<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

でも空だって無限に広がって続いているじゃないか

2017年11月22日 10時47分17秒 | Weblog

一度きりの人生だと言う。そういう人にはこの人生は間違いなく「一生」である。一度きりだから大切にしなければならないと思う。大事にしなければと思う。疎かにしてはならないと思う。だからその受け取りはそれで十分正しいはずだ。

でも別の考え方だってある。一度きりを幾つも合わせる、合わせることができるのではないか、という考え方もある。

小さく狭いわたしとしての切れ端の生はなるほど一度きりかも知れない。しかしより大きめの、より広めのわたしがあるのではないか。区切りを大きくできるのではないか。

区切りを大きくすると、生は次へ次へ伸び上がっているのではないか。

次へ次へ大きくなり広くなっていくのではないか。合流して合流して行くのではないか。合流していく度に豊かになって行くのではないか。大きなわたしになっていくのではないか。広大無辺に近づいていくのではないか。そういう推量をしてみる。

すると百生、千生、万生になる。そうするとわたしへの拘りが少しずつ減量していく。そしてとうとう全体になる。全体の1に合一する。

微視的と巨視的見方がある。微視的だと端切れになる。死で終わりとなる。でも空だって無限に続いているではないか。無限に広がっているではないか。区切りなんかつけてないじゃないか。

ふふふ。笑っちゃう。笑っちゃう。こう考えると笑っちゃう。笑いが出る。狭くしていないでもいいのだと安心する。窮屈にしていなくても大丈夫なんだと思う。愉快になる。

推量は勝手だ。愉快になってもいいし、不愉快になってもいい。どちらも許されている。

仏教の言葉に「一生補処」がある。この一生を補ってやればそれで満ちる、満願する、という見方だ。満ちてしまえば、あとは次の向上へ転身する、仏界へ鞍替えをするというわけだ。そのための一生をいま送っているが、もう鞍替えの鞍が用意されているという。用意してくれたのは仏陀だ。それだけの力、慈悲と仏智があるからだ。それに任せる。すると楽々と次へ進む。次の課程に進む。より向上したコースに乗ることができる。

いかにも楽天家の考えそうな話だと思う人が多いかも知れない。しかし、この世の中は悲観主義がすべてではないから、こういうイズムだって成立するのだ。

今朝はこんなことを考えているさぶろうがいる。旅の間は苦しんで苦しんでいたのに。赤ん坊だ。泣いた顔で笑っている。

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