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平尾昌晃 逝く

2017-07-23 20:12:57 | 気になる事
「瀬戸の花嫁」「よこはま・たそがれ」など数多くのヒット曲を手掛けた作曲家で歌手、平尾昌晃(ひらお・まさあき)さんが肺炎のため、21日午後11時40分に東京都内の病院で死去したことが22日、分かった。79歳だった。葬儀・告別式は近親者で執り行い、秋頃に音楽葬を開く予定。関係者によると、平尾さんはかねてから肺が弱く1週間前に症状が悪化して入院。復帰を目指して療養していたという。温和な笑顔で親しまれた巨星が、ついに力尽きた。

 昭和の歌謡史を代表する偉大なヒットメーカーが、この世を去った。

 関係者によると、平尾さんは1968年に肺結核を患って以降、肺に疾患があり、2年前には肺がんを発症して闘病。その後は入退院を繰り返し、今年5月にも息苦しいと体調不良を訴えて1カ月ほど入院していた。

 一時は回復したが、今月13日に暑い日が続いたこともあって体調を崩して検査入院。入院中も仕事に対して前向きで亡くなる前日20日には食欲もあり、大好きなゴルフの全英オープンをテレビ観戦するなど体調も良かったが、亡くなる1時間前の21日午後11時ごろに容体が急変。最期は夫人や数人の親族、事務所関係者に看取られ、眠るような穏やかな顔で息を引き取った。息子で歌手、平尾勇気(36)は看取れなかったという。

 近親者によると、2月22日の作曲家、船村徹さん(享年84)の通夜には車いすで参列していたが、同27日のオートレース選手表彰式では笑顔でステージに登壇し、乾杯の音頭を取るなど元気な姿を見せていた。

 クラシック一家に生まれた平尾さんは、慶応高中退後に当時人気を博していたウエスタンバンド「チャック・ワゴン・ボーイズ」で音楽活動を開始。1958年に「リトル・ダーリン」でソロデビューし、“和製プレスリー”として話題に。ミッキー・カーチス(79)、故山下敬二郎さん(享年71)とともに「ロカビリー三人男」とも呼ばれ、日劇ウエスタンカーニバルの看板スターとして活躍した。

 その後は作曲家としても才能を発揮し、布施明(69)の「霧の摩周湖」、五木ひろし(69)の「よこはま・たそがれ」や小柳ルミ子(65)の「瀬戸の花嫁」などヒットを連発。歌手としても、自身が設立した「平尾昌晃ミュージックスクール」の卒業生、畑中葉子(58)とのデュエット「カナダからの手紙」が大ヒットした。

 「瀬戸の花嫁」などの楽曲提供を受けた小柳はこの日、カシマスタジアムで行われたサッカー・J1鹿島対スペイン1部セビリアを観戦後、関係者から恩師の訃報を聞き、落胆。サンケイスポーツの取材に応じ、「お体がすぐれないということは聞いていました。あまりにもショックで、今は言葉がみつかりません。たくさんの思い出がありすぎて…」と突然の出来事にがっくりと肩を落とした。

 平尾さんは近年、日本テレビ系「ものまねバトル」やNHK「のど自慢チャンピオン大会」で審査員を務めるなど幅広く活動。2006年からは「NHK紅白歌合戦」でフィナーレを飾る「蛍の光」の指揮を担当。最後まで作曲活動にも意欲的だった昭和の巨匠は人々の心に多くの思い出を刻み、天国へ旅立った。

★ローズキングダムで10年のJCを勝利

 平尾さんは中央競馬の馬主として10頭以上を所有したことでも知られ、自身のヒット曲名を冠した「スーパーミヨチャン」などが活躍。2010年のジャパンカップを勝ったローズキングダムにはクラブ法人で出資していた。大のオートレース好きで、ファンファーレを制作し、“オートレースファン総代”とも呼ばれた。少年院や福祉施設での慰問ライブやチャリティーゴルフ大会を開くなど慈善活動にも尽力した。

平尾 昌晃(ひらお・まさあき)

 1937(昭和12)年12月24日生まれ。東京都出身。慶応高校在学中に日本ジャズ学校に入学し、慶応高中退後にウエスタンバンド「チャック・ワゴン・ボーイズ」に参加。58年に歌手デビューし、60年代半ばからは作曲家としても活躍。小柳ルミ子、梓みちよなどに数々の人気曲を提供。平尾昌晃ミュージックスクールを設立するなど新人歌手育成にも努め、2003年に紫綬褒章を受章した。(サンケイスポーツ)

有名な曲を作曲しているんですね。
ご冥福をお祈りします。

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