旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

彦部家住宅

2008年01月28日 | 旅 歴史
 群馬県桐生市広沢町にある彦部家住宅を紹介します。
 彦部氏住宅は室町時代に武士の屋敷として作られたもので、主屋、長屋門、冬住み、穀倉、文庫倉が国の重要文化財に指定されています。
 彦部家は7世紀後半天武天皇の皇子高市親王を祖とする旧家だそうです。永禄4年(1561)に足利将軍の直参であった彦部信勝がここに屋敷を構えたそうです。
 屋敷構えは背後を戦時の砦となる手臼山、残る三方を堀や土塁で固めています。中世武士の館のたたずまいを残しているのです。
 主屋は入母屋造り・かやぶき茅葺で、正面約18m・奥行き約11mあって規模が大きいものです。建築年代は江戸前期で全国的にも古く貴重な遺構です。当時の上層農家の姿を今に伝えています。
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群馬大学工学部同窓記念会館

2008年01月23日 | 旅 歴史
 群馬県桐生市天神町にある群馬大学工学部同窓記念会館を紹介します。
 大正5年(1916)に建てられた旧桐生高等染織学校本館の講堂です。染織と紡織の二科を専門とする学校だったそうです。平成10年に国登録有形文化財に指定されました。
 大正5年の創立時に建てられた本館玄関の一部と講堂が、この同窓記念会館として残されています。その後、桐生工業専門学校になり、昭和24年(1949)群馬大学工学部となっています。
 木造二階建で瓦葺きの教会のような建物は厳粛な雰囲気を漂わせています。講堂の中はハンマービームと呼ばれる独特な造りになっています。

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玉村八幡宮

2008年01月19日 | 旅 歴史
 玉村八幡宮は群馬県佐波郡玉村町下新田に鎮座しています。
祭神は、誉田別命(応神天皇)、気長足比売命(神功皇后)ほか十六柱を合祀しています。
 頼朝公が三原(吾妻郡嬬恋村)へ行く途中で角淵(つのぶち)に立ち寄ったところ烏川が由比ヶ浜によく似ていたため建久6年(1195)上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴ヶ丘八幡宮の分霊を勧請奉安させたそうです。
 のち、関東郡代伊奈忠次が前橋の総社まで引かれていた天狗岩用水をはるばる玉村まで延長する新田開発にあたり事業の加護を神前に祈りました。
 そして無事事業の完了させました。慶長15年(1610)神助の報賽と新田の守護として上新田、下新田境の現在地に移築修造しました。これが現在、国指定重要文化財に指定されている本殿だということです。
玉村八幡宮はその後、関東管領畠山満家、白井城主長尾左衛門尉憲景などの尽力で再建修造しています。
 本殿は永正4年(1507)の造営され、慶長15年(1610)の修造と伝えられています。室町様式と江戸初期様式とを併せ持つ建造物として、明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。


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岩櫃城跡

2008年01月14日 | 旅 歴史
 群馬県吾妻郡吾妻町平沢にある岩櫃城跡を紹介します。
 この城は、鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮により築城されたといわれます。城郭の規模は1.4㎞2と上州最大で甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。
 その後、斎藤氏が領主になり、永禄6年(1563)武田信玄は重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。城主、斎藤基国は奮戦しましたが、武田氏の手中に落ちました。幸隆は吾妻郡の守護を命じられました。
 岩櫃山は吾妻八景を代表する景勝地です。標高802mで怪岩からなる切り立った岩山です。南面は200mもの断崖絶壁になっていて中国画のような趣です。
 天正2年(1574)、幸隆の死後、長子の信綱が城主になりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死。真田家は三男、昌幸が相続しました。
 その後、昌幸の長男信幸が城主になりました。天正18年(1590)、北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城となりました。
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不動の滝

2008年01月06日 | 旅 歴史
 群馬県の吾妻にある不動の滝です。
 昔は松山とか岩鼓と呼ばれていた標高530mの観音山(瀧莪山)のふもとには瀧莪山不動尊の堂があり、そのそばに不動の滝があります。
 延享4年(1747)に100の観音石像が祀られてから観音山といわれるようになったそうです。東山と西山があり、東山に西国33番と板東33番、西山に秩父34番が安置されているそうです。
 不動の滝は三重の滝とも呼ばれ霊験ある滝だそうです。
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吾妻渓谷

2008年01月04日 | 旅 歴史
 今日は上田博物館や丸子郷土博物館を見てきました。そのうちに改訂版をアップしたいと思います。今日は群馬県の吾妻郡長野原町にある吾妻渓谷を紹介します。
 吾妻郡長野原町と吾妻町にまたがる吾妻川の翡翠色の渓谷が吾妻峡です。特に長野原町川原湯の八ツ場大橋から、吾妻町松谷の雁ガ沢橋までの間約3.5キロを指します。
 八ツ場大橋から鹿飛橋までの約1.8kmには遊歩道が整備されています。
 九州の大分県北部の耶馬渓は険しい渓谷で有名です。大正元年、高名な地理学者、志賀重昂が吾妻渓谷を訪れ「関東耶馬渓」と呼んでいます。
 大正九年、歌人の若山牧水が吾妻渓谷を訪れ「どちらかといえば(九州の耶馬渓より)形の小さく深くて静かな吾妻の渓に、より多く心の惹かるるのを感じ」(「みなかみ紀行」)と記しています。
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秋間梅林

2008年01月03日 | 旅 歴史
 今日はすばらしい天気になりました。今日は秋間梅林を紹介します。
 35000本の紅白梅が2月中旬から3月下旬にかけて山間に咲き誇ります。毎年2月第三土曜日から3月中旬の間、梅祭りは催されます。
 秋間川の上流の山あいに広がる約50ヘクタールの梅林です。自然を損なうことがないように造られたそうです。
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新島襄の旧宅

2008年01月01日 | 旅 歴史
 明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
 今日は群馬県安中市安中1にある新島襄の旧宅を紹介いたします。
 新島襄は明治8年(1875)同志社大学の前身となる同志社英学校を設立した人です。天保14年(1843)安中藩士の子として江戸・神田の板倉家上屋敷で生まれました。21歳の時、函館からアメリカへ密航しキリスト教徒となりました。
 帰国後父母の住む安中へ身を寄せたのです。明治7年(1874)11月29日、この家で10年ぶりに父母姉妹と再会したそうです。同年12月24日まで滞在し学校などでキリスト教の教えを伝えたそうです。
 昭和38年に安中市はこの新島襄の旧宅を移築し、その遺品や関係書類及び写真等を収集して展示する施設を造り、昭和39年に開館しました。
 新島襄は、明治8年(1875)6月に京都にある旧薩摩藩邸跡を購入し、11月に同志社英学校を創設しています。明治23年(1890)1月23日に神奈川県の大磯で生涯を終えたそうです。
 私のホームページ「旅と歴史のホームページ」http://ogino.okoshi-yasu.com にもお越しください。
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