人間の欲望に限りないことは、昨日のブログで書いた通りであるが、そんなことは大昔から知られていることだな。
「窟(いわや=身体)のうちにとどまり、執着(しゅうちゃく)し、多くの(煩悩=ぼんのう)におおわれ、迷妄のうちに沈没している人、―このような人は、実に遠ざかり離れることから遠く隔たっている。実に、世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る。」
長い引用だが、ゴータマさんがいった言葉である。お坊さんがお経を読むように読んでもらいたい。
「いわ~や~のぉ~ うちにぃ~ とどまりぃ~・・・」 間が抜けてるかな?
元々、お経はゴータマさんの言った言葉であるから、呪文のように訳の分からんお経をあげることに全く意味はないはずである。
漢文に訳されたお経を、日本語に意訳しなかった当時の、そして、今日のお坊さんは多いに反省すべしかも!
脱線してしもた。
ゴータマさんも言うように、実に欲望を捨て去ることは難しい。ましてや、今日の社会は資本主義社会であるから、欲望を増大することに意義を見出した経済システムである。
持てる者は更に与えられ、持たざる者は取り去られる・・・どこかで聞いたような言葉だな?
資本制社会は金が金を産むシステムであると見抜いたのは、忘れ去られつつあるかのマルクスであったが、その本質においてはマルクスの生きていた当時と変わらず、金持ちはマネーゲームで更に金を増やし、貧乏人は更に貧乏人になる。
因みに、「持てる者は・・・」はイエスの言葉なので、勘違いしないでね。
このように、欲望を刺激し、一見、アメリカンドリームがあるかのような幻想を振りまき、”明日は貴方も大金持ち”なんて喧伝し、欲望の渦の中に人々を投げ込んで、消費を煽っている社会の中で、神を信じなさいなんて言っても信じようがないでしょうね。
無信仰、無宗教は成熟した資本制社会では必然であり、現世で今日より明日、明日より明後日により良い生活の可能性が幻想として日々提示されている以上、人々がその幻想に惑わされることを阻止するのは難しいだろうな。
オーム真理教の信者が洗脳されていると話題になったが、批判者そのものが洗脳された人々であることに気づかないということに、社会事象の複雑性がある。
ぁあ~、なんかややこやしくなったなぁ~。宗教の本質を考えていくと、どうしても社会と人間存在そのものに行き当たるのだな。ハァ。
アリの脳みそでは、回答不能!
この問題は、少し置いといて、明日は違う話題にしょうかな。良い一日でありますように。