野町和嘉「写真」を巡って。
写真の未来。
何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(3)
何故「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉で、話を進めなければならないのか。?
についてお話しします。
先日TVで、ある高名な経済学者が言っていました。私は来世や輪廻を信じない。死んだら塵芥になり無になってしまうと。そして、今の政治や政治家はなっていない。これでは日本の将来が思いやられると。
しかし、来世に自分が生まれ変わり、その時に政治が酷いことになっていたら困る。というのであれば分かるのだが、生まれ変わりもせず、自分がそこにはいない未来を心配するのは、単なるエゴである。しかも、その来世や輪廻を信じないという思考も、学者らしくない根拠の薄い心情論なのである。
日本の知識人と言われる人には、科学を信じて、死んだら無になるという人と、この経済学者のように、これが日本人の心情であるなどと、確か福沢諭吉がそう言っていたとか、などの、根拠の薄い心情論で、死んだら無になると思っている人が多い。そもそも、輪廻を信じていない人が、自分がいない未来を評し、憂うというのは、非論理的で論理に生きる学者として無責任ではないか。
キリスト教社会では、自分の死後も神が社会を見守ってくれているので、未来への憂いや心配を、神に託すことができて、少なからず責任は持てるのですが。日本の死んだら無になるといっている知識人のほとんどは無宗教であり、唯一信じているのが科学だったりするので、それでいて、信じる科学に本当に死んだら無になってしまうのかを聞いたこともなく、自分のこの思考が何処から来て、科学的に論理的に吟味され、自分でも十分に納得できる思考だと確信を持っている訳でもない。学者でありながら、あたかも誰かにマインドコントロールされているかのようなのです。
先回もお話ししましたが、科学の宇宙論で、地球(惑星)や宇宙の生死を研究するのであれば、人間の生死、つまり「死んだらどうなるのか」を、科学も政治もすべての学者が真剣に研究して欲しいと思う。
良き未来を語るとは、子孫のためだけでなく、自らが生まれ変わる来世のことであれば、切実で実り多き研究となるのではないでしょうか。
では仏教は、どう考えているのでしょうか。
釈迦は、自分の過去のことを知ろうと思うなら、現在を知ればいい。未来のことを知ろうと思うなら、現在を知ればいいと言っています。
つまり、因果論(因縁起生)により説明しています。
原因に条件(縁)が加われば、結果がある。という考えで、例えると、この世で種(原因)を作り、来世で土に植え水をまけば(縁)芽が出る(結果)。ということです。更に原因が条件になったり、結果が原因になったり、あっちの原因がこっちの結果や条件であったり、複雑系で量子論的にからみ合って世の中は出来ていると言っています。
その複雑系で量子論的なために、一つの結果がどうして生まれたかの原因を、過去に遡って捜しても、未来を捜しても、人間の頭脳では分からない。手にとって実感ができない。つまり「空」だと言っている。「空」は無なのではない、人間の能力では分からないということなのです。
仏教は、究極、成仏を願う宗教です。「仏」は、全知全能の存在を言いますから、当然人間の能力では分からない「空」でも仏はそれが何であるかが分かっています。
キリストの神も、全知全能ですから、ここで言う「空」とは何であるかが分かっています。
仏教とキリスト教の違いは、キリスト教徒の人間は、神になれず、神に己のすべてを任せることで信仰が成立していますが、仏教では、誰もが成仏、つまり神になれると言い、その信心により信仰が成立しています。
そのため、先の経済学者が来世や輪廻を、ただ根拠の薄い心情論で、私は信じていない。と言うのとは違い、仏教では、釈迦やその後にも多くの研究者が、様々な手段と深くて鋭い研究、整然とした論理により、来世や輪廻が研究されてきていて、その成果が、仏教徒の信ずるところとなっています。
つまり、このブログでは「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉を発して話を進めている。と言いましたが、先の経済学者にはそう見えるとは思いますが、仏教を研究している人たちには、古来より、仏や成仏の研究、つまり 「永遠無限全能」である「仏」の研究をしてきた訳ですから、私の「永遠無限全能」は荒唐無稽な言葉では無いことになります。
そして、キリスト教の人も、全智全能の神を知ろうとする努力をしますから、結局、「永遠無限全能」を研究する者ということになります。
仏教の根本は、仏になる、つまり「永遠無限全能」になるには、どんな方法があるのかを研究するということになります。
一方科学では、科学研究結果を、人間が安全に検証ができれば、それは科学的真理であると認定します。検証すると必ず人が死ぬという科学的真理を想定できますが、つまり、人類が死滅して神だけが残ることですが、これも結局、誰も検証済みとサインできないので科学的真理とは認められません。
さらに科学で「仏」の真理を検証するとすると、人間は「永遠無限全能」ではないので、それを検証する能力がない。また検証には普通の人間が許容できる確実な安全は存在しない。と考えます。つまり、科学者が宗教に対して取る態度は、宗教は人間にとって安全ではない。だから真理ではない。といっているように思うのです。
これは、研究態度に違いが有るのかもしれません。
宗教サイドから、科学とは何かを分析すれば分かるのではないでしょうか。
科学は、キリスト教社会の西洋で発展してきました。キリスト教下であるからこそ発展したとも言えます。例えば、宇宙が生まれたビックバンの以前は何。と問うと、総ては神が創造した世界から始まる。と、キリスト教徒科学者は答えます。
神はいないと言い,世界は神が創ったのではないと言う西洋の科学者も、神を認知しているゆえの発言ですから、別の神がいるということと同じです。
つまり科学は、全知全能の神が創造した全世界の、その真理の追求ではなく、その中の限られた部分世界の真理を追求する学問であり、そのことでは有能である。と、キリスト教社会では認識されているのです。
そこでは、輪廻、来世、死んだらどうなるかなどは、神の領域と考えられ、今日でも科学は関知していないのです。
「永遠無限全能」も、言葉にあるので確かに存在はするのですが、神の言葉の領域なので科学が探求すべき課題ではないとされるのです。だから極端に言うと、科学を信ずる人は、総てキリスト教徒であるとも言えます。
そしてキリスト教で「永遠無限全能」とは、キリストや神に帰依して、聖職者にならなければ探求する資格がない課題とも言えます。
前に見たように、科学の真理は「人に安全」ですが、聖職者になるということは、大学で研究勉強するのとは違い、身も心も神に捧げ、神の御心に沿うなら命を失ってももかまわないという「人に危険」な作業に従事する事になり、科学の真理に反します。
ここが科学と宗教、特にキリスト教と科学の対立を生む原因の一つでもあります。
「永遠無限全能」を知るということは、自らが「永遠無限全能」でなければ知りえません。これは論理的であり科学でも正しのですが、知りたいと欲すれば、キリスト教では、宇宙服のない宇宙飛行士のように、特攻隊精神で永遠に未知である領域に旅立たざるを得ないのです。
では仏教はどうなのでしょうか。
仏教は、全ての人が成仏を目指しますから、「永遠無限全能」を解明し理解しようとします。言葉の意味の「永遠無限全能」だけでなく、肉体や生物、環境、物質、地球、宇宙など総ての主羅万象の「永遠無限全能」を考えます。真理の追求ならば、科学の宇宙論と仏教の宇宙論を比較検討することも厭いません。何しろ「永遠無限全能」ですから、なんの制限、範囲、限界もはじめから存在していません。
観音像に何本もの手や幾つもの頭や顔を付け、千手観音とすることまでして「永遠無限全能」を表現します。言葉で説明するためは、何千何万巻もの仏典で「永遠無限全能」とは何かを説明します。総てを説明し終わるには永遠の時と無量の仏典がこれからも必要になるでしょう。
仏教では、己の肉体の「永遠無限全能」も考えます。人の死は果たして有限ということなのだろうか。本当は「永遠無限全能」であるのに、有限と思い違いをしているのではないか。そうさせているものを業から発生する煩悩であると名付け、煩悩を消滅させれば「永遠無限全能」になれる。あるいは元から「永遠無限全能」であることが認識できる。と、そして用意周到に、その解消法も教えてくれます。
人間の精神(心)や肉体を「永遠無限全能」にする。或いは元から「永遠無限全能」であると認識する技法の一つが、密教の曼荼羅による瞑想法です。
タオやヨガで「気、プラーナ」と言われる、東洋独特の肉体を流れるエネルギーの考え方では、怒りや執着、セックスなどは肉体にエネルギーを発生させるといいます。そのエネルギーを利用して、肉体や感覚、精神を「永遠無限全能」のものに変えるなど、死んだら無になるとだけ考える科学の医学からは、意味不明で神秘としか思えない「永遠無限全能」を実現する技法もあります。
つまり、仏教は、キリスト教のような科学との住み分けは要求しません。科学で「死んだらどうなるのか」が分かれば大歓迎です。その成果で菩薩は、最後の人を成仏に導き、「全ての人が成仏しなければ私は成仏しないという」誓願が成就して、念願の如来(仏)になれるかもしれません。そうなれば我々も菩薩にならい成仏が近くなるというものです。
「生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死んで、死の終わりに冥し。」
と言った空海に、とうとう科学が「死んだらどうなるのか」を解明しました。と報告したくなる。
についてお話しします。
先日TVで、ある高名な経済学者が言っていました。私は来世や輪廻を信じない。死んだら塵芥になり無になってしまうと。そして、今の政治や政治家はなっていない。これでは日本の将来が思いやられると。
しかし、来世に自分が生まれ変わり、その時に政治が酷いことになっていたら困る。というのであれば分かるのだが、生まれ変わりもせず、自分がそこにはいない未来を心配するのは、単なるエゴである。しかも、その来世や輪廻を信じないという思考も、学者らしくない根拠の薄い心情論なのである。
日本の知識人と言われる人には、科学を信じて、死んだら無になるという人と、この経済学者のように、これが日本人の心情であるなどと、確か福沢諭吉がそう言っていたとか、などの、根拠の薄い心情論で、死んだら無になると思っている人が多い。そもそも、輪廻を信じていない人が、自分がいない未来を評し、憂うというのは、非論理的で論理に生きる学者として無責任ではないか。
キリスト教社会では、自分の死後も神が社会を見守ってくれているので、未来への憂いや心配を、神に託すことができて、少なからず責任は持てるのですが。日本の死んだら無になるといっている知識人のほとんどは無宗教であり、唯一信じているのが科学だったりするので、それでいて、信じる科学に本当に死んだら無になってしまうのかを聞いたこともなく、自分のこの思考が何処から来て、科学的に論理的に吟味され、自分でも十分に納得できる思考だと確信を持っている訳でもない。学者でありながら、あたかも誰かにマインドコントロールされているかのようなのです。
先回もお話ししましたが、科学の宇宙論で、地球(惑星)や宇宙の生死を研究するのであれば、人間の生死、つまり「死んだらどうなるのか」を、科学も政治もすべての学者が真剣に研究して欲しいと思う。
良き未来を語るとは、子孫のためだけでなく、自らが生まれ変わる来世のことであれば、切実で実り多き研究となるのではないでしょうか。
では仏教は、どう考えているのでしょうか。
釈迦は、自分の過去のことを知ろうと思うなら、現在を知ればいい。未来のことを知ろうと思うなら、現在を知ればいいと言っています。
つまり、因果論(因縁起生)により説明しています。
原因に条件(縁)が加われば、結果がある。という考えで、例えると、この世で種(原因)を作り、来世で土に植え水をまけば(縁)芽が出る(結果)。ということです。更に原因が条件になったり、結果が原因になったり、あっちの原因がこっちの結果や条件であったり、複雑系で量子論的にからみ合って世の中は出来ていると言っています。
その複雑系で量子論的なために、一つの結果がどうして生まれたかの原因を、過去に遡って捜しても、未来を捜しても、人間の頭脳では分からない。手にとって実感ができない。つまり「空」だと言っている。「空」は無なのではない、人間の能力では分からないということなのです。
仏教は、究極、成仏を願う宗教です。「仏」は、全知全能の存在を言いますから、当然人間の能力では分からない「空」でも仏はそれが何であるかが分かっています。
キリストの神も、全知全能ですから、ここで言う「空」とは何であるかが分かっています。
仏教とキリスト教の違いは、キリスト教徒の人間は、神になれず、神に己のすべてを任せることで信仰が成立していますが、仏教では、誰もが成仏、つまり神になれると言い、その信心により信仰が成立しています。
そのため、先の経済学者が来世や輪廻を、ただ根拠の薄い心情論で、私は信じていない。と言うのとは違い、仏教では、釈迦やその後にも多くの研究者が、様々な手段と深くて鋭い研究、整然とした論理により、来世や輪廻が研究されてきていて、その成果が、仏教徒の信ずるところとなっています。
つまり、このブログでは「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉を発して話を進めている。と言いましたが、先の経済学者にはそう見えるとは思いますが、仏教を研究している人たちには、古来より、仏や成仏の研究、つまり 「永遠無限全能」である「仏」の研究をしてきた訳ですから、私の「永遠無限全能」は荒唐無稽な言葉では無いことになります。
そして、キリスト教の人も、全智全能の神を知ろうとする努力をしますから、結局、「永遠無限全能」を研究する者ということになります。
仏教の根本は、仏になる、つまり「永遠無限全能」になるには、どんな方法があるのかを研究するということになります。
一方科学では、科学研究結果を、人間が安全に検証ができれば、それは科学的真理であると認定します。検証すると必ず人が死ぬという科学的真理を想定できますが、つまり、人類が死滅して神だけが残ることですが、これも結局、誰も検証済みとサインできないので科学的真理とは認められません。
さらに科学で「仏」の真理を検証するとすると、人間は「永遠無限全能」ではないので、それを検証する能力がない。また検証には普通の人間が許容できる確実な安全は存在しない。と考えます。つまり、科学者が宗教に対して取る態度は、宗教は人間にとって安全ではない。だから真理ではない。といっているように思うのです。
これは、研究態度に違いが有るのかもしれません。
宗教サイドから、科学とは何かを分析すれば分かるのではないでしょうか。
科学は、キリスト教社会の西洋で発展してきました。キリスト教下であるからこそ発展したとも言えます。例えば、宇宙が生まれたビックバンの以前は何。と問うと、総ては神が創造した世界から始まる。と、キリスト教徒科学者は答えます。
神はいないと言い,世界は神が創ったのではないと言う西洋の科学者も、神を認知しているゆえの発言ですから、別の神がいるということと同じです。
つまり科学は、全知全能の神が創造した全世界の、その真理の追求ではなく、その中の限られた部分世界の真理を追求する学問であり、そのことでは有能である。と、キリスト教社会では認識されているのです。
そこでは、輪廻、来世、死んだらどうなるかなどは、神の領域と考えられ、今日でも科学は関知していないのです。
「永遠無限全能」も、言葉にあるので確かに存在はするのですが、神の言葉の領域なので科学が探求すべき課題ではないとされるのです。だから極端に言うと、科学を信ずる人は、総てキリスト教徒であるとも言えます。
そしてキリスト教で「永遠無限全能」とは、キリストや神に帰依して、聖職者にならなければ探求する資格がない課題とも言えます。
前に見たように、科学の真理は「人に安全」ですが、聖職者になるということは、大学で研究勉強するのとは違い、身も心も神に捧げ、神の御心に沿うなら命を失ってももかまわないという「人に危険」な作業に従事する事になり、科学の真理に反します。
ここが科学と宗教、特にキリスト教と科学の対立を生む原因の一つでもあります。
「永遠無限全能」を知るということは、自らが「永遠無限全能」でなければ知りえません。これは論理的であり科学でも正しのですが、知りたいと欲すれば、キリスト教では、宇宙服のない宇宙飛行士のように、特攻隊精神で永遠に未知である領域に旅立たざるを得ないのです。
では仏教はどうなのでしょうか。
仏教は、全ての人が成仏を目指しますから、「永遠無限全能」を解明し理解しようとします。言葉の意味の「永遠無限全能」だけでなく、肉体や生物、環境、物質、地球、宇宙など総ての主羅万象の「永遠無限全能」を考えます。真理の追求ならば、科学の宇宙論と仏教の宇宙論を比較検討することも厭いません。何しろ「永遠無限全能」ですから、なんの制限、範囲、限界もはじめから存在していません。
観音像に何本もの手や幾つもの頭や顔を付け、千手観音とすることまでして「永遠無限全能」を表現します。言葉で説明するためは、何千何万巻もの仏典で「永遠無限全能」とは何かを説明します。総てを説明し終わるには永遠の時と無量の仏典がこれからも必要になるでしょう。
仏教では、己の肉体の「永遠無限全能」も考えます。人の死は果たして有限ということなのだろうか。本当は「永遠無限全能」であるのに、有限と思い違いをしているのではないか。そうさせているものを業から発生する煩悩であると名付け、煩悩を消滅させれば「永遠無限全能」になれる。あるいは元から「永遠無限全能」であることが認識できる。と、そして用意周到に、その解消法も教えてくれます。
人間の精神(心)や肉体を「永遠無限全能」にする。或いは元から「永遠無限全能」であると認識する技法の一つが、密教の曼荼羅による瞑想法です。
タオやヨガで「気、プラーナ」と言われる、東洋独特の肉体を流れるエネルギーの考え方では、怒りや執着、セックスなどは肉体にエネルギーを発生させるといいます。そのエネルギーを利用して、肉体や感覚、精神を「永遠無限全能」のものに変えるなど、死んだら無になるとだけ考える科学の医学からは、意味不明で神秘としか思えない「永遠無限全能」を実現する技法もあります。
つまり、仏教は、キリスト教のような科学との住み分けは要求しません。科学で「死んだらどうなるのか」が分かれば大歓迎です。その成果で菩薩は、最後の人を成仏に導き、「全ての人が成仏しなければ私は成仏しないという」誓願が成就して、念願の如来(仏)になれるかもしれません。そうなれば我々も菩薩にならい成仏が近くなるというものです。
「生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死んで、死の終わりに冥し。」
と言った空海に、とうとう科学が「死んだらどうなるのか」を解明しました。と報告したくなる。
何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(2)
先に、65歳を過ぎると次の世のこと、つまり「死んだらどうなるか」を考えるようになると言いました。つまり、余命の約20年より、もっと長い、来世のことを考えた方が合理的であるからです。
ですから、普通には、年老いたら、死が訪れるのを心静かにして待つ。が、年寄りの理想などと言われていますが、しかしその先の「死んだらどうなるのか」が分からなくて、どうして心静かにしていられようか。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。と、最近まで懸命に願い努力して来た者が、「死んだらどうなるのか」の答えが、皆目わからないことに、我慢ができるものなのだろうか。 死が訪れるのを心静かに待つ老後とは、 真剣に探求しても「死んだらどうなるのか」なんて、分かりっこない。だから諦めなさい。という、その諦めの心静かなのでしょうか。
宇宙の誕生や死には、どうやらビックバンが絡んでいると、科学が解明したようなのですが、それが分かったのなら、人の「死んだらどうなるのか」についても、政治は科学に予算を付けて、研究開始の勧告をして欲しいものだ。
でも、ひょっとして宗教では「死んだらどうなるのか」はもう解明されていて、例えば、密教というつまり秘密にされていて大ぴらには明かしてはいけない教えがあるので、そこにはもう答えがあるのかもしれない。何かの理由で秘密になっているのなら、情報公開法を適用してもらえないものだろうか。昔の漢語やサンスクリット語チベット語で書かれてあるなら、現代語に翻訳して、誰でもが見られ誰でもが理解できるようにして欲しいものだ。
私はいま老境を迎えているので、若者と比べると時間的には、死は早くやってくることになっている。私の祖母はこの歳には「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱え成仏を願い極楽に往く準備をしていた。 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると、来世には仏になれるので、つまり今の私より「死んだらどうなるのか」を分かっていたことになる。死の不安を和らげるカウンセリングの癒しなど他者から求めようとせず、自ら心を整え死と向かい合っていたことになる。
でも、今の無信心の現代日本人は、 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると成仏できることを、科学は証明していないので、つまり「死んだらどうなるのか」が分かっていないので、 当面の死に向かう不安を和らげてもらうために、私も含めて、カウンセリングを受けるような、肉親や宗教者などの他者からの癒しを求めているのではないでしょうか。
でもその癒しで、死の水際、わずかな生の間際の不安は薄れるかもしれませんが、死んでしまった後も、その癒しやカウンセリングの効力は持続すると、科学は証明してくれるのでしょうか。
よく観察してみて欲しい。私の祖母のように、「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏していたのは、当面の死の不安を癒すために念仏を唱えているのではありません。成仏して極楽に往く目的のために念仏を唱えているのです。成仏すると苦しみも悲しみも無くなるので、癒しなど必要なくなると知っているからなのです。
仏教は、死に向かう不安を和らげる癒しやカウンセリングではありません。死そのものを成仏に変え、無効にしてしまおうとする合理的な考え方なのです。
何故「死んだらどうなるのか」を科学は考えないのでしょうか。それを考えないでいて、心理カウンセリングや終末医療、あるいは心情的、感情的な癒しでなどで、 当面の死に向かう不安を和らげることだけを考えているように思います。
科学は、長年研究を尽くして努力したが、「死んだらどうなるのか」は分からなかった。とは結論してはいません。ただ、怠慢なだけなのです。
だから科学を信じる現代日本人は「死んだらどうなるのか」など分からない。と諦めてはいけません。
ですから、普通には、年老いたら、死が訪れるのを心静かにして待つ。が、年寄りの理想などと言われていますが、しかしその先の「死んだらどうなるのか」が分からなくて、どうして心静かにしていられようか。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。と、最近まで懸命に願い努力して来た者が、「死んだらどうなるのか」の答えが、皆目わからないことに、我慢ができるものなのだろうか。 死が訪れるのを心静かに待つ老後とは、 真剣に探求しても「死んだらどうなるのか」なんて、分かりっこない。だから諦めなさい。という、その諦めの心静かなのでしょうか。
宇宙の誕生や死には、どうやらビックバンが絡んでいると、科学が解明したようなのですが、それが分かったのなら、人の「死んだらどうなるのか」についても、政治は科学に予算を付けて、研究開始の勧告をして欲しいものだ。
でも、ひょっとして宗教では「死んだらどうなるのか」はもう解明されていて、例えば、密教というつまり秘密にされていて大ぴらには明かしてはいけない教えがあるので、そこにはもう答えがあるのかもしれない。何かの理由で秘密になっているのなら、情報公開法を適用してもらえないものだろうか。昔の漢語やサンスクリット語チベット語で書かれてあるなら、現代語に翻訳して、誰でもが見られ誰でもが理解できるようにして欲しいものだ。
私はいま老境を迎えているので、若者と比べると時間的には、死は早くやってくることになっている。私の祖母はこの歳には「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱え成仏を願い極楽に往く準備をしていた。 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると、来世には仏になれるので、つまり今の私より「死んだらどうなるのか」を分かっていたことになる。死の不安を和らげるカウンセリングの癒しなど他者から求めようとせず、自ら心を整え死と向かい合っていたことになる。
でも、今の無信心の現代日本人は、 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると成仏できることを、科学は証明していないので、つまり「死んだらどうなるのか」が分かっていないので、 当面の死に向かう不安を和らげてもらうために、私も含めて、カウンセリングを受けるような、肉親や宗教者などの他者からの癒しを求めているのではないでしょうか。
でもその癒しで、死の水際、わずかな生の間際の不安は薄れるかもしれませんが、死んでしまった後も、その癒しやカウンセリングの効力は持続すると、科学は証明してくれるのでしょうか。
よく観察してみて欲しい。私の祖母のように、「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏していたのは、当面の死の不安を癒すために念仏を唱えているのではありません。成仏して極楽に往く目的のために念仏を唱えているのです。成仏すると苦しみも悲しみも無くなるので、癒しなど必要なくなると知っているからなのです。
仏教は、死に向かう不安を和らげる癒しやカウンセリングではありません。死そのものを成仏に変え、無効にしてしまおうとする合理的な考え方なのです。
何故「死んだらどうなるのか」を科学は考えないのでしょうか。それを考えないでいて、心理カウンセリングや終末医療、あるいは心情的、感情的な癒しでなどで、 当面の死に向かう不安を和らげることだけを考えているように思います。
科学は、長年研究を尽くして努力したが、「死んだらどうなるのか」は分からなかった。とは結論してはいません。ただ、怠慢なだけなのです。
だから科学を信じる現代日本人は「死んだらどうなるのか」など分からない。と諦めてはいけません。
何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(1)
「何故」、はじめから答えが分かっている「死んだらどうなるか」を考えようなどと思ったのか。?「何故」、そのために「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉で、話を進めなければならないのか。?
このまま説明しないで先に進むと、本当に荒唐無稽な話に思われてしまうので、今回は、その「何故」を説明したいと思います。
現代日本では、 多くの人が科学を信じているので、死ぬと肉体は無くなる、だから人は死んだら無になってしまう。と、でも昔から、魂は残ると言われているが、でも魂の存在を科学は証明していないので、有るのか無いのか正直自分には良くわからない。
宗教を信ずる人は、宗教が言う死後を信じていると思うのですが、でもそれは、科学で証明されていないので、信じる気にはなれない。だから私は「死んだらどうなるか」は分からないでいる。
これが現代日本人の多くの人の気持ちであると思う。
宇宙の誕生や誕生以前、そして、宇宙の死とその後は、宇宙論として盛んに研究と議論が重ねられているのに、人間が「死んだらどうなるか」は、 科学者の知識も、死んだら肉体は消滅する程度のレベルで、それ以上の研究を見たことがない。
この科学の怠慢に疑問を抱かずに、科学を信じて、 死んだら肉体は無くなるので、人は無になってしまう。と思ってしまうことに、私は、昔からずっと疑問を感じていたのです。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためには、科学を始め、哲学、倫理、経済、生活の知恵、占い、おまじないに至るまで、多くの手段が準備されているのに、「死んだらどうなるか」については、宇宙論を展開する科学者といえども、宗教に任せっきりで、つまり生きている間のことには真剣なのに、現代人は「死んだらどうなるか」には何故淡白なのだろうか。
肉親を失い悲嘆にくれる人には深い同情を寄せるのだが、その悲嘆の原因である死んだ人が今どうなているのか、つまり「死んだらどうなるか」を考えようともしない。死は次に自分にやって来るかもしれないのに、「無」になってしまうという恐ろしい答えがわかっているので考えても仕方がないと思っているのだろうか。宇宙の誕生や死は、科学ではビックバンとか言って分かっていることになっているのに、人の「死んだらどうなるか」は、放ったままにされて何も知らされていない。
宗教に対しても誤解がある。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためにのみ宗教があると思っている。死んだら無になってしまうという結論が始めからあるので、宗教にも「死んだらどうなるか」より、現世での幸せの方法のみを求めているようなのだ。
癒しを与えてくれる宗教者を敬い、褒めたたえているが、その宗教者が何故、癒しを与えようとしているのかを知らないし、知ろうともしない。それを知ることが宗教の信心の始まりになるのに、現世の苦しみを和らげてくれる優しい姿をした宗教者のみを真の宗教者と思っている。
宗教は仏教は、誕生、生、死、死後を説明してくれている。そしてその生と死の輪廻から離れる方法(成仏)を教えてくれます。
癒しが必要になる苦しみを、癒すのではなく、苦しみそのものを元から断とうとするのが、お釈迦様の意図なのです。
もっと言えば、元から断つとは、苦しい楽しいの二元論を止める生活を始めることなのです。つまり、仏教は真に合理的なのです。
こんなふうにお話すると、「死んだらどうなるか」を、仏教で説明しようとしている理由を、少しはわかっていただけるのではないかと思いますが…。
このまま説明しないで先に進むと、本当に荒唐無稽な話に思われてしまうので、今回は、その「何故」を説明したいと思います。
現代日本では、 多くの人が科学を信じているので、死ぬと肉体は無くなる、だから人は死んだら無になってしまう。と、でも昔から、魂は残ると言われているが、でも魂の存在を科学は証明していないので、有るのか無いのか正直自分には良くわからない。
宗教を信ずる人は、宗教が言う死後を信じていると思うのですが、でもそれは、科学で証明されていないので、信じる気にはなれない。だから私は「死んだらどうなるか」は分からないでいる。
これが現代日本人の多くの人の気持ちであると思う。
宇宙の誕生や誕生以前、そして、宇宙の死とその後は、宇宙論として盛んに研究と議論が重ねられているのに、人間が「死んだらどうなるか」は、 科学者の知識も、死んだら肉体は消滅する程度のレベルで、それ以上の研究を見たことがない。
この科学の怠慢に疑問を抱かずに、科学を信じて、 死んだら肉体は無くなるので、人は無になってしまう。と思ってしまうことに、私は、昔からずっと疑問を感じていたのです。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためには、科学を始め、哲学、倫理、経済、生活の知恵、占い、おまじないに至るまで、多くの手段が準備されているのに、「死んだらどうなるか」については、宇宙論を展開する科学者といえども、宗教に任せっきりで、つまり生きている間のことには真剣なのに、現代人は「死んだらどうなるか」には何故淡白なのだろうか。
肉親を失い悲嘆にくれる人には深い同情を寄せるのだが、その悲嘆の原因である死んだ人が今どうなているのか、つまり「死んだらどうなるか」を考えようともしない。死は次に自分にやって来るかもしれないのに、「無」になってしまうという恐ろしい答えがわかっているので考えても仕方がないと思っているのだろうか。宇宙の誕生や死は、科学ではビックバンとか言って分かっていることになっているのに、人の「死んだらどうなるか」は、放ったままにされて何も知らされていない。
宗教に対しても誤解がある。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためにのみ宗教があると思っている。死んだら無になってしまうという結論が始めからあるので、宗教にも「死んだらどうなるか」より、現世での幸せの方法のみを求めているようなのだ。
癒しを与えてくれる宗教者を敬い、褒めたたえているが、その宗教者が何故、癒しを与えようとしているのかを知らないし、知ろうともしない。それを知ることが宗教の信心の始まりになるのに、現世の苦しみを和らげてくれる優しい姿をした宗教者のみを真の宗教者と思っている。
宗教は仏教は、誕生、生、死、死後を説明してくれている。そしてその生と死の輪廻から離れる方法(成仏)を教えてくれます。
癒しが必要になる苦しみを、癒すのではなく、苦しみそのものを元から断とうとするのが、お釈迦様の意図なのです。
もっと言えば、元から断つとは、苦しい楽しいの二元論を止める生活を始めることなのです。つまり、仏教は真に合理的なのです。
こんなふうにお話すると、「死んだらどうなるか」を、仏教で説明しようとしている理由を、少しはわかっていただけるのではないかと思いますが…。
「死んだらどうなるのか」(5)仏教・キリスト教・科学
これまでは、仏教の視点側から「死んだらどうなるの」を見てきました。今回は、 科学を信じて、そんなことは分からないのが常識と思っている、多くの現代日本人の側から、なぜそう思うのかを見てみたいと思います。
それは、科学が、西洋のキリスト教から生まれたことと関係しています。
キリスト教では、先ず、神(GOD)が世界の総てを創ります。そして科学の役割とは、神が創った世界の摂理を観察し探究することになります。神に代わってこの世を創り出すことではありません。神の真理である永遠無限全能ではなく、その中の局所的真理のみの探究を行います。ですから、宇宙誕生ビックバンの前は何から始まっているの。と、科学に問うと、それは神が創った世界から始まるというのが、キリスト教社会の科学では、暗黙の了解になっています。
つまり、キリスト教では、「死んだらどうなるの」は、死んだら神の御許へ、天国へ続く道があると教えられています。つまり科学を信ずることは、天国へ続く道があることも信じることになってしまうのです。
では、どうしたら、我々は神の御許へ行くことができるのでしょうか。
現世では一生をかけ、神の教えを真に理解し、守り、実行し、神から使わされたキリストに最後の審判を仰ぐことになります。 神の御許へ。のためには、主を愛し神の御心にかなう努力をしなければなりません。神とは全知全能つまり永遠無限全能の存在ですから、神の御心を理解することとは、その永遠無限全能を理解することになります。先に、仏教の成仏について、「仏になるには、永遠無限全能の存在にならなければならない」と言いましたが、キリスト教徒も、それと同じ努力を目指すことになります。
例えば、キリスト教の教えに、旧約聖書出エジプト記「モーゼの十戒」があります。
1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。
1から4戒までは、神に対して守るべき戒めです。これに対して、5から10戒は人との関係で守るべき戒めです。この戒めを守り実践すれば、最後の審判で、神の御許へが赦されます。キリスト教徒には、このように「死んだらどうなるのか」が分かる方法が示されています。
つまり、 1から4戒までは、全知全能の主の御心を知るための、心の有り様への教えであり。5から10戒は、主の御心を理解する平穏な日々のために、生活と社会を安定に維持する。そのための教えです。そして、 今日のキリスト教社会では、この戒めが、道徳、倫理、法律、社会的習慣などの総ての規範に反映され、個人として、社会的人間として生活するための基礎になっています。
一方、仏教の教えとは、最終目的は「成仏する」ことですが、そこに至るためには、キリスト教と同様に、さまざまな教えや戒があります。
モーゼの十戒の 5から10戒と同じものが仏教にもあります。
例えば在家が守るべき五戒には
不殺生戒 - 生き物を殺してはいけない。
不偸盗戒 - 他人のものを盗んではいけない。
不邪淫戒 - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
不妄語戒 - 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒 - 酒を飲んではいけない。
など、さらに僧侶が守るべき戒なども含めると仏教には他にも多くの戒が有ります。
以上のことから分かることは、「モーゼの十戒」の5から10戒に説かれている社会規範としての戒は、仏教とキリスト教はほぼ同じであることがわかります。もしこれが違っていたとしたなら、宗教発生からこれまで、約2000年の歴史の間、二つの世界では、人間の知性、感性、社会の道徳、倫理、法律、社会的習慣などは、大きく異なっていただろうし、お互いが他を完全に抹殺するまで戦う、途方もない大戦争もあったであろうし、今日、民主主義が、地球全体の僅かを除いて総てを覆い尽くす、曲がりなりにも平和な時代も来なかったであろうと思われます。
しかし「モーゼの十戒」の1から4戒までで違いはあるのでしょうか。
人は神にはなれないキリスト教と異なり、仏教の最終目的が「成仏する」ことですから、全く違ったことになります。
「モーゼの十戒」の、
1.わたしのほかに神があってはならない。
は、仏教では、自分が仏になるのですから、加えて、私もあなたも全員が仏になることを願いますから、多くの仏(神)が存在することになります。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
は、仏教では仏になるために、仏とは何かを真に理解するために「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏」など、仏の名を唱え、仏の永遠無限全能を現す種々の仏像を拝し、仏の様々なイメージを積極的に思い描きます。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
は、密教では、本尊(神)の姿や能力を瞑想し、本尊の眼の中の血管一本一本までをも瞬時に想起できる修業をしたりします。
丁度、磔刑で十字架に打ち付けられたキリストの、釘が刺さった掌の傷の細部までも想起しようと努める敬虔なキリスト教徒と同じ様にです。
ここまで両者を比較して考えてきました。そして「モーゼの十戒」の5から10戒の社会規範としての戒は、言葉上では、仏教もキリスト教も同じと言ってきました。しかしどうも、1から4戒がキリスト教と仏教とでは違いがあるのなら、5から10戒も、違うのではないだろうか。戒の目的が、二つの間では違うのではないかと。
そして、現代日本人が「死んだらどうなるの」に無関心な理由が 、ここにあるように思うのです。
それは、科学が、西洋のキリスト教から生まれたことと関係しています。
キリスト教では、先ず、神(GOD)が世界の総てを創ります。そして科学の役割とは、神が創った世界の摂理を観察し探究することになります。神に代わってこの世を創り出すことではありません。神の真理である永遠無限全能ではなく、その中の局所的真理のみの探究を行います。ですから、宇宙誕生ビックバンの前は何から始まっているの。と、科学に問うと、それは神が創った世界から始まるというのが、キリスト教社会の科学では、暗黙の了解になっています。
つまり、キリスト教では、「死んだらどうなるの」は、死んだら神の御許へ、天国へ続く道があると教えられています。つまり科学を信ずることは、天国へ続く道があることも信じることになってしまうのです。
では、どうしたら、我々は神の御許へ行くことができるのでしょうか。
現世では一生をかけ、神の教えを真に理解し、守り、実行し、神から使わされたキリストに最後の審判を仰ぐことになります。 神の御許へ。のためには、主を愛し神の御心にかなう努力をしなければなりません。神とは全知全能つまり永遠無限全能の存在ですから、神の御心を理解することとは、その永遠無限全能を理解することになります。先に、仏教の成仏について、「仏になるには、永遠無限全能の存在にならなければならない」と言いましたが、キリスト教徒も、それと同じ努力を目指すことになります。
例えば、キリスト教の教えに、旧約聖書出エジプト記「モーゼの十戒」があります。
1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。
1から4戒までは、神に対して守るべき戒めです。これに対して、5から10戒は人との関係で守るべき戒めです。この戒めを守り実践すれば、最後の審判で、神の御許へが赦されます。キリスト教徒には、このように「死んだらどうなるのか」が分かる方法が示されています。
つまり、 1から4戒までは、全知全能の主の御心を知るための、心の有り様への教えであり。5から10戒は、主の御心を理解する平穏な日々のために、生活と社会を安定に維持する。そのための教えです。そして、 今日のキリスト教社会では、この戒めが、道徳、倫理、法律、社会的習慣などの総ての規範に反映され、個人として、社会的人間として生活するための基礎になっています。
一方、仏教の教えとは、最終目的は「成仏する」ことですが、そこに至るためには、キリスト教と同様に、さまざまな教えや戒があります。
モーゼの十戒の 5から10戒と同じものが仏教にもあります。
例えば在家が守るべき五戒には
不殺生戒 - 生き物を殺してはいけない。
不偸盗戒 - 他人のものを盗んではいけない。
不邪淫戒 - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
不妄語戒 - 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒 - 酒を飲んではいけない。
など、さらに僧侶が守るべき戒なども含めると仏教には他にも多くの戒が有ります。
以上のことから分かることは、「モーゼの十戒」の5から10戒に説かれている社会規範としての戒は、仏教とキリスト教はほぼ同じであることがわかります。もしこれが違っていたとしたなら、宗教発生からこれまで、約2000年の歴史の間、二つの世界では、人間の知性、感性、社会の道徳、倫理、法律、社会的習慣などは、大きく異なっていただろうし、お互いが他を完全に抹殺するまで戦う、途方もない大戦争もあったであろうし、今日、民主主義が、地球全体の僅かを除いて総てを覆い尽くす、曲がりなりにも平和な時代も来なかったであろうと思われます。
しかし「モーゼの十戒」の1から4戒までで違いはあるのでしょうか。
人は神にはなれないキリスト教と異なり、仏教の最終目的が「成仏する」ことですから、全く違ったことになります。
「モーゼの十戒」の、
1.わたしのほかに神があってはならない。
は、仏教では、自分が仏になるのですから、加えて、私もあなたも全員が仏になることを願いますから、多くの仏(神)が存在することになります。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
は、仏教では仏になるために、仏とは何かを真に理解するために「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏」など、仏の名を唱え、仏の永遠無限全能を現す種々の仏像を拝し、仏の様々なイメージを積極的に思い描きます。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
は、密教では、本尊(神)の姿や能力を瞑想し、本尊の眼の中の血管一本一本までをも瞬時に想起できる修業をしたりします。
丁度、磔刑で十字架に打ち付けられたキリストの、釘が刺さった掌の傷の細部までも想起しようと努める敬虔なキリスト教徒と同じ様にです。
ここまで両者を比較して考えてきました。そして「モーゼの十戒」の5から10戒の社会規範としての戒は、言葉上では、仏教もキリスト教も同じと言ってきました。しかしどうも、1から4戒がキリスト教と仏教とでは違いがあるのなら、5から10戒も、違うのではないだろうか。戒の目的が、二つの間では違うのではないかと。
そして、現代日本人が「死んだらどうなるの」に無関心な理由が 、ここにあるように思うのです。
「死んだらどうなるのか」(4)仏教について
「死んだらどうなるか」について、3回お話ししてきましたが、読んでいただいた方から、ちょっと難しい。長い。との感想がありました。
少し気をつけながらお話しを続けようと思います。
本題に入りたいと思いますが、今までにお話ししたことを整理しながら進めたいと思います。
「死んだらどうなるか」は、死んでみなければ分からず、永遠のテーマと理解されています。もし、永遠を、言葉の上だけではなく、総て真に知ろうとすると、考える方もつまり我々も、永遠無限全能でなければ証明が成り立ちません。
今の常識では荒唐無稽のあり得ないことなのですが、でも昔の人は千年万年にもわたり深く考えてくれていて、その一つが仏教の教えであることが分かりました。
仏教では、成仏することが最終目的であり、仏とは永遠無限全能の存在であるからです。そしてその、永遠無限全能を実現する方法や技法のことが、仏教の教えのようなのです。
でもこれは、我々が知っている仏教の教えとは違うのではないでしょうか。
仏教の教えとは、普通には、
因果応報で悪いことをすると,それは自分に返って来ますよ。
殺生や盗み、嘘、強欲、姦淫をすると地獄に堕ちますよ。
怒ったり妬んだりすると、幸せになりませんよ。
幸福になるためには、人から愛されるのが、いちばんの近道です。
などの、有り難い人生の指針を教えてくれるものなのでは…。
また詳しく知っている方は、
この世の苦しみから、修業を積んで「悟りの世界」へ行くこと。(四聖諦)
物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。
などが仏教の教えなのでは…。
そしてこの「永遠無限全能の存在になることが、成仏です」は、 仏教の教えに、 入ってはいないのでは?、と。
しかし、仏教の最終目的は、仏になること(成仏)であり、その仏とは永遠無限全能の存在ですから、この考えは確かに仏教の最終目的と合致しています。また、多くの教えが、自らが永遠無限全能の存在にならなければ、実現出来ない困難なものばかりなので、この考えはむしろ成仏への基本条件の一つと言えるのではないかと思います。
また、科学的、論理的にも、それは人類が火星に住むと同じく、今は不可能でも、正しいのではないでしょうか。
しかし「永遠無限全能を実現する」のは不可能と、始めから決めてかかっている、想像力の乏しい現代日本人がいるのも事実なのです。
こうも考えられます、前に上げたその多くの教えは、等しく成仏を最終目的にしている教えですので、正しくは、修業の段階ごとのクリア目標(手段)なのではないでしょうか。?
輪廻を繰り返し何世にも渡り修業を続けるのですから、いつのまにか成仏への手段が目的へと変化してしまったのかも知れない。
例えば、何も考えず「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏できると思っていた私の祖母は、仏教についていろいろ考え過ぎている私と比べ、修業も終わりに近く、来世ぐらいには成仏できる羨ましい人だったのかも知れない。
同じ仏教でも、密教では、「永遠無限全能の存在になることが、成仏です」が最終目的になっています。
「生起次第」「究竟次第」。あるいは「梵我一如」で「悟り」に達し、成仏、つまり永遠無限全能の存在になることを目指します。
密教の方法は、先ず、永遠無限全能(宇宙)とは何かを知ることから始めます。(瞑想)
永遠無限全能を知るには、自らが永遠無限全能でなければ不可能なので、自分の感覚、 意識、 肉体、心を永遠無限全能に変える修業をするか,あるいは、初めから何をしなくても永遠無限全能であることを知ることにより、目標を達成しようとします。
本当にこんな事が教えとしてあるのか、と疑われる方が多いと思います。
密教は、密の字のように、何かの理由で秘密にされてきたので、その教えは表にされず一般には広がってはいなかったのですが、近年、ダライ・ラマを始め、チベット仏教の僧侶達が、積極的に、仏教経典を各国の言葉で現代語訳にして広めてこられ、今では知っている方も多いのではと思いますが、その中で、密教は、これは釈迦の教えの一部であると言っています。
このことが、私なりの解釈を言い、このブログを書いている動機になっています。
そしてまた何故「永遠無限全能の存在を実現する方法や技法のことが、仏教の教え」などど、奇想天外な解釈をして、お話しを進めるかというと、
ダライ・ラマの教えはチベットの人には現実的かも知れませんが、 現代日本人には異国的ですし、今の日本仏教からのアナウンスは単なる人生の指針の教えのようですし、また科学は「死んだらどうなるか」には無関心のようですので、新しいアプローチで、仏教が新鮮に感じられ興味をもっていただけるのではないかと思ったからです。
本題に入る前に、全体を理解しやすくするために、仏教の大凡の構成をお話ししておきたいと思います。
チベットでは、仏教には、「顕教」「密教」「ゾクチェン」が有ると言います。
この分類で言うと
日本では、一般の仏教は顕教に、空海の真言宗などは密教、 禅宗は密教とゾクチェンの間ぐらい、 法然親鸞の浄土宗はゾクチェンの種類に入るのかも知れません。
そして、
顕教は放棄の道。悪しきカルマを放棄し、苦と転生を生む原因(煩悩)を滅すること。
密教は変化の道。不浄なカルマによる不浄な顕現(例えば怒りなど)を、瞑想と真言の力で本尊の清らかな顕現へと変容させる。或いは、外の宇宙を観想し、内(身体)の宇宙を観想し、その二つのものが一つになり、成仏すること。(即身成仏)
ゾクチェンは自己解脱。元々が清らかで空なる原初の境地を発見し、持続させること。
と分類されます。
しかし、何のことかチンプンカンプン。
今回もやはり長くて、後半は難しくなってしまいましたが、
次回は、努力してやさしく、これらが何を意味するのか、現代日本人の思考方法で言うと何を意味しているのかを、「死んだらどうなるか」を通じてお話しして行きたいと思います。
少し気をつけながらお話しを続けようと思います。
本題に入りたいと思いますが、今までにお話ししたことを整理しながら進めたいと思います。
「死んだらどうなるか」は、死んでみなければ分からず、永遠のテーマと理解されています。もし、永遠を、言葉の上だけではなく、総て真に知ろうとすると、考える方もつまり我々も、永遠無限全能でなければ証明が成り立ちません。
今の常識では荒唐無稽のあり得ないことなのですが、でも昔の人は千年万年にもわたり深く考えてくれていて、その一つが仏教の教えであることが分かりました。
仏教では、成仏することが最終目的であり、仏とは永遠無限全能の存在であるからです。そしてその、永遠無限全能を実現する方法や技法のことが、仏教の教えのようなのです。
でもこれは、我々が知っている仏教の教えとは違うのではないでしょうか。
仏教の教えとは、普通には、
因果応報で悪いことをすると,それは自分に返って来ますよ。
殺生や盗み、嘘、強欲、姦淫をすると地獄に堕ちますよ。
怒ったり妬んだりすると、幸せになりませんよ。
幸福になるためには、人から愛されるのが、いちばんの近道です。
などの、有り難い人生の指針を教えてくれるものなのでは…。
また詳しく知っている方は、
この世の苦しみから、修業を積んで「悟りの世界」へ行くこと。(四聖諦)
物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。
などが仏教の教えなのでは…。
そしてこの「永遠無限全能の存在になることが、成仏です」は、 仏教の教えに、 入ってはいないのでは?、と。
しかし、仏教の最終目的は、仏になること(成仏)であり、その仏とは永遠無限全能の存在ですから、この考えは確かに仏教の最終目的と合致しています。また、多くの教えが、自らが永遠無限全能の存在にならなければ、実現出来ない困難なものばかりなので、この考えはむしろ成仏への基本条件の一つと言えるのではないかと思います。
また、科学的、論理的にも、それは人類が火星に住むと同じく、今は不可能でも、正しいのではないでしょうか。
しかし「永遠無限全能を実現する」のは不可能と、始めから決めてかかっている、想像力の乏しい現代日本人がいるのも事実なのです。
こうも考えられます、前に上げたその多くの教えは、等しく成仏を最終目的にしている教えですので、正しくは、修業の段階ごとのクリア目標(手段)なのではないでしょうか。?
輪廻を繰り返し何世にも渡り修業を続けるのですから、いつのまにか成仏への手段が目的へと変化してしまったのかも知れない。
例えば、何も考えず「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏できると思っていた私の祖母は、仏教についていろいろ考え過ぎている私と比べ、修業も終わりに近く、来世ぐらいには成仏できる羨ましい人だったのかも知れない。
同じ仏教でも、密教では、「永遠無限全能の存在になることが、成仏です」が最終目的になっています。
「生起次第」「究竟次第」。あるいは「梵我一如」で「悟り」に達し、成仏、つまり永遠無限全能の存在になることを目指します。
密教の方法は、先ず、永遠無限全能(宇宙)とは何かを知ることから始めます。(瞑想)
永遠無限全能を知るには、自らが永遠無限全能でなければ不可能なので、自分の感覚、 意識、 肉体、心を永遠無限全能に変える修業をするか,あるいは、初めから何をしなくても永遠無限全能であることを知ることにより、目標を達成しようとします。
本当にこんな事が教えとしてあるのか、と疑われる方が多いと思います。
密教は、密の字のように、何かの理由で秘密にされてきたので、その教えは表にされず一般には広がってはいなかったのですが、近年、ダライ・ラマを始め、チベット仏教の僧侶達が、積極的に、仏教経典を各国の言葉で現代語訳にして広めてこられ、今では知っている方も多いのではと思いますが、その中で、密教は、これは釈迦の教えの一部であると言っています。
このことが、私なりの解釈を言い、このブログを書いている動機になっています。
そしてまた何故「永遠無限全能の存在を実現する方法や技法のことが、仏教の教え」などど、奇想天外な解釈をして、お話しを進めるかというと、
ダライ・ラマの教えはチベットの人には現実的かも知れませんが、 現代日本人には異国的ですし、今の日本仏教からのアナウンスは単なる人生の指針の教えのようですし、また科学は「死んだらどうなるか」には無関心のようですので、新しいアプローチで、仏教が新鮮に感じられ興味をもっていただけるのではないかと思ったからです。
本題に入る前に、全体を理解しやすくするために、仏教の大凡の構成をお話ししておきたいと思います。
チベットでは、仏教には、「顕教」「密教」「ゾクチェン」が有ると言います。
この分類で言うと
日本では、一般の仏教は顕教に、空海の真言宗などは密教、 禅宗は密教とゾクチェンの間ぐらい、 法然親鸞の浄土宗はゾクチェンの種類に入るのかも知れません。
そして、
顕教は放棄の道。悪しきカルマを放棄し、苦と転生を生む原因(煩悩)を滅すること。
密教は変化の道。不浄なカルマによる不浄な顕現(例えば怒りなど)を、瞑想と真言の力で本尊の清らかな顕現へと変容させる。或いは、外の宇宙を観想し、内(身体)の宇宙を観想し、その二つのものが一つになり、成仏すること。(即身成仏)
ゾクチェンは自己解脱。元々が清らかで空なる原初の境地を発見し、持続させること。
と分類されます。
しかし、何のことかチンプンカンプン。
今回もやはり長くて、後半は難しくなってしまいましたが、
次回は、努力してやさしく、これらが何を意味するのか、現代日本人の思考方法で言うと何を意味しているのかを、「死んだらどうなるか」を通じてお話しして行きたいと思います。
| « 前ページ |

