八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

三条実美⑨

2010年09月18日 08時20分01秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

今日も良い天気ですね。こんにちわI権禰宜です。

さて今回は忘れた頃に再開する実美卿のお話。

政府首脳の半分がメンバーに選ばれた「岩倉使節団」が欧米へと旅立ったのち、陸軍大将・西郷隆盛を事実上の首班とする「留守政府」は廃藩置県を始め、次々に新改革を推し進めていきました。

そんな留守政府の中で持ち上がったのが対朝鮮問題でした。

当時の朝鮮は清王朝の皇帝より認められた李氏の国王が統治する政体で、自らを中華帝国に次ぐ存在・・・「小中華」と称し、良く言えば「誇り高い」・・・悪く言えば「驕り昂ぶった」国でした。

維新後、明治政府は朝鮮に日本の新政府発足と、江戸幕府からの日朝国交を引き続き求めましたが、朝鮮は日本の欧米化を野蛮なものであると侮蔑し、これを拒絶してしまいます

明治政府はなおも朝鮮に対して国交再開を求めましたが、一種の攘夷政策をとっていた朝鮮は頑なにこれを拒み、「日本人はすでに欧米の国々と交わって禽獣と変わりない」などと吐き捨てて日本公館に国外退去を命じるなど、愈々排日の気風を強くしていったのでした。

ここに至って日本国内でも「朝鮮の傲慢無礼な態度を許すまじ」という世論が高まり、留守政府の閣僚の一人であった参議・板垣退助から朝鮮における居留民保護の為の派兵が主張されました。これが所謂「征韓論」の始まりになります。

この「征韓論」には西郷大将は「武力を用いずとも自分を使者として朝鮮へ遣わせてもらえれば、朝鮮を開国させてみせる」として早急の征韓には反対の立場をとります。この西郷大将の意見に板垣をはじめ、後藤象二郎、江藤新平ら留守政府閣僚達もおおよそ納得し、西郷大将の派遣が一応決定します。

ただし太政大臣・三条卿は明治天皇より「これは国家の重大事であるから岩倉達の帰国を待ち、熟考した後に再度上奏せよ」との言が下ったため、正式な決定は岩倉らが帰国してからとなったのでした。~つづく~

I権禰宜