<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしは単体ではない 複合体である

2016年10月18日 11時48分02秒 | Weblog

千手観世音菩薩の神呪は「おんばざらたらまきりく」。呪文は仏界の言語。これを称えて仏界と交流する。「おんばざらたらまきりく」を称えて千手観世音菩薩をお呼びして仏界の教えをお聞きする。

観音の足元には暗い大きな海があって荒れ狂っている。ここを行く者はわたしである。嵐が襲来して船が翻弄される。この難を守って導いて下さるのがこの千手観世音菩薩である。千本の手はこの観世音菩薩の他にわたしを守り導いてる者の手である。わたしが守られた者導かれている者であることを象徴している。

わたしはわたし一人ではないということを指し示しているのである。わたしはわたしという単体ではない。複合体である。多くの者が支えているのである。だからこの千本の手はすなわち千人の支援者の表徴である。「観世音菩薩までを合わせた全体」がわたしだということを教示しているのだ。

「おんばざらたらまきりく」を称えたから助けが入るというものでもない。称える以前に助けられていなければならない。だから、この神呪は「お陰様で助かりました」「有り難うございました」のお礼言上である。

千本の手はわたしをここに至らしめた先祖の方々の手である。善意である。守る手である。導く手である。助ける手である。この千手観世音菩薩は一人一人の「わたし」の中が住所である。外におられるわけではない。わたしとともにいらっしゃるのである。そうであるのに、「わたしは一人だ」「一人で荒れ狂う海を渡っている」などという間違った見解を抱いていてはならないのである。

「わたしがひとりで生きているのではない」「多くの支持者支援者に支えられて生きている」という自負、わたしの中に千手観世音菩薩がいてくださるという矜持が生まれて来れば、人生を安んじて生きて行けるだろう。

「観音経秘鍵」なる経典を読経しながら今日はこんなことを思ったことだった。「わたしは単体ではなかった」という認証がわたしをあたたかくした。

福岡糸島市の雷山の麓にある「雷山千如寺」に木像の千手観世音菩薩がある。像の高さ4・8m。鎌倉時代後期の作。見上げても見上げきれないほど巨大な観音さまである。ここへちょくちょく尋ねて行く。

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