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死は法を説き、示す方便にすぎない、という説

2017年07月06日 18時31分59秒 | Weblog

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法 我常住於此     「妙法蓮華経如来寿量品偈」より

いどしゅじょうこ ほうべんげんねはん にじつふめつど じょうじゅうしせっぽう がじょうじゅうおし

衆生を度せんがための故に、方便もて涅槃を現ずれども、しかも実には滅度せず 常に此処に住(とど)まって法を説くなり 我は常に此処に住(とど)まれり

無数億の衆生を仏にせんがために、わたしは方便を用いて涅槃を現じてみせたが、しかしその実はわたしは滅度(=入滅)をしてはいない。滅してはいない。常に此処霊鷲山(りょうじゅせん)にいて法を説いているのである。わたしはいつも此処にいる。お釈迦様はそのように仰せになった。

(涅槃とは仏陀がお亡くなりになること。梵語ではニルバーナ。炎が吹き消された「消滅」の意。それから煩悩を断じて寂静の境地に進んだ状態を表した。仏教の理想の目的地で、般涅槃、滅度、寂滅、入滅とも云う。仏陀の死、聖者の死を指す言葉。霊鷲山の山頂で法華経が説かれた)

永遠の仏陀の宣言である。涅槃(死)は方便(法を説く適した手段)であったと告白されている。わたしはいつも衆生の為に法を説いている、と。

(ここからさきは老爺の独り言。つぶやき)

仏陀のみではない。死は方便に過ぎない。死で以て終わりとはならない。わたしたちは此処にとどまって法を説いている身である。涅槃界に移り住んでいるように見えてその実は此処で法を説いているのである。仏陀に倣って、生きとし生ける人たちに法を説いているのである。・・・僕は読経をしながらそんなことを考えていた。「死が無駄にはならない」「死は一過性のものなのではない」という説諭暗示を今日は嬉しく聞いてみた。

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