<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

絵に描いた餅では終わらなかったのである

2017年08月13日 04時59分51秒 | Weblog

「興法利生 こうぼうりしょう」

法の興るは利生のためなり。法を興隆して衆生を利益す。仏法は衆生を利益(りやく)して興(おこ)る。

いずれもこれはさぶろうの読みである。正しい読みがほかにあるに違いない。

大乗仏教は、理智の修得から進み出て、社会実践を重んじる傾向にある。絵に描いた餅では、ひとびとの腹を満たせない。衆生利益は衆生救済である。

寺を出て衆生の中へ入って教えを弘め、苦悩を具体的に救済した。困っていることがあれば、手を貸した。道を造り井戸を掘り、池水を溜め橋を建て、学校を開き病院を拵えた。孤児院や養老院をも開設して苦悩打開に奔走した。仏道を歩む者はひとびとの悲しみにも寄り添った。死者を弔った。死に行く先の仏の浄土をひとびとの胸に刻んだ。助けが必要とあれば行って田畑をも耕した。重たい荷物を分担した。僧衣を着ながら、何でも屋さんになった。奈良時代の仏教はとりわけそうした色彩を帯びた。

もう一つ別の読み方もできる。

お釈迦様が仏教を興されたのはひとえにさぶろうという生命を有利にするためであった、と。多くの仏道修行者が、修行を積まれたのはわたしを仏道に目覚めさせるためであった、とも。

興法利生の句を舌の上に嘗めていると、さぶろうは我が事に行き着いてしまう。ああ、こうしてこうしてさぶろうが助けられてきたのだと思う。多くの人の実践活動によって、さぶろうの人生が大河を流れてきたのだなと思う。それを思うと有り難くてこころの琴線が緩んでしまう。

しかし、さて、その肝心な目覚めがさぶろうの中にあるかどうか。それはいっこうに明確な答えにならない。

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