陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

355.辻政信陸軍大佐(15)川口元少将、辻元大佐は聴衆の前で公開討論を引き起こした

2013年01月10日 | 辻政信陸軍大佐
 ここで、初めて前述の話が辻中佐から丸山中将に伝わっていないことを川口少将は知った。

 「では、先発隊の第三大隊で夜戦をかけます」と川口少将が言うと、丸山中将は「命令は文書の通り実行せよ」と怒鳴った。

 やがて丸山中将は川口少将を改めて電話に呼び出し、「川口少将、貴官はただちに師団司令部に出頭せよ」と命令した。

 川口少将が指揮を東海林大佐に引継ぎ、丸山中将のところへ着くと、なんと解任させられていた。

 辻中佐は、この件を知ると、電話で小沼大佐を呼び出し、「川口少将が攻撃前進を拒否し、師団長は彼を解任しました」と伝えたという。

 戦後、辻大佐が日本に帰国し潜行から現れると、石川県で、川口元少将、辻元大佐は聴衆の前で公開討論を引き起こした。

 この公開討論会では、辻元大佐が「川口少将は初めから成功の見込みなしと考えてやる気がなかった、いやしくも戦場で天子様に一命を捧げる忠誠心のない者は、解任されるのが当然である」と主張した。

 川口元少将も、事実に基づいて反論したが、聴衆には辻元大佐の支持者が多く、野次と怒号が飛び交い、公開討論会は、辻元大佐の優勢に終わった。

 昭和十九年七月三日、「陸軍大佐辻政信を第三十三軍参謀に補す」との電報が、第三三軍司令部に舞い込んできた。

 「回想ビルマ作戦」(野口省己・光人社)によると、この電報は一瞬、なにかの間違いではないかと、真意のほどを疑うくらい第三三軍司令部内を驚かせた。

 定期異動の時期でもないのに、季節外れの電報だった。何事が起こったのだろうかと思った。恐らく、高級参謀白崎嘉明大佐(陸士三四・陸大四三・第一八師団参謀長)との交代であろうと想像した。

 ところが、いつまでたっても白崎大佐の転任の発令はなかったので、中間軍の小さな世帯に大物の大佐参謀が二人も揃うという変則が生まれた。

 考えたのは、軍は近く断作戦(印支ルート遮断作戦の秘匿名)の重責を担うことになったので、幕僚陣の戦力を強化するための起用であろうと考えた。

 当時は辻参謀といえば「作戦の神様」として、陸軍部内きっての戦上手の参謀として、その名を轟かせていた。

 辻政信大佐は、このようにいろいろと噂の渦巻く中を、七月十日、メイミョーの第三三軍司令部に着任した。

 後で聞いた話では、真相は辻大佐が中国の占領政策について、東條英機総理大臣と衝突し、その逆鱗にふれての懲罰人事として、戦局苛烈なビルマに飛ばされたとのことで、とんだハプニングだった。

 二人の大物の大佐参謀を抱えて、軍司令官・本多政材中将(ほんだ・まさき・長野県・陸士二二・陸大二九・フランス駐在・中将・支那派遣軍総参謀副長・第八師団長・機甲本部長・第二〇軍司令官・第三三軍司令官)はその処遇に迷った。

 辻政信大佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜)は、さきのマレー作戦で第二十五軍作戦主任参謀、大本営作戦班長、支那総軍課長参謀を歴任している。

 白崎嘉明大佐(陸士三四・陸大四三)は、辻大佐より二期先輩で先任でもあり、立派に高級参謀の職を果たしつつあった。小世帯の軍司令部では、高級参謀を二人おくこともできなかった。

 本多軍司令官はやむなく、「辻君は、中佐参謀になったつもりで、作戦主任参謀として働いてもらいたい」と、辻大佐に申し渡した。

 これでは、二段階以上の格下げとなった。いうなれば、大会社の本社の課長から、新設の田舎の支店の係長か、平社員に飛ばされたようなものだった。

 だが、辻大佐は、東條人事の厳しさが骨身にこたえたようで、「よろこんでお受けいたします。死力を尽くして頑張ります」と神妙な顔で答えていた。