江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

「お手付き」が早過ぎる?

2016-10-14 13:56:52 | 「魏晋南北朝隋唐演義」
 「お仕事」ネタばっかり書くのもどうかと思うので、少々東洋史ネタを。

 魏晋南北朝期に存在した代・北魏(310-376、386-534)という王朝――というか、「五胡諸政権」の最終形態にして、東魏・北斉(534-550、550-577)、西魏・北周(535-557、557-581)、(581-618)、(618-907)と続く鮮卑系「拓跋国家」の初発王朝――には、「ユニーク」な(というよりも「グロテスク」な、と言った方がより適切であるかもしれない)特徴がいくつか存在する。例えば、他の「中華王朝」では極度に少ないはずの「異姓王」が数多く存在した(これに匹敵する「異姓王」封建王朝は、前漢――ただし最初期のみ――と大元ウルスぐらいのものであろう。それぐらい「中華王朝」は「異姓王」を忌避する)。後日これが紛乱の火種になるのだが、今回はその話ではない(←だったら書くなよ)。
 また、皇太子の生母を敢えて殺害して外戚の専横を排除するという、乱暴かつ合理的(?)な「生母殺害の制」が存在した(しかしその後、生母に替わって皇太子を養育した「養母(保母)」が実権を掌握してしまうようになる。第六代皇帝・孝文帝(467-499)の「養母」となった文成文明太后馮氏(442-490 以下馮太后)が臨朝聴政したのがその代表例である。もっとも馮太后と孝文帝は、実の母子だったのではないか、という「奇説」も存在するのだが)。これを指して、「遊牧民に起源を有する王朝の乱暴な制度」と評する史家もいるのだが、『魏書』によると、前漢の武帝劉徹(正確には「孝武帝」。基本的に漢の皇帝の諡号にはほぼ必ず「孝」の字が付くので省略されているだけである。後漢の始祖・劉秀の諡号「光武帝」は珍しい例外といえる。実は、前漢にも後漢にも本当の意味での「武帝」は存在しないのである。ということは、「中華帝国」初の「武帝」は曹魏の曹操、二人目は西晋の司馬炎ということになるのか)が皇太子の生母を殺害した故事にちなんで定められたものであったという。最近流行(?)の「ブーメラン」でいうと、この件で北魏を貶すと漏れなく前漢に跳ね返ってくる、ということになるので、いささか注意が必要であろう。


 というか、昔から不思議なのだが、何故「遊牧民=野蛮」ということになるのだろう? あんな文明的な連中――言葉の綾ではない――そうそういないよ? 口伝で圧倒的な量の神話伝承や系譜を朗々と暗唱するとか、文字に慣れ親しみ過ぎた人間には、到底真似できない高度な作業だから。文明のパターンが異なるというだけの話で、野蛮人でも何でもない。もし北狄・東夷・南蛮・西戎といった文字のニュアンスに引き摺られているのだったら、それは「中華思想」の悪しき側面の影響を受けている、というだけの話である(自分たちだって「東夷のくせに」って言われたら腹を立てるはずなのにね)。
 遊牧社会の慣習である「レヴィレート(レヴィラト)婚」に対する「誤解」などもそうである。日本にもかつて「嫂(あによめ)婚」が存在したように(実際、かつて私の家の近所にそういう老夫婦がいた。まだ認知症を発症する前の祖母が、「ああ、あそこのばあさんの旦那は戦死した前の旦那の弟だ」と実にさらりと嫌味なく教えてくれたものである。私の祖父母の世代ぐらいまでは「そうするのが当然」という風が残っていた)、中央・北・北東アジアでは普遍的な慣習である。それを殊更に取り上げて、「レヴィレート婚みたいな奇習があったなんて野蛮だ!」というのはいかがなものかと思う。「寡婦となった嫂(あるいは己の生母以外の亡父の側室。これも「気持ち悪い」という人がいるが、側室たちが管理している「家産」や異母弟妹たちの安全を保障するための方策という側面の方が強い)に求婚するのがエチケット」という文化の元で生きてきたかつての遊牧民に対して、「それは人倫に悖る野蛮な行為だ」などと発言する方が遥かに「野蛮」な行為であろう(……って擁護し過ぎかな? でも、「じゃあ、かつての天皇家でよく行なわれていた『同父異母兄妹(姉弟)婚』はどう説明するんですか? こっちの方がよっぽど『気持ち悪い』じゃないですか」などという話だってある訳で、所詮「野蛮」の基準なんて曖昧なものなのである)。

 それから、いささか下世話(?)な話――これが本題なのでやむを得ない――だが、皇帝(あるいは皇太子)が女性と「接する」のが異様に早かった、という特徴もある。①太祖道武帝拓跋珪(371-409 鮮卑名は渉圭)の長男・②太宗明元帝嗣(392-423 鮮卑名は木末)が誕生したのが道武帝二十二歳の時である……というのは、実は大変に遅い。明元帝の長男・③世祖太武帝燾(408-452 鮮卑名は佛狸)が誕生したのは明元帝十七歳の時、太武帝の長男・恭宗景穆太子晃(428-451 鮮卑名は天真)が誕生したのは太武帝二十一歳の時、というのもこれまた大した話ではない。景穆太子の長男・④高宗文成帝濬(440-465 鮮卑名は烏雷)が誕生したのは景穆太子十三歳(!)の時、文成帝の長男・⑤顕祖献文帝弘(453-476 鮮卑名or字は万民)が誕生したのは文成帝十四歳の時、献文帝の長男・⑥高祖孝文帝元宏(字は不詳 北魏帝室は孝文帝の代から「元」に改姓)が誕生したのは献文帝十五歳の時、孝文帝の長男・廃太子恂(482-497 字は元道。その冠名の通り、後日廃嫡されてしまう)が誕生したのは孝文帝十六歳の時だからである。
 これを、「そうかそうか、北魏歴代皇帝の皆さんは、早熟かつ好色だったんだなあ」などと思ってはならないであろう(いや、まあそういう奴が若干混じっていた可能性は否定できないが)。例えば景穆太子は、二十四年という短い生涯の間に、文成帝を含めて十四人の男子を儲けている。男子だけで十四人である。この男子たちは、ひとりの早世を除いて皆成人し(乳幼児死亡率の高い当時にあって、「健闘した」数字といえるだろう)、長子の文成帝以外の十二人はいずれも王に封ぜられた(もっともこの中には僅か十代前半で死去したという王も存在はするのだが)。彼らは史上「景穆十二王」と称せられ、その嫡裔は王号の世襲を許された。孝文帝やその後継の⑦世宗宣武帝恪(483-515 字は不詳。廃太子恂の異母弟)の側近として活躍した任城文宣王澄(467-519 字は道鎮)や中山献武王英(46?-510 字は虎児)は、「景穆十二王」の子の世代に該当する(澄の父は任城康王雲(447-481)、英の父は南安恵王楨(447-496)といい、いずれも文成帝の異母弟にあたる。雲と楨は同い年だが双子ではなく、それぞれ生母が異なる。なんともまあ「お盛ん」なことである。なおまたまた余談だが、一部の書籍で任城王澄と中山王英を孝文帝の「はとこ」としているものがあるが、正確には、文成帝の子・献文帝の従弟にあたる。ただし、年齢的には澄と英は献文帝の子・孝文帝宏とほぼ同い年である。『三国志』の荀彧と荀攸の関係――甥の荀攸の方が叔父の荀彧よりやや年上――などを想起すると判り易いだろうか)。ちなみに、景穆太子の直系の曾孫にあたる孝文帝は、三十三年の生涯で七男六女を儲けている(が、男子ひとりは早世している)。基本的に、大量の男子を儲けた人物は、ほぼ同数の女子をも儲けていたであろうことが想定される(無論例外はいくらでもおり、西晋の景帝司馬師が儲けた五人の子はいずれも女子であった。師の死後その継嗣となったのは弟たる文帝昭の第三子・斉献王攸であった)。記録されていない女子も含めれば、おそらく景穆太子の子の総数は二十人を超していたかと思われる。いずれにせよ、なんとも凄まじい数である。
 それにしても、二十四の若さで死んだ皇太子が、その生涯で二十余人の子を儲けたかもしれないというのは、些か尋常ではない何ごとかを感じる。参考になるかどうか判らないが、唐の高祖李淵は七十年の生涯において二十二男十九女を、清の聖祖康熙帝は六十八年の生涯において二十四男二十女を、それぞれ儲けている。この両皇帝が儲けた子の男女比率がほぼ半々であることから(ちなみに、生物学的にはヒトのオス・メス誕生比率は、異説もあるが104:100前後になるのだという。何らかの「作為」が生じない限り、オス(=男子)の誕生の方がメス(=女子)のそれよりやや多くなるというのは自然なことであるらしい)、やはり景穆太子にも十人前後の女子が誕生していた、と考えられる。ついでなので、北魏歴代皇帝がその生涯で儲けた男子の数を列記しておくと(残念ながら、孝文帝以外の北魏皇帝が儲けた女子の総数は検出できなかった)、道武帝が三十八年の生涯で十男(うち二人は早世)、明元帝が三十二年の生涯で七男、太武帝が四十五年の生涯で十一男(うち五人は早世。無事生まれても約半数は死んでしまうんだなあ)、文成帝が二十六年の生涯で七男(うちひとりは早世)、献文帝が二十四年の生涯で七男となる。……北魏帝室の「ハイペース」ぶりは、やはり少しおかしいのではないかと思う。そして皇帝(皇太子)が、十代前半から半ばという年齢で父親になることが四世代も連続する――景穆太子から孝文帝まで――というのも、かなり異様な光景であるといえる。
 おそらくこれは、少年皇帝(皇太子)本人の意思で儲けた子ではなかったと思われる。「誰か」から「産めよ、増やせよ」を強制されていた、「国是」として一刻も早く嫡子を儲けなければならなかった、しかも、嫡子だけでなくその兄弟姉妹をも大量に必要としていた、と考えるのが妥当であろう。ひところ、「女性は子どもを産む機械」と発言して大顰蹙を買った某国の政治家がいたが、千五百年以上前の北魏にあっては、より露骨に「皇帝(皇太子)は子どもをつくる機械」だったわけである。



<北魏略系図  姓は「拓跋」、孝文帝以降は「元」 ①:北魏皇帝、㊀:東魏皇帝、❶:西魏皇帝>

昭成帝什翼犍
   ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 献明太子寔                <昭成子孫王>
   ┃
①太祖道武帝珪        <道武七王>
   ┣━━━━━━━━┳━━━━━━━┓
②太宗明元帝嗣    清河王紹       他六王
   ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓
③世祖太武帝燾               <明元六王>
   ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓
恭宗景穆太子晃               <太武五王>                           <景穆十二王>
   ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
④高宗文成帝濬                                            他十王     任城王雲   南安王楨
   ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓                                   ┃        ┣━━━━━┳━━━━━┓
⑤顕祖献文帝弘               <文成五王>                 <献文六王>   任城王澄   中山王英   章武王彬   扶風王怡
   ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓         ┃       ┃
⑥高祖孝文帝宏               <孝文五王>                     他四王     広陵王羽   彭城王勰   章武王融   ⑩敬帝曄
   ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓               ┃        ┃        ┃
⑦世宗宣武帝恪 廃太子恂  京兆王愉   清河王懌   広平王懐   汝南王悦         ⑪前廃帝恭  ⑨孝荘帝子攸  ⑫後廃帝朗
   ┃                 ┃       ┃        ┃
⑧粛宗孝明帝詡        ❶文帝宝矩  清河王亶  ⑬孝武帝脩(出帝)
            ┏━━━━━┫        ┃
          ❷廃帝欽   ❸恭帝廓  ㊀孝静帝善見



 では、何故北魏の少年皇帝たちは若くして父親にならなければならなかったのか。いくつか理由を想像することはできる。
 まずは単純に、①:次期後嗣を儲け、皇統を永続させるため。だがそれにしても「それほど大量の後嗣が必要か」と問われれば、首を傾げざるを得ない。長男と、念のための「スペア」としての弟を一、二名程度は必要とするだろうが、果たしてあれだけ大量の弟が必要とされるだろうか。という訳で考えられるのが、②:皇帝に忠実な「藩屏」をつくるため。だが、多過ぎる皇族の存在は、後日争乱の火種となりうる。北魏の子沢山政策は「諸刃の剣」だったといえるだろう(実際にいくつかの「内紛」が生じている。ただこれは同時代の南朝でも同様であったが)。そして、これまた大量に産み落とされた女子に関しては、③:生まれた女子を婚姻の道具として活用するため。北魏では、女子(公主)が誕生するとそのほとんどが「外国」に嫁がされている。この場合の「外国」とは、最初期には五胡諸政権、その後は北魏周辺に住まう有力部族長たちである。北魏廷臣で公主を娶った事例は驚くほど少ない。どうやら北魏では、皇族女子は徹底して外交政策の「人身御供」であったようだ。
 道武帝が一人っ子であったことも「産めよ、増やせよ」政策が推進される遠因となった可能性はある。そもそも道武帝が一人っ子であったのは、彼が誕生する二ヶ月前に父親である献明太子寔(3??-371)が横死したことに起因する。どうやら重臣の謀叛に巻き込まれてのものであったらしい(つまり道武帝は、父の顔を知らない子だったのである)。道武帝が代王、次いで魏王に即位した頃、道武帝の周囲には頼りとする血縁者がほとんどいなかった(正確には、従兄弟、はとこ、それより遥かに遠縁の疎族、枝族の類――『魏書』ではそれらを一括して「神元平文諸帝子孫」と呼んでいる――は山のように存在したのだが、彼らはいずれも数世代以上離れた「血族」であったし、さほど有力な存在というわけでもなかったようである)。そもそも、血を分け合った兄弟はひとりもおらず、七人もいたはずの叔父たち――道武帝の祖父・昭成帝什翼犍(じゅうよくけん 318-376)の子ら――はほとんど死に絶えていた。その数少ない生き残りであった拓跋窟咄(くっとつ 3??-386 献明太子の末弟)に至っては、道武帝と魏王位を争って惨死を遂げている。道武帝には、有力な「藩屏」が存在しなかったのである。
 そうした帝室基盤の不安定性から、「産めよ、増やせよ」政策が推し進められていったということであろう。そして、道武帝自身が三十九歳の若さで実の子である清河王紹(394-409)に弑逆されたという事件が、事態により一層の拍車をかけることとなった。皇帝の「スペア」を早急に「準備」できる体制とはいかなるものか。それは、皇太子だけではなく、その次の後継者も常に「準備」出来ている状態である(と、当時の北魏首脳陣は考えたのであろう)。かくして歴代の皇太子は尋常でない速さで女性をあてがわれることになる。歴代皇帝が若くして長子を儲けている理由がこれであろう。更に言えば、若き皇帝(皇太子)の嫡子が必ず後の皇帝(皇太子)となるという慣習が永続すれば、他の皇族諸子との間に明確な差違を創ることもできる。その結果、北魏では直系十世代が皇帝位の世襲を続け、傍流から皇帝が誕生することが無かった(系図参照。ここまで直系相続が続くこと自体かなり珍しいと言える)。おそらく孝文帝や宣武帝の代には、北魏皇帝の貴種性は相当高まっていたことであろう。

 ……無論、多量の子女の誕生は、単に歴代皇帝の好色の所産でしかなかったのかもしれない。だが、中華皇帝にとっては婚姻・出産ですらある種の「政治」であったともいえる。以上の想像はあくまでも私の見立てでしかないが、ある程度の正鵠を射ているのではないだろうか。
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2 コメント

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Unknown (与力)
2016-10-16 03:51:28
更新お疲れ様です。自分のブログで南北朝の昏君列伝なんか書いておきながらアレですが、実はそんなに詳しい時代ではないので、勉強になります。

>皇太子の生母を敢えて殺害して外戚の専横を排除するという、乱暴かつ合理的(?)な「生母殺害の制」が存在した

某軍務尚書が聞いたら『実に理にかなった制度だ』と呟くことでしょう。隋・唐代は何かと女性と政治が密な関係で、それが時に傾国の禍を招いたことを考えると、ある意味ドラスティックでプラグマティックな制度といえるのかも。

>何故「遊牧民=野蛮」ということになるのだろう? あんな文明的な連中――言葉の綾ではない――そうそういないよ?

司馬さんの言葉を借りると『文明』とは万人が等しく恩恵に預かれるシステムの謂いですから、

>口伝で圧倒的な量の神話伝承や系譜を朗々と暗唱する

ことを前提とした習慣は、凡人にはあまりにもハードルが高いのでしょうな。人間の能力を限界まで研ぎ澄ますのが塞外民族のスタイル。そりゃあ、万に満ちれば敵すべからずですわなぁ。

>じゃあ、かつての天皇家でよく行なわれていた『同父異母兄妹(姉弟)婚』はどう説明するんですか?

天智天皇「俺の密通は同父同母の妹だからセーフ」
天武天皇「逆にOUTやろ」

>十代前半から半ばという年齢で父親になることが四世代も連続する

実に羨ま……羨ま……羨ま……興味深い話ですね。北魏の皇帝は弑逆以外でも献文帝とか宣武帝とかのように早死にしているメンツがいるのですが、これって腎虚ちゃうんか?
真面目な話、理由②は東晋の八王の乱で見事に失敗しているので、私は理由③を押したいですな。塞外民族の彼らは万里の長城という物理上の壁のみならず、血統という生々しい存在から、中華と四夷の垣根を壊そうとしたのではないかと。

それでは失礼いたします。
Unknown (江馬)
2016-10-16 10:59:50
コメントありがとうございます。与力さんのブログになかなかコメントできず申し訳ないです(『相棒15』第一話も、録画はしているもののまだ観ていないもので。今日中に観られるかな?)。

>南北朝の昏君列伝

数年前、楽しく読ませて頂きました。特に与力さんの侯景愛の尋常でなさ(笑)を存分に堪能致しました。次は「五代十国昏君列伝」なぞ如何でしょう? 負けず劣らずの昏君揃いですが。

>隋・唐代は何かと女性と政治が密な関係で、それが時に傾国の禍を招いたことを考えると、ある意味ドラスティックでプラグマティックな制度といえるのかも。

ちなみに、本記事で名前だけ出した北魏の馮太后は、隋の独孤皇后や武周の則天武后の「原形」となったともいえる女傑です。そういう意味でも、北朝期は考察に値する時代だと思います。

>人間の能力を限界まで研ぎ澄ますのが塞外民族のスタイル。そりゃあ、万に満ちれば敵すべからずですわなぁ。

私は何故か昔から匈奴・烏丸・鮮卑・柔然・突厥・廻紇・契丹・党項・女真・蒙古……といった遊牧・狩猟民たちの歴史が大好きでして、システマティックかつ圧倒的なまでの実力主義な部分などに無責任な憧憬を抱いてしまってるんですよねえ。
女真系の小部隊数十騎が、数千人の宋の軍勢を容赦なく蹴散らかし、敵味方双方を震撼させた……という逸話がありますけど、そんな騎馬集団が数万騎で疾駆してくるわけですから、岳飛や韓世忠らのプレッシャーたるや想像を絶するものがあったんでしょうね。

>天智天皇「俺の密通は同父同母の妹だからセーフ」
>天武天皇「逆にOUTやろ」

そして、天武の正室は天智の娘っていう。もう何が何やら(苦笑。あ、額田王なんていうこれまたややこしい「ミストレス」もいましたっけ)。

>献文帝とか宣武帝とかのように早死にしているメンツがいるのですが、これって腎虚ちゃうんか?

江馬調べ(笑)に拠りますと、献文帝は義母・馮太后による毒殺、宣武帝は水銀係薬物の服用による早世である可能性が高いです。腎虚説もなくはないです。

>塞外民族の彼らは万里の長城という物理上の壁のみならず、血統という生々しい存在から、中華と四夷の垣根を壊そうとしたのではないかと。

北魏皇室のユニークな点ですが、モンゴルのボルジギン家とコンギラト家のような有力な族内婚家が存在しなかったことです。とにかく周辺の有力氏族全部を吸収しようとするんですよね。そうした発想の最終形が、以前別記事にしました唐朝の婚姻政策なのかなあと思います。

ではでは。

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