小川ひさしブログ

漫才師から政策秘書、ひたむきに市政に挑戦!

HARUのOGAWA第15号

2011-01-31 17:33:13 | HARUのOGAWA
        09年6月25日、参議院厚生労働委員会で答弁する島田ちやこ議員(左後ろが小川氏)


(小川ひさし氏に聞くHARUのOGAWA第15号)〜「小さなことからコツコツと!」その2〜
―「小さなことからコツコツと」西川きよしさんや小川さんが取り組まれた政治課題の情報源は何だったのですか?
(小川)師匠は、国会議員となった当時より「ありがとう浜村淳です」というラジオ番組に週に1度レギュラー出演することになりました。実は、ある日の放送中に「日々の暮らしに影響がある法律改正や制度改正の内容」を話題にしたところ大変な反響があり、それから議員在職中の18年間にわたりコーナーとして続くことになったのです。その間
1か月に100通を超すご相談の手紙やはがきが届くようになり、その一通一通に目を通す日々が日課のひとつになりました。その中でも、ある一通の手紙との出会いがとても印象に残っています。それは手紙の相談内容もさることながら差出住所にまずは驚きました。その封筒に書かれているのは関西地域にある拘置所の住所と名称。私の頭の中には、まずもっての疑問として・・「毎週楽しく放送を拝聴しています・・」と??。「拘置所でラジオが聞けるのかなぁ〜?」関係機関に問い合わせすると、「一部の時間帯にラジオ放送を拘置所内で流している」と。なるほど・・・。それで内容を読むと・・。「私は、二十歳前の障害で障害基礎年金を受給していました。その年金で、私の年老いた母と生活を支えていたのですが、拘置所に収監されたことで年金が支給停止されたのです。支給停止によって家族の生活が不安です」??初めて聞く話・・国民年金法を調べると「監獄、労役所、その他これらに準ずる施設に拘留された場合は、その障害年金を支給停止とする」と確かに規定されている。私が最初に持った印象・・「罪を犯したのだから仕方のないことでは・・」。しかし、「気になる、なんか気になる」何度となく読み返すうち「もし、この人の年金が親の生活の支えであったとしたら・・」「この人は、刑事被告人なのに・・・」「無罪の推定」「疑わしきは被告人の利益といわれる法原則によれば、有罪の判決が確定するまでは刑事手続きにおいて罪を犯した者とは取り扱うことはしない」漫才師出身の秘書の頭で精いっぱい考え抜いた末、「これは、おかしい!!」「法律が間違っている!!」師匠と国会質問として取り上げることに決定。準備に取り掛かり作業も順調に進んでいく中・・・。「この人がどのような理由で刑事被告人としての立場にあるのか・・」その事実を知らされることに。私は愕然とする程のショックを受けました。「人として許せない行為」、「その人を助けるために力を注ぐことへの疑問」、いろいろな想いが迷走しました。しかし、師匠の口から出た言葉は「罪を憎んで人を憎まず」「そもそも、この人のことだけではなく、この人の母親や子供の立場を考えたことが原点であるのだから・・」その言葉をきっかけに平成12年の国会で質問した師匠は、その後4年間にわたり質問をし続け、平成16年の法律改正により未決拘留者に対しての障害基礎年金の支給停止する制度が改められる結果となりました。ただ、拘置所よりの手紙の差出人とのやりとりは、それ以後一度も行われることはありませんでした。
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HARUのOGAWA第14号

2011-01-21 11:32:38 | HARUのOGAWA
                  小泉厚生大臣(当時)に要請に行った時の小川氏



(小川ひさし氏に聞くHARUのOGAWA第14号)〜「小さなことからコツコツと!」〜
―先週号は成人式の話題でしたが・・・・。
(小川)はい。私も土呂駅西口の駅頭で新成人のみなさんにお祝いの言葉をかけさせて頂きました。
皆さん、晴れ着姿やスーツ姿で楽しそうでしたねぇ・・・。(笑)
―小川さんがこれまで秘書として仕えられた西川きよし元議員は「小さなことからコツコツと・・」、島田ちやこ前議員は「声なき声」と。お二人とも政治姿勢に共通点があったと思うのですが・。仕えた立場としていかがでしたか?
(小川)はい。漫才師としてスタートをしたものの、師匠のすすめで国会議員秘書となり、当初はとてもとても不安な時期がありました。そんな中、この政治の世界で生きていくことを決意したきっかけとなったのが、ある問題で深く強く悩み苦しんでいるある同世代の方との出会いでした。私が秘書として長年にわたり取り組んできたテーマのひとつに「ポリオワクチンによる健康被害」の問題があります。このポリオは、日本では昭和25年頃から流行し始め、昭和35年には北海道を中心に一年間の患者数が5千人を超えるなど深刻な事態となりました。しかし、昭和39年から経口生ワクチンによる予防接種が導入され感染者は激減し、国内では昭和55年を最後に自然感染の報告は無くなりました。ところが現在までに使われている生ワクチンは、弱毒化したポリオウイルスで、接種した子どもの約440万回に1回の割合で本人にまひ症状が残る健康被害が発生しています。また、接種した子どものオムツ替えの際に接種された子どもの便などから家族などが二次感染する例も580万分の1回の割合で発生しています。今から約10年前、まさに接種した子どものオムツ交換時に便から感染し、とても重い障がいが残る状態となったお父さんからご相談を受けました。「子どもの接種による二次感染では、予防接種法での救済を受けることができない」「全国的に見れば500万回に1回かもしれない。しかし、私にとっては1分の1なんです。救済してもらいたい」「発症直後のひどい痛みとの闘い、原因が判明するまでいくつもの病院を転々としたこと、そして、何よりも将来、子どもが大きくなった時に父の障がいの原因は自分にあるのでは・・と子供が自分を責めないだろうか・・・」同じ年頃の子どもを持つ同世代の親の一人として、また、政治の世界で生きて行こうとしている者として「こんなにも政治や行政に助けを求めている人がいるのに、その声は国会や行政にはまったく届いていない」「この声を何としても国会や行政に届けなければならない」・・・そう実感した私は、議員である西川きよしさんに働きかけ、再三にわたる国会質問や厚生省への要請活動などを行いました。それから3年が経過した平成16年二次感染者への救済制度が導入されました。小さな声、数少ない声、その声を聞き逃さない・・。「小さなことからコツコツと」私は、その姿勢を受け継いでいく決意です。
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HARUのOGAWA第13号

2011-01-14 11:21:41 | HARUのOGAWA
                    内弟子時代(小川ひさし氏20歳の頃)



(小川ひさし氏に聞くHARUのOGAWA第13号)〜祝ご成人・2011年〜
―今年も、成人式ですねぇ。(祝)  
(小川)新しく成人されました皆様にとって、思い出に残る成人の日となりますようにお祈りいたします。
―小川さんの子どもさんもご成人では?
(小川)我が家は、長女は既に成人しており、長男は今年11月で二十歳となります・・・成人式は来年ですねぇ。
―小川さんが成人された頃は、どのような環境だったのですかぁ?
(小川)西川きよしさんの内弟子として二年目の頃です。私は、当時は師匠宅の掃除や買い物、師匠の子どもさんとの遊び相手など家事の手伝いが生活の中心でしたぁ。
―当時の大阪の成人式はどのような内容だったのですかぁ?
(小川)私は、成人式に出席しなかったです。私が成人した年のある日、師匠宅に市役所から成人式の案内通知が届きました。その通知を受け取った師匠のお母さんは、「小川君に成人式の案内が届きましたよ・・おめでとう!」と、
師匠の傍にいた私に声をかけてくれました。その時、師匠は師匠のお母さんに「俺は、小川は成人式に出席するよりも、今は修行中、修行に専念すべきだと思うなぁ〜、しっかりと修行して成人式に出席している同世代の人たちに負けないくらいの成人になる努力をしてほしい・・・でも、行く、行かないは、小川が判断しなさい・・・」。すると、師匠のお母さんは「いや、いや、成人式は一生に一回なんだから・・小川君を式に行かせてあげてぇ・・」。そんな、やりとりをしてくれていました。当然、私は、成人式に出席をしたいという気持ちを持つことはなかったです。
ただ、その成人式当日の思い出は今も深く心に刻んでいます。
―どのような思い出であったのですかぁ?
実は、師匠の三人目の子どものかの子ちゃんと師匠との二人の間で、犬を買いに行くとの約束がありましたぁ。たまたま、私の成人式の日がその日になりまして・・・。あるペットショップまで師匠とかの子ちゃんを乗せて車を走らせました。ペットショップ前で停めた車で待つ私の目に映ったのは晴れ着姿やスーツ姿で成人式に向かう同世代の人たちの姿でした。「あっ、自分もあの人たちと同じように成人したんやぁ ・・・。しっかりと修行を成し遂げて、その時はあの人たちと肩を並べて笑いあえるように頑張らなくては・・・」そんな、決意を強く持ちました。
あれから、26年の月日が経過した今も、毎年、この日になるとその時の決意を思い起こします。
ただ、その時の決意があったからこそ、あれから26年後の現在、新しい挑戦ができているのだと確信しています。
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HARUのOGAWA第12号

2011-01-13 10:21:19 | HARUのOGAWA
                    平成12年、ミニバスケットボールの役員時代



(小川ひさし氏に聞くHARUのOGAWA第12号)〜初挑戦と再出発の4カ月間〜
―9月から活動を開始し4ヶ月が経過しました。いよいよ本年の最終号となりますが・・・。
(小川)「西川きよしさんのような大人になりたい・・・」と「やすし・きよし」が出演しているテレビの前で強い憧れの思いを抱いたのは小学2年生の頃でした。そして、18歳で憧れの西川きよしさんの内弟子となり、4年半の修行を経て漫才師デビュー。その後、西川きよし参議院議員としての秘書となり10年間の秘書修業を経て政策秘書。
弟子入りから28年後の今年46歳にして再出発・再修業・・・。この4カ月間、毎朝の駅頭活動を通じて多くの地域の皆様に励ましのお言葉をかけて頂きました。心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
いつも、駅頭活動中に頭をよぎるのは、妻と二人で大阪から埼玉に移り住みアパート暮らしを始めた24年前、そして、
その後、3人の子どもが生まれ5人家族となり、植竹町に初めて引っ越しをしてきた13年前のことです。
―どのような思い出がありますかぁ?
(小川)私ども夫婦にとりまして、埼玉県いえ関東地域にわたり知人、友人、親戚は一人もいませんでした。
見知らぬ地での生活は、とても不安で心細いものでした。そんな私たち家族を「さいたま」の皆様には、本当に暖かく受け入れて頂きました。長女は、ミニバスケットボール。長男は、サッカーとスポーツ少年団を通じたくさんのお父さん、お母さん方と交流をさせて頂くことができました。土曜日、日曜日は、ほとんど遠征の帯同や審判などの活動でありましたが、今振り返りましてもとても懐かしい思い出となっています。
―審判?小川さんってサッカーの審判ができるほど経験があったのですか?
(小川)ありませんよ〜・・今だからこそ言えるのですが・・・正直言って苦痛でしたぁ(笑)・・。
本当は、「オフサイド」の意味を今ひとつ理解しないまま審判をやっていました。選手の子どもたちに「オフサイド!!」と、アピールされたらついつい誤認ジャッジ。応援席の保護者から「おいおい、審判なにやってんだょ!!」との
痛烈な掛け声に委縮しながら・・・。いゃぁ〜ほんとにつらかったです。(笑)
その子どもたちも二人は大学生となり、植竹に来た時に植竹幼稚園に入園した末娘も中学三年生。地域の皆様にお支え頂きながら大きく成長させて頂くことができました。その感謝の思いをしっかりと心に刻み込み活動を続けてきました。
皆様より、ご信頼頂けるように修行を積んでまいります。
よろしくお願い申し上げます。
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HARUのOGAWA第11号

2011-01-08 13:12:52 | HARUのOGAWA
               1985年の西川一家(後列、左から2番目が小川氏)



(小川ひさし氏に聞くHARUのOGAWA第11号)
―このところ、師匠の西川きよしさん、ヘレンさんの姿をテレビでよく拝見しますねぇ・・。
(小川)はい。私が弟子入りした当時、師匠もヘレンさんも36歳でしたが・・・64歳になるいまでも第一線で活躍するのは大変なことだと思います。改めて尊敬します。「師匠、小川も大阪から遠く離れたさいたま市でご親切にしていただいた地域の皆様のご恩に報いられるように、枝野さんのもとで再修業しております。」・・・。
―先日のあるテレビ番組では、「きよしさん一家大家族」を紹介する写真が映っていましたねぇ・・・。(笑)
(小川)そうなんです。後列の左から二人目が小川です。弟子入り3年後の21歳の頃の私です。(笑)
―いろいろある西川家のエピソードの中でも「家族介護」のことが注目されているように思いますが・・・。
(小川)きよしさんの両親、ヘレンさんのお母さんの3人のお年寄りに同時に介護が必要になった時期のことです。
まさに、師匠が参議院選挙に出馬を決意する背景には、そうした実体験から政治への熱い思いが芽生えていったということがあったんだと思います。家族だけで介護を行なうことは家族の美徳と考える人が決して少なくなかった時代です。しかし、現実に家族だけで介護を行うには、あまりにも家族の負担は大きい・・いえ、家族といっても、そのほとんどは妻であり、娘、息子の妻、つまりは女性の負担であったのです。「このままでは、家族が崩壊してしまう」といった心境にあったのではないか。身近にいた私の当時の印象でした。その後、日本に介護保険が導入されたことによって介護サービスは飛躍的に充実したのは事実です。しかし、さらに高齢化が進む中で介護の問題への対応が現在の大きな政策課題と考えています。
―小川さんは、ご両親のことを考えますか?
(小川)はい。とても深刻な状況にあります。数日前も母親から「お父さん(75歳)が、出かけたまま帰宅しない・・捜索願いを出した・・。どうすればよいのか・・・」と、電話がありました。翌朝、冷たい風が吹く公園のベンチに座っているところを警察官に保護していただきました。警察署へ迎えに行った弟の目に映った父の姿はとても小さく・・弟は、溢れ流れる涙をぬぐいながら帰宅したとのことでした。 そんな状況にありながらも私は、大阪から遠く離れたさいたま市で生活をしています。親がさいたま市での生活を受け入れない限り、子供でありながら親を介護することは不可能なのです。だからこそ、それぞれの地域において、どのような状況にあったとしても、地域で支える仕組みづくりを急がなくてはなりません。両親には申し訳ないですが私は親の介護はできません。しかし、地域の一員として地域のお年寄りの安心づくりのため、全力で取り組む決意です。
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