陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

447.乃木希典陸軍大将(27)乃木中将が台湾総督として赴任したのは、確かに失敗だった

2014年10月17日 | 乃木希典陸軍大将
 さて、桂中将が突然辞任したので、乃木希典中将が総督に性格的に向くとか向かんとかいうのは第二の問題で、とにかく台湾総督の椅子を空っぽにしておくわけにはいかなかった。

 そこで、陸軍の中央部は、乃木に白羽の矢をたてた。理由は簡単だった。乃木中将はかつて、台湾討伐(明治二十八年六月)をしているからで、乃木中将なら睨みがきくだろうということだった。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、桂中将が台湾総督を辞職して、間もなく、乃木中将は政府の命により、東京へ出てきた。

 その夜、親友の児玉源太郎少将(被服装具陣具及携帯糧食改良審査委員長・男爵)が訪ねてきて、「台湾総督として、君を推挙するつもりであるから、是非、承知してくれ」と言って相談を持ち掛けた。

 乃木中将はしきりに辞退して、「そういう事は、俺の適任でないから、平に断る。俺は、一生を、単純な軍人生活で、終わるつもりだ」と、固く断った。

 だが、児玉少将は「台湾の前途は、なかなか重大で、その経営の上についても、苦心があるのに、土匪の征討が、容易ではない。君のような者に行ってもらわなければ、これを成し遂げることは難しい。是非、行ってくれ。新領土としての経営の上には、民政長官というものが、別にあるのだから、そうひどく君に、心配をかける訳もなかろう。兎に角承知してもらいたい」と言って、色々説きつけた。

 このような押し問答が度々、重ねられ、また、各方面からも、しきりに勧められるので、遂に乃木中将も、承知して、台湾総督を引き受けてしまった。

 明治二十九年十月十四日、乃木希典中将は台湾総督に任じられた。ちなみに、この日に、児玉源太郎は陸軍中将に昇進し、臨時政務調査委員長に就任している。乃木中将は四十六歳、児玉中将は四十四歳だった。

 乃木中将が台湾総督として赴任したのは、確かに失敗だった。乃木の気質は、自分が引き受けてしまえば、誠実にそれを勤めて、己の力の続く限り真面目にやる。それで力が及ばなければ、己の罪である。職を辞めるなり、腹を切るなりする、というものだった。だから、政治的柔軟性が全くなかったのである。

 乃木中将は、明治二十九年十一月、家族とともに、台湾に赴任し、総督府官邸に入った。ところが、当初から、この官邸でも、乃木中将は、桂中将をにがにがしく思ったのである。総督官邸は二つあった。一つは最初から建てられている粗末な洋式の家だった。

 もう一つは、桂中将がこんなところに住めるかと言って、新築させたという日本式の立派な屋敷だった。乃木中将は桂中将のやり方を憤慨した。乃木中将は台湾統治について次のような考え方を持っていた。

 「植民地の政治は、そこに住む人々の心をまず、なごませることから始めなければならない。台湾に住む住民たちは、まだ日本人ではないのだ。新日本領土となって、表向きは日本国民になったとはいえ、本当は支那人ではないか。だから日本人に対するようにはいかない」

 「彼らは急に変わった環境から日本人に不安と不満を抱いているに違いない。統治する者としては、全ての行動に慎み、質素で公正、清廉潔白でなければならない。勝った者が負けた者を支配するというようなおごりがあってはならない」。

 乃木中将は、今後、台湾総督として、以上のような方針でやっていこうと考えた。当時、台湾にきていた公吏は給与やその他の待遇は内地の官吏に比べてはるかに良かったので、彼らは分に過ぎた贅沢な生活をしていた。

 乃木中将は総督として、まず、その悪習から改めにかかった。また、賄賂を取る習慣もついていた。乃木中将は贈り物を取ることを一切拒否し、またそうすることを禁止した。こうしたことから、乃木中将に対する反感が起こった。

 台湾の官吏の中で総督・乃木中将排撃の急先鋒になったのは、民政府長官である曾根静夫(そね・しずお・千葉・北条県<現・岡山県東北部>十五等出仕・内務省地租改正事務局・鹿児島県一等属・租税課長・農商務省・大蔵省主計局総予算決算課長・大蔵省国債局長・拓殖務省北部局長・台湾総督府民政局長<民政府長官>・同財務局長・山形県知事・北海道拓殖銀行初代頭取)だった。

 曾根民政府長官は乃木中将に対して、ことごとく反対する態度をとった。曾根長官は桂太郎と同腹の人間だった。曾根長官は中央政府に対して、色々と乃木中将の中傷を続けた。その遠距離射撃がきいたのか、乃木中将は突然に急ぎ上京せよとの電報を受け取った。

 この時、乃木中将の母、寿子はマラリヤにかかり、急に容態が悪化して、すでに世を去っていた。乃木中将が上京する時、曾根長官も同行した。曾根長官には上京の命令が出ていないから、行く理由はなかったが、彼は当然のことのような顔をして上京した。

 当時、内閣は第三次伊藤内閣になっていて、桂中将は、八方手を回して運動し、望み通り、陸軍大臣の椅子に座っていたのである。