないかとこの本を読んで思った。

書評①(2007/4/19)

2007-05-13 19:14:33 | saitouhiro
書評 (2007/4/19) hirohisa
齋藤孝 『読書力』 岩波新書 2002年

 現在の日本において、特に若者が読書を軽視している。読書が日本の地力だと考えている著者が読書をおろそかにするのはまずいという危機感をもつことで書かれた読書のススメ。著者は、読書はすべきものであり、習慣化すべき「技」であると主張する。
根拠は二点。一つ目は、読書は自己形成において大きな役割を果たすということ。本は一人で読む物である。一人になる時間を確保できるし、本の著者と対峙しながら自分と向き合う体験ができる。また、多くの言葉や考えに出会い、たくさんのわかったことやわからなかったことを自分の中に溜めることで、自分を成長させることができると主張する。二つ目は、読書を通じてコミュニケーション能力の基盤ができること。つまり、書き言葉という普段の話し言葉と違う洗練された言葉にふれることで、自分の言葉遣いなどの幅を広げることができるという。ただし、本なら何でもよいというわけではない。著者いわく、「精神の緊張を伴う読書」のできる本。つまりただ気楽に読めるような娯楽本ではなく、真剣に本と向き合わないと理解できないような人間の精神の深いところに届く本を読むことが大切であるという。また、本を読めるという基準は、その本の要約ができるということであるとする。
齋藤氏の本を何冊か読んでいるが、ここまで私的な文章の本はめずらしい。著者は読書が大好きで、本を読まないなど言語道断と怒り心頭である。本を読む、読まないに自由があると読書を習慣化している人が言おうものならふざけるなと言いたいらしい。少し語気が荒い本である。
私は読書を習慣とし始めたのは大学入学一年前の浪人中である。高校卒業まで全く読まなかった。しかしいったん読み始めると、本がもつ魅力にとりつかれた。自己形成に大きな影響を与えたという実感もある。ではなぜそのときまで読まなかったのか。振り返ってみると、本を個人的に薦めてくれる人がほとんどいなかった。そして本の読み方もわからなかった。一行一行几帳面に読んで、言葉を目で追っていくだけで何もおもしろさを感じなかった。言葉からの想像を欠いていたのだ。
私は、学校でもっと読書指導があってよいと思う。朝の10分間読書が推進されるが、それ以外にいろいろあってほしい。たとえば授業以外の児童生徒とふれあう時間に、先生が意識的に、また個人的におすすめの本を紹介するような気遣いがあってほしい。それには先生の、児童生徒を見極める目が必要になるが。また、学校図書館司書教諭という役職ももっと有効に活用してほしい。