<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしはとてもこういうことはできない

2017年12月10日 18時50分31秒 | Weblog

わが庵(いほ)は山里遠くありぬれば訪ふ人はなし年は暮れけり    良寛禅師

ふふふふ、ふ。良寬様は淋しがり屋。寂しい寂しいを歌に訴えられる。そんなことくらいは超越しておられるかと思いきや。結句「年は暮れけり」。こうやってこうやっているうちにとうとう年も暮れたなあ、という述懐。年を暮れるまでずっと寂しがっておられたのである。禅師が住んでいる庵は山里遠くにある。新潟の国上山は世を隔てる処。五合庵は小さい。風が吹いたらすぐに寒いところ。雪も積もる。年中一人の暮らし。ご苦労なさったのだなあ。

わたしはとてもこういうことはできない。とてもできない。

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仏道修行者は一処不住でなければならない

2017年12月10日 17時50分01秒 | Weblog

お慕いする良寬様のお歌をもう一首。

浮雲の身にしありせばほととぎすしば鳴く頃はいづこに待たむ

浮き雲の身。行雲流水。良寬様は雲水さんである。仏道修行者は一処不住の人でなければならない。そうでなくとも、人間なべて一つの処にとどまれない、さすらい人である。

いざさらばさきくてませよほととぎすしば鳴く頃は又も来てみん  貞心尼

さようなら、どうかお元気で居て下さい。ホトトギスが鳴く頃になったらまた訪ねて参ります。貞心尼はそういって立ち去って行かれた。そこへすかさず禅師が、返歌をされたのが最初の歌だ。ホトトギスが鳴く頃までは待てません、と。いわば駄々を捏ねられたのだ。そんな冷たいことは言わないですぐにもまた尋ねて来て下さいと。

 

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あなたの歩いてくる道がかくれんぼでもしたのだろうか

2017年12月10日 17時31分42秒 | Weblog

君や忘る道やかくるるこの頃は待てど暮らせどおとづれのなき    良寛禅師

大好きな良寛禅師のお歌のところへお邪魔する。禅師は寂しがっておられる様子。どうして? 仏道と歌と書の友、若い貞心尼の足が遠退いているから。歩いて来る道がどこぞに隠れんぼしたのだろうかなどと恍けてみせるあたり、ちょいと子供っぽくもある。でもそれだけ直截だ。一番言いたいことを初句に歌い込んである。あなたはわたしのことを忘れてしまったのだろうか。恋をしている人にはこういう感情がつきものだ。待っているのだが、日々待って待って暮らしているのだが、あなたのお姿が見えない、と。これは相聞歌ではあるが、現代人の携帯メールに近そう。お出で下さいお出で下さいと来訪を催促をしておられる。禅師はこのとき70歳近辺。お気持ちが若い。

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たったこれくらいで充実感がもらえるのなら

2017年12月10日 17時18分42秒 | Weblog

北の畑に行って来た。車のトランクに農業用具を一式載せて。スコップで溝を作って、有機石灰を播き、そこにフカネギ苗を100本植えてきた。少しばかり土を寄せ、その上に牛糞を施肥しておしまい。市役所の5時のサイレンが鳴った。(あ、チャイムだったかな?) でもまだもう100本残っている。此は明日だ。途中雨が降って来たが、めげずに続行した。畑は湿っぽくて、動かす土が重く感じられた。泥がくっついた靴底を外の水洗い場で丁寧に洗って、汚してはならない玄関からそおおっと上がって来た。

なんだか、働いたって感じがする。気持ちいいぞ。たったこれくらい(実労働時間一時間ちょっと)で充実感を貰えるのなら、世の中安易なもんだ。

あ、読めた。帰り際に見た夕日がきれいだったんだ。西方の山の端をちょっとばかし明るく照らしていたのだ。それで一日を無事過ごせたという充実感をもらえたんだ。

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生きていることはここちよいこと そう僕を思わせるために

2017年12月10日 15時31分39秒 | Weblog

珈琲タイムの3時が過ぎた。3時半。でもやっぱり珈琲を淹れてもらおう。と思っていたらぴったし珈琲が運ばれて来た。部屋に珈琲の匂いがあふれる。おいしい甘柿もいっしょだ。ぐいと飲む。湯気で眼鏡が曇る。柿を噛んで咀嚼して、また飲む。体が温まる。磁器のコーヒーカップが空になった。

贅沢な話だ。僕の耳には音楽が来て、旋律がここちよく遊んでいる。ショパンのノクターン第八番だ。生きているということはここちよいこと。そう僕に思わせるために。

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軒下に雨の音がしているばかり

2017年12月10日 15時27分48秒 | Weblog

雨。雨の雫。雫が軒下に音を立てる。2時に来ると言っておきながら、その人は来ない。何処にも行かずに待っているというのに。軒下には雨の音がしているばかり。

 

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死者は生者の化身・変化身であるかもしれぬ

2017年12月10日 14時44分29秒 | Weblog

雨が降り続いて外に出て行けない。炬燵の中に居る。万葉集を紐解く。珍しく挽歌を取り上げてみる。死者と生者。人は二つの生き様を生き分けることになる。死者はしかし、生者の化身(けしん)、変化身(へんげしん)である。わたしはそういうふうに思うことがある。

次の二首は姉が弟を悼んで作った歌である。前回ここに取り上げた相聞歌の大津の皇子が、あろうことは親友に密告されて国家反逆罪と問われ、自害した。

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む

磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君がありと言わなくに

どちらも大来皇女の挽歌、悼歌である。大来皇女は大津の皇子の姉にあたる。二人とも天武天皇の子。686年、天武天皇が崩御された。その年に、大津の皇子は密告されて国家反逆罪を問われてしまう。捕縛されて自害して果てた。享年二四歳。二上山に廟がある。

「うつそみ」は「うつせみ」に等しく「うつし世を生きる臣(おみ)」、この世を生きている者。現世を指すこともある。

わたしはまだこの世を生きています。あなたは死んで二上山に葬られました。これからさきは山があなたです。弟よ、ああ弟よ。あなたは雲に聳えるほどの崇高な山になっておられるのですね。

谿沿いの荒磯の見えるところに馬酔木の花が今を盛りに小さくかわいく咲いています。これを手折ってしまおうとしましたが、わたしの手はそこで止まってしまいました。見せるべき人はもうここにはいないということが分かったからです。

二上山は現在では「にじょうさん」と呼ばれているらしい。

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とろとろのポタージュスープにでも成ってしまいそう

2017年12月10日 14時09分45秒 | Weblog

あしひきの山のしづくに妹(いも)待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに 

大津の皇子(みこ)がこう書いて歌を贈った。相聞歌。あなたを密かに待って、密かな山の中に逢う場所を決めてあなたを待っていました。わたしは山にかかった霧の雫にすっかり濡れてしまいました。長いこと待っていましたので、この通り霧の雫に袂も濡れて。

受け取ったのは石川の郎女(いらつめ)。彼女はすでに草壁の皇子の后だった。人の目の届かない山に合い挽きの場所を設けた理由がそこにありそうな。彼女は恋多き女性。それだけ人目に付くほどの美女だったのだろう。他にも彼女を恋う人がいたようだ。

すると彼女はこう歌を返してきた。

吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを

石川の郎女の歌。わたしに逢うためにあなたが密かな山の中に行ってわたしを待っていて下さった、とは! であったら、わたしはそのしづくになりたかったものです。あなた袖を濡らすほどの山のしづくに。

わたしが大津の皇子だったら、ふにゃふにゃになってしまっただろう。こんな相聞歌を返してこられたら。さぞさぞさぞ。・・・もちろんわたしはそんな熱烈な歌を贈られるような材ではないけれど。男性はこうした情けを込めた恋のことばであれば、一瞬にしてとろとろの、山のしづく入りポタージュ・スープにでもなってしまいそうだ。

 

 

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彼らはいつまでもそれを悔やんだりしない

2017年12月10日 13時49分04秒 | Weblog

今夜は鍋物。豚肉シャブシャブ。の、予定。で、外へ出て、畑に育っている萵苣、小葱、春菊を摘んできた。彩りと香りを楽しむために。

彼らは摘んでも摘んでもめげない。根絶やしにさえしなければ、またそこから発芽して、新しく新しく伸び上がって来る。常に若者然として凜々しい。悔やまむよりさきに甦生してしまう。偉いなあと思う。こんな芸当はにんげんにはできない。いったいどういう仕組みなんだろう。理科系、生物化学系の頭脳鍛錬をしていない小生には、到底この秘密のカラクリは解けない。

彼らは損失分を忽ちの内に埋め合わせることが出来る。何杯にも膨らませることもある。だからきっと彼らは災難にであったところで、それをいつまでも悔やんだりはしないだろう。すぐに修復に動き出すだろう。

かといって、すべての植物がそういう生き残りの術に長けているかというとそうでもないらしいが。

今夜は鍋物。もしも鍋の中から外から野菜たちの悲しみの声が聞こえてくるようであったら、おいしさは半減してしまうだろうが、そうはならない。にんげんは彼らをおいしく召し上がることが許されている。

 

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お昼は焼き芋 猪が食い残した小さい芋の

2017年12月10日 12時55分21秒 | Weblog

薩摩芋を焼いてもらった。細い、小さいのばかり。どさりと。家の中がクンクン匂う。芋は我が家の畑で収穫されたものばかり。今年も亦猪の被害が大きかった。収獲はほんとに少なかった。猪が食い残したのは細くて小さい。これをにんげんが食べることになった。もう来年は芋作りはよそうかと思う。芋の蔓の代金は高い。これだけ食い荒らされたら、それを取り戻せないくらいだ。僕は畑の畝作りが出来ない。作ってもらう。苗を植えた後の水遣りが数日続く。その頃はかんかん照りだからだ。苗を植え付ける作業は僕でも出来る。水遣りも。

お昼はこの薩摩芋の焼き芋を食べることにしよう。

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