夜が明けました。引き続き雨が降っています。霧雨のような細い雨です、でも。晴れていたら野良仕事に出て行けるのですが、思い止まるしかありません。もうしばらく布団に転がっておくことにします。
枕元に月刊誌「大法輪」が置いてあります。これを読んで過ごします。仏教誌です。
法輪を回すとは仏法の輪を伝え弘めて行くことを意味します。お釈迦さまが覚りを開かれてこれを人々に初めて説き起こそうとされました。これを「初転法輪」と言います。初め、深い深い覚りの内容を説いても、理解をしてもらえることではないと判断されていました。しかし、伝えなければそれは己一人の解決で終わってしまいます。それでは地獄にいて苦悩している者を見ても、見て見ぬふりをしておかねばなりません。世界中の苦悩とは無縁になります。地獄は永遠に地獄のままになります。そこで天界の神々たち、梵天たちが勧請(かんじょう)をします。説き起こす決断を迫ります。いわゆる「梵天勧請」です。仏法がその最初の一滴をこぼします。これが川となって現代まで流れています。
だから、この雑誌がその源流を今に伝えていることになります。ここへ来ると泉の水が汲めるのです。おいしいおいしいと言って飲み干すとそれがわたしの心身にも流れていくのです。そしてそれが知らず知らずわたしの一部となっていきます。
わたしはこうして長年仏法の教えを聞いて聞いて来ましたから、必然的にそれが血や肉となっているはずです。血や肉にしようなどと意気込まなくともそうなっているはずです。流れ込んで流れ込んでいるのですから、或いは湿潤なデルタ地帯になっているのかもしれません。
それにしてはしかし、さぶろうは俗物です。苦悩の塊、煩悩の虜です。已然として愛欲に塗れています。濁りの世界、穢土にいるのですから、これは免れません。それでいいのだと思います。この地に清流が流れていることを知っているからです。
雨の音がしなくなっています。止んできたのかもしれません。お腹も減ってきました。