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現世の法廷はこれでお開きとなる 三界得自在

2017年05月26日 03時40分56秒 | Weblog

三界得自在 さんがいとくじざい

経典にそうある。どう読めばいいのだろう。いろいろに読めそうである。さぶろうの食卓に今夜はこの偈が運ばれてきた。魂が箸を上げる。舌の上に載せてからが長い。十分に咀嚼しきれないのだ。涎が一筋零れて落ちる。

三界は自在を得たり。こうも受け取れる。

三界は自在を得たるに、さぶろうよ、汝は如何? と提示してくる。我は未だ自在を得ず。そう答えるしかない。

しかし、それは問題とならないのではないか。三界が自在を得ていればそれで総てが足りているのではないか。自在を得ていないさぶろうを呑み込んでいるのではないか。それでさぶろうもまたすっかり完済しているのではないか。そうも思える。

自在を得た三界にいるのである。さぶろうが此処にいるのである。それを味わえばいいだけにしてあるのである。

夕空を見上げる。新緑の山々を眺める。桑の実が赤く熟れている。クラブ活動を終えた中学生が自転車に乗って通り過ぎる。涼風が吹き抜ける。小川の水をバケツに汲み取って、植えたばかりの野菜瓜に水遣りをする。この時間と空間を与えられているさぶろうはしばしうっとりする。ここに己を預けきって無為になる。悪乗りをしているかも知れないが、それでよしとしていいようにも思える。

この世には、三界に自在を得ている者、すなわち仏陀がいるのである。それで仏陀の法が敷衍せられて完全調和が成立したのである。これで一件落着している。さぶろうが異を唱えることはない。(異を唱えたところで、異ともならない) 現世の法廷はこれでお開きとなる。

あとは魂の食事となる。仏陀の悟り「三界得自在」の公案、即ち毘盧遮那仏の智恵と慈悲である「三界得自在」を馳走になる。おいしいおいしい。大宇宙がすべていま自在を得て安らかに暮れていく。

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