虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

価値観の実相

2013-05-23 18:39:26 | 社会
少し暖かな日があったかと思うと、すぐ肌寒い日々が続く北海道です。
今日は小で、また、暖房用の灯油を買いにいきました。
今年、最後の灯油購入であればいいが・・・と思いつつ、怪しい天候を気にする毎日が続いています。

昨年の5月に老子について書いたのですが、中国の歴史ドラマで老子の話を聞く孔子の場面がありました。
老子と孔子が会ったことがあるのかな?とドラマのストーリーに疑問を持っていたのですが、「史記」の中に老子に会いに行った時の話があるそうで、孔子は老子の話しをまるで龍のようでとらえどころがないと言ったそうです。

http://blog.goo.ne.jp/ogamiitousai/e/8483687e02e3904a8d725942da9102b7(「老子を通して現代を考える」虚空漂浪日記)

史記に書かれている文の意訳は、以下の通りです。

『老子は楚の苦県のライ郷、曲仁里の人である。名は耳、字はタン、姓は李氏といい、周の書庫の記録官であった。
孔子は周におもむいて、老子に礼について教えをこうた。老子はこたえた。
「きみの問題としていることばは、それを発言した当人はその骨と一緒にみな朽ち果ててしまった。ただことばが残っているだけである。元来、君子は時勢に乗ると馬車を走らせるし、時勢に外れると浮き草のように渡り歩く。名のとおった商店は、商品を奥深くしまいこんで、外目には空家のように見える。君子は、すぐれた徳を心の底におさめて、外貌は愚か者のようにみえるといわれる。きみの慢心と欲張り、気取りと激情とをなくしてしまいたまえ。これらはどれも、君の一身にとって何の役にもたたないよ。わたしが君にいいたいことはこれだけだ。」
孔子は帰って弟子にいった。
「鳥ならば飛んで逃げることは、わたしも心得ている。魚ならば泳いで逃げることは、わたしも心得ている。獣類ならば走って逃げることは、わたしも心得ている。走って逃げるものは、網にかけてとらえればよい。泳いで逃げるものは、糸で釣り上げればよい。飛んで逃げるものは、糸弓で射止めたらよい。しかし、竜というものは、いったいどうして風と雲に乗っかって天に舞い上がるのか、さっぱり様子がわからない。わたしは今日、老子にあってきたが、かれこそ竜のような人物であろうかな」』(「斉太公の歴史紹介・老子韓非列伝」より引用しました。)

昨年、書いたブログで、老子と孔子では”位(くらい)”が違うと書いたと思います。
老子の視点はあの世(=天の道)の神からの視点であり、孔子はこの世で孔子が理想と考えた俗物の視点です。
ですから、価値基準がまったく天と地の差があるのです。
ほとんどの人は、老子の視点を他の思想家を同列に並べますが、その思想の起点がどこからのものか?ということが分からないので、まったくチンプンカンプンな解説をしています。

もし、貴方が宗教の研究をしていて、新約聖書をよく理解していれば、イエスの言葉として老子が孔子に話したことばと同じような趣旨のイエスの言葉を目にすることができます。

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように注意しなさい。・・・だから、施(ほどこ)しをする時に、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。・・・」(マタイ第六章1~2)

これらイエスの言葉は続いていますが、人の慢心、気取り等々を戒めた言葉です。

言葉として違うように感じるでしょうが、実はイエスも老子も同じ趣旨のことを語っているのです。

この世に価値を置く偽善者は、イエスの言によれば慢心から”人々の眼前で私はこれだけ良いことをしている”と見せつけます。
そうではなくて、良い行いは密かに、目立たないように行いなさいとイエスは言うのです。
老子も「君子は、すぐれた徳を心の底におさめて、外貌は愚か者のようにみえるといわれる。」と語っています。
あの世からの価値指針は、同じなのです。

そのことがわからないから、味噌も糞(クソ)も一緒にして論じてしまうのです。
孔子の言で人生で参考になる点もあるでしょう。
しかし、老子の視点は向こう側からきてる視点ですから、孔子と同列に論じても意味がないのです。
孔子が老子を理解できなかったのは、私が前回のブログでホーキング博士とエンゲルスの事例で挙げたように、三次元界(=私たちに生きている世界)のみに目を向けている限り、絶対に理解不能なことなのです。
ですから、孔子が上だとか、老子が上などと粋がって論じるのはお馬鹿な人々の論であり、交差しないレベルの差があるのだと理解しなければないりません。
このようなことを理解した上で、私たちの生きる糧として利用していけば良いのではないでしょうか?

さて、最近、ハシゲなる者が従軍慰安婦の問題で世間を賑わしているようですが、、ま、正直といえば正直な発言なのでしょう。
批判を垂れ流している売国マスゴミは、10枚舌ですからハシゲとどっこいドッコイでしょう。
ハシゲを正当化する気はありませんけど、少々魔女狩り気味な世相に吐き気がします。

従軍慰安婦が”あった”とか”なかった”とかの論議があるようですけど、従軍慰安婦は間違いなく歴史的に存在しました。
従軍慰安所は軍の要請で作ったことも間違いのない事実です。
ですから、慰安婦の医療検査は軍医が担当しているのですし、使用上の注意書きも軍が作成しています。
民間の売春業者が勝手にしたものではありません。
強制的に連行したかどうかは時と場合によるので、一概にいえないでしょう。
占領地域で強制連行した事実は厳然と証拠と証言が残っています。
従軍慰安婦などいなかったなどという頭の薄い人たちは、証拠や証言について”見たくない””理解したくない””聞きたくない”という拒絶症の人びとなので、論じても無駄な人たちです。

ハシゲは弁護したくありませんが、世界各国の軍が女性を卑しめたのは事実であり、米軍も同罪であり、彼等の主張が二枚舌であることは確かです。
ソ連軍がドイツを占領した時、僅か三日?間で200万人の少女から老婆まで強姦したという話しがあります。
人数の点では色々あるようですけど、ドイツではある時期までこの話はタブーであったと聞いています。

戦争とはそのような悲劇を生み出すものであり、私は戦争を美化する連中を絶対に認める気にはなりません。
日本のアジア侵略を、欧米の植民地からアジアを解放する戦いであった!などと自己欺瞞に陥っている馬鹿丸出しの連中がいますが、ならば何故、そういう連中が子孫としてこの日本に存在するかのか!を問いたいと思いますね。

確かに八紘一宇を信じ戦った日本人はいますし、その人達は現地に止まり解放軍に参加して独立戦争を戦ったのです。
彼等の名誉を横取りして、放言する卑怯者の子孫を私は嘘つきの卑怯者と呼びます。
恥を知らない日本人であることは間違いありません。

少なくとも売国奴のアベの一族は、日本の侵略戦争と欧米との戦争に関して責任があり、とても現日本を代表する人々でないでしょう。
しかし、恥ずかしいことに日本人は彼等を日本の代表者におしあげでしまいました。
そんな彼等が、昨日言った発言を、翌日には正反対にしていまい、且つ又、道徳教育がどうのと言っているのは、もう、世も末だということです。
「嘘つきは泥棒の始まり」と泥棒が子供たちに言うのです。
子供たちは勘づくのです。”うそを言ってもいいのだな!”と。

売国奴が”日本を守る!”と言って、日本を売り飛ばすのです。
それが、今、現状で起こっている日本の姿の真実です。

既に、この憂うべき日本ではいわゆる現世的道徳の価値観ですら失われています。

”弱者・貧乏人・敗者は飢えて死ね!”

これが現在、メインの世相であり、価値観であり、マスゴミどもが掲げているスローガンです。
そしてNWO・アメリカ=官僚支配の下、売国奴アベが進めている政策の実態なのです。

もう一度書きます。

”弱者・貧乏人・敗者は飢えて死ね!”

これが今現在における価値観の実相であり、これに賛同する貴方にやがて舞い戻ってくることでしょう。
神は原則、この世に手出ししませんが、神の法則は有効に作用するのです。


また、お会いしましょう。




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