ますけんぷろぐ

 毎回キーワードを決めて、自分なりの世界の捉え方を綴っていこうかなぁとか考えてます。似非哲学ぷろぐ。

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救済

2009年03月17日 22時06分01秒 | Weblog
 今日のテーマは「救済」です。
 さて、神がいるかいないかという議論は定義しだいでどうとでもなってしまうので、まずは何をもって神とするのか、という点から始めなければなりません。しかしながら私の見解では、この定義は永久にされることはないだろうと思います。何故なら、神は信仰のために必要とされているのであり、信仰は救済のために存在するからです。
 宗教というのは、悩み苦しむ人にある考え方を提示することによってその悩みから解放すべく発生しました。世の中の事象を解明すべく発生した科学とは目的も性質も全く異なるものであり、人の心を救い潤わせるという点においてはむしろ芸術や文学に似通っています。宗教自体が神は存在するという前提のもとに立脚しているのであり、その前提を科学という見地から覆して宗教の意義を失わせることにはなんらの生産性もありません。
 たとえば墓前で死者を悼む人の前に行って、死者に魂は無い、死んだら土に還るだけだなんて説いても、その言葉は虚しいだけでしょう。それが事実であったとしても、問題の本質は事実を正しく認識することではないからです。科学的見地からの意見が心の救済に役立つのなら大いに結構ですが、そうでないならむざむざ希望を打ち砕くような行為は慎むべきではないか、そんなふうに思います。

 そろそろ危険な領域に足を踏み入れつつあるなぁなんて思いながら、それでも想像は続きます。
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定義

2009年03月16日 05時47分49秒 | Weblog
 今日のテーマは「定義」です。
 さて昨日の話の続きになりますが、神という名を冠する存在は世界各地で語り継がれています。しかしその定義は様々で、そして往々にしてひどく曖昧です。たとえば北欧神話に登場する神々は、全知全能の神ゼウスを始め、それぞれに司る対象がありそれに関して高い能力を持っています。この神々は極めて人間と似通った姿をしていますので、彼らが神と呼ばれるのはひとえにその能力に依るところが大きいでしょう。もしゼウスが何の特殊な能力も持たない平凡な存在であったなら、おそらく神と呼ばれることはなかったはずです。つまりゼウスは全知全能ゆえに神とされたのであり、その性質は能力に対して与えられる資格や称号のようなものと考えられます。
 これに対して原始的な自然崇拝主義である日本の八百の神は、ただそこに在るだけで神と呼ばれました。比較検討の末ではなく無条件に神とされたのであり、性質としては私たちに与えられる名前のようなものと言えるでしょうか。
 こうして見ると、後天的に神とされる存在と先天的に神と呼ばれる存在があるわけですが、重要なのはむしろ、どちらも人間が神と定めたから神であるという点でしょう。人間は神が創ったそうですが、そもそも神という概念を生んだのは人間だなんて矛盾、面白いですね。

 そんな想像をしつつ、またも明日に続きます。
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2009年03月15日 00時10分33秒 | Weblog
 今日のテーマは「神」です。
 神がいるかいないか、というのは人類史上始まって以来長らく議論されてきたことですが、私はこうした話に触れる度に、神とはいったい何なのかと常々疑問に思ってきました。いるかいないかの議論をする際には、その前提として対象の定義付けが必要になります。例えばゲームなどによく登場する「呪文」なるものが存在するのかという話になった場合、ある言葉を唱えれば即座に火が起こったり地が割れたりすることを指して呪文だとするのならば、それは存在しないという結論になるでしょう。しかし、ある言葉を発することで人の心に影響を与え、その行動や体調を左右することを指して呪文とするのならば、呪文は存在すると言って良いと思います。このように定義一つでまるで結論が変わってしまうのに、神に関しての定義はあまり行われていないようです。神の存在を量るのは人間の分を超えた行為であり不敬であるとして、議論されること自体がそもそも稀なんですね。
 ニーチェは「神は死んだ」と言いました。現代の日本人でも、神を信じている人はほとんどいません。一見同じように見えますが、両者にはやはり違いがあります。ニーチェの言葉は神という概念が無くなってしまったことに対する嘆きであり、現代人の言う神はいないとはいわば問題の根底が異なると言えるでしょう。神に限らず、何かについて議論する場合はまず定義を確認しておくと、誤解や脱線を防ぐことができると思います。

 そんな想像をしつつ、テーマは変わりますが実質明日に続きます。
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多重世界

2009年03月14日 05時47分15秒 | Weblog
 今日のテーマは「多重世界」です。
 皆さんは「もしあのときああしていれば……」という空想に浸ることはありますでしょうか。たとえば入学、たとえば結婚、人生の節目に遭う度に、あのとき違う選択をしていたらどうなっていただろうかと想いに耽るのは存外に楽しいものです。
 しかしこの想像の世界はあくまで私たちの頭の中にだけ存在するのだということは、往々にして忘れがちです。パラレルワールドと呼ばれる多重世界の考え方もその一つで、様々な可能性の世界が分岐してそれぞれに存在するというものです。多重世界が無いという証明は悪魔の証明になるので出来ないのですが、私は信じていません。
 たとえばある選択毎に世界が保存されていくとして、次の瞬間に保存される世界の数はその選択肢の数だけあるわけです。ある状況において次に取りうる選択肢の数は、常識を取り払えばそれこそ無限にあります。大学受験の最中において、突然叫びだすかもしれませんし、踊りを踊りたくなるかもしれません。そしてその行動を取るタイミングによっても世界が分岐していきます。行動に移るのが一秒後かもしれませんし一分後かもしれませんし一時間後かもしれません。突き詰めていけば無限に細分化できるのです。
 さらに言えば、仮に一人の人がまったく同じ行動を取っていたとしても、隣の人が違う行動をしていれば違う世界として保存しなければなりません。そのように考えていくと、多重世界という考え方にはとても無理があるように思えてくるのです。もし平行に存在する世界に移動する手段があるとして、私たちは何をどのように指定すれば良いのでしょうか。あまりに膨大な情報量に、私なんかは思考がストップしてしまいます。

 そんな想像をすると、世界が少しだけ面白く見えるなぁとか思ったりするのです。
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後悔

2009年03月13日 13時58分58秒 | Weblog
 今日のテーマは「後悔」です。
 後悔という言葉にはあまり良いイメージを持っていない人が多いと思います。かくいう私もその一人ではありますが、そのイメージに惑わされて後悔を遠ざけてばかりでは成長もありません。まぁ修行もなにもしていない私たち一般人からすれば「心頭滅却すれば火もまた凉し」なんてわけにはいきませんので後悔の苦さ自体は変わらないのですが、考え方次第で毒にも薬にもなることは確かでしょう。良薬は常に口に苦いものですから、どうせなら覚悟を持って向き合った方が得です。
 後悔とは自分の過ちを認め己の愚かさを自覚するからこそ生じるわけで、必然として後悔を感じないところからは反省は生まれません。後悔をたくさんするということは、それだけ反省、つまり己をより良くする機会を得られるということです。こう考えれば後悔もそう悪くないものだなぁと思ったりするのですが、どうでしょうか。
 後悔をしても始まらないと言いますが、そもそも後悔とは後にならないと出来ないものです。いつも後悔しない生き方が出来るほど人生甘くはないですが、せめてその後悔は自分が納得できるようなものにしたいですね。

 そんな想像をすると、世界が少しだけ面白く見えるなぁとか思ったりするのです。
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最良

2009年03月12日 02時00分03秒 | Weblog
 今日のテーマは「最良」です。
 以前にも述べましたが、人間は自由であるように呪われています。どんな不遇や災難にあったとしても、必ずその時々の状況を鑑みて自分に最良の選択をしようとするものです。他人から見てどんなにメリットの無い選択であっても、必ずそこには理想なり信念なりの決断するに足る理由があります。自由であるとは、つまりそういうことなのでしょう。
 まぁ詭弁ではありますが、私はこの考え方にある種の価値を感じています。こう考えると、人生に失敗なんて無いと思えるようになるのです。今失敗したと感じているとしても、選択したその時にはベストだったはずです。仮に後の自分が失敗だったと感じたとしても、当時の自分にとってその選択をしたことは最良だったはずなのです。ならば、それが失敗だとわかる分だけ、自分は成長したのではないでしょうか。そして、その失敗が無ければ、その選択が失敗だったとわかることは永遠にありません。そういう意味において、失敗だったと思ったとしてもやはりその選択は最良であったのです。
 その選択が最良であったことは、その本人にしかわかりません。失敗して、他人から責められることもあるでしょう。しかし、自分が最良を尽くしたと信じられるのなら、胸を張っていられると思います。

 そんな想像をすると、世界が少しだけ面白く見えるなぁとか思ったりするのです。
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真実

2009年03月11日 01時12分57秒 | Weblog
 今日のテーマは「真実」です。
 某名探偵の決め台詞に「真実はいつも一つ!」というのがありますが、私の感覚では、これは適切な表現ではないなぁなんて思います。なぜなら、真実は人の数だけあるのですから。「事実はいつも一つ!」なら賛同できるのですが。
 真実と事実、この二つを私は違う意味を持つ言葉だと捉えています。事実が事象を客観的に捉えた姿だとするなら、真実は事象を主観的に捉えた姿です。そして私たちは永遠に真実しか知ることができません。なぜなら、人間は主観以外で事象を観る術を持たないからです。例えば、天動説はガリレオやコペルニクス以前の人類にとって真実でした。では事実は地動説なのかというと、これも私たちが捉えた真実にしか過ぎません。地動説だって、科学という極めて客観に近い形で事象を観測できる手法で私たちが知りえた真実でしかないのです。
 天動説より圧倒的に事実に近い事は確かでしょう。しかし、残念ながら事実であることを証明することは決して出来ません。さらに私たちはその昔誰かが到達したであろう地動説という真実を学校で習い、それを自らの真実としてきました。つまり、事実らしき事象を観測した科学者の学説を学校という場を通して伝聞という形で学習しているだけで、それが事実であるかどうかの裏付けを取っていないのです。このような、事実とは程遠い位置にありながら、その情報を事実と信じ自らの真実を構築していっているのが実際のところでしょう。
 しかしながらこれは決して間違った態度ではありません。結論としてはそれが最も効率的な自らの世界の作り方であるし、事実に近づける確率も高いでしょう。ただし、そうした情報は常に私たちの中の真実であり、事実である保証は絶対に無いということを忘れてはならないと思うのです。すべてを疑いながらも、なお信念として貫ける、そんな真実を見出していきたいものですね。

 そんな想像をすると、世界が少しだけ面白く見えるなぁとか思ったりするのです。
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環境

2009年03月10日 00時06分26秒 | Weblog
 今日のテーマは「環境」です。
 環境問題が叫ばれて久しい昨今ですが、人類がこの危機を乗り越えられるのかというのは個人的に非常に興味があったりします。自然の摂理と人類の叡智のいったいどちらが勝るのか。負ければ絶滅必死の、まさにデスマッチ。不謹慎ですが世界一を決める決勝戦を見るようなワクワクを覚えたりします。
 しばしば地球環境を良くする為には人類が滅べば良いという意見を耳にしますが、それは違う気がします。例えばそれは、草食動物が可哀想だから肉食動物がいなくなれば良いという意見に似ています。草食動物は草を食べて、肉食動物は草食動物を食べる。それで自然界のサイクルは上手く回っているのであり、様々な生物が共存できているのです。そして人間がその自然界においてこれだけ抜きん出て発展してきたのも、生態系の変容の一環であるように私には思えます。確かに人間が環境を破壊して動物が住みにくい環境を作り出してしまっていることは事実です。しかし、だからと言って良かれと思って人類が自ら絶滅したとしても、それで自然界の生物たちは幸福に思うかというと疑問が残る気がするんですね。仮に地球上の生物すべてが人間に絶滅してほしいと思っていたとしても、じゃあ絶滅しますというのは果たして良い選択と言えるのでしょうか。大事なのは、なぜそういった状況になっているかを考え、共存のスタイルを見つけ出していくことだと思うのです。
 人類がいなくなれば地球環境が良くなるというのはある意味で思考放棄に近いと言えるでしょう。種の保存は生物として至極当然の欲求であり、そのために動物たちはありとあらゆる手段を取ります。自らの存続にでも関わらない限り、それによって他の種にどういう影響が出るかまでは配慮しません。何故なら、行動の結果は自然の摂理によって裁かれることであり、個々の種が考えるべき事柄ではないからです。人間だって生物である以上、種の保存や発展を第一に考えるのは自然なことです。ときには神に逆らってでも生き延びる、そんな人類の意地があってもいいんじゃないかと思うんですね。

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残酷

2009年03月09日 22時58分43秒 | Weblog
 今日のテーマは「残酷」です。
 残酷というのは面白い側面を持った表現で、当人の感情のいかんに関わらず使われることがままあります。本人が意図しなくても人は残酷足りえます。だから優しさや無邪気さと同居できるんですね。
 飼っている犬の名前が「いも」だという人がいて私は大笑いしてしまったのですが、考えてみればつけられた犬の方はたまったものではありません。これが子どもにつけたのなら大問題です。下手すれば虐待レベルのネーミングですが、犬だから笑い話で済んでしまうのです。これも残酷な話だと言えるかもしれません。
 しかし人間、適度に残酷である方が正常だと私は思うのです。あまり残酷さに過敏になると、足を踏み出せなくなったり判断を誤ったりしがちです。例えば私たちは動物の命を助ける特番に涙しながら平気で肉料理を食せます。矛盾しているように見えますがこれは極めて普通の感覚です。生きるために仕方が無い行為だから残酷ではない、といった話ではありません。有無を言わさず肉にしている以上、殺される側にしてみればただの虐殺となんら変わりはないでしょう。そうではなく、私たちの生活はそうしたある種の残酷さに支えられているということを無自覚のうちに理解しているからこそ、日常に残酷さを感じないのではないかと思うわけです。
 自然界は厳しく、残酷な世界です。弱肉強食は自然の摂理であり、弱者に憐憫をかけるかどうかは強者の特権とも言えます。自らの都合の為に弱者に残酷な決断をすることもあるでしょう。しかしそんなとき少なくとも、自らが残酷であることを誤魔化さない覚悟を持っていたいですね。

 そんな想像をすると、世界が少しだけ面白く見えるなぁとか思ったりするのです。
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時間

2009年03月08日 00時08分47秒 | Weblog
 今日のテーマは「時間」です。
 時間というのは概念であり、実際に存在しているわけではない、というのが私の考えです。世の中にあるのは物事の変化だけで、それを順序立てて認識する主体がいて初めて前後関係に意味が生じます。例えば時計の秒針をじっと見続けていると、時間が経過しているのではなく単に針が動いているだけだというのが実感できると思います。私たちが過去を認識できるのは今現在にその記憶があるからで、物自体は現在の世界を動き回っているだけです。世界は過去から現在に推移しているわけではなく、現在は現在のままで変化しており、変化の経緯の記憶の累積が過去として私たちの脳裏に現れるのです。
 私たちが死んでも、世界は変化し続けます。そこには過去の世界も未来の世界も無く、ただただ変容し続ける現在の世界があるだけでしょう。終わりも始まりもありません。ただそこにあったものが、形を変え続けただそこにあり続ける、これが私の住んでいる世界への認識です。
 余談ですが、時間について考えるとき私はしばしば、世界を認識している主体である自分という存在が死んでしまえば一瞬にして永遠が過ぎ去るような奇妙な感覚に襲われます。認識する者がいないのなら変化の速度が速かろうが遅かろうが同じことであり、永遠であり一瞬でもあるような世界がただ無限の彼方まで存在している、そんな感覚です。この辺りはまだ上手く言語化できていないところなのがもどかしいですが。

 そんな想像をすると、世界が少しだけ面白く見えるなぁとか思ったりするのです。
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