江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

血の一統 ――唐朝の天下統一政策――

2016-09-16 22:25:48 | 『魏晋南北朝隋唐演義』
※2016/09/18:一部字句のみ修正しました。

 予定してたよりも長くなっちまったなあ……ま、いっか(苦笑)。

 本来、「血」に貴賤などあろうはずもないが、過去においてはそれが何よりも権力を担保する存在であったということは、多くの史書の記載が証明するところである。洋の東西を問わず、「中世」という時代では特にそうであった(具体例を挙げようと思ったが、キリが無いので止めておく。各自自由に想定されたし)。
 中国大陸における「中世」の最終ランナーであった唐朝(618-907)においても、それは同様であった(ただし、755年に勃発した「安史の乱」以降の唐朝は、「中世」の次のステージに入ったものと解しうるが)。試みに唐朝帝室の系図を作成してみたのだが、唐朝李氏がいかに「血」にこだわってきたかが了解される代物となった(一応、太宗李世民が中心になるように制作してみた。ちょっと世民の兄弟まわりが窮屈になってしまったかなあ。見辛かったらごめんなさい。それから、恐らくいないとは思うが、携帯端末から見ると系図の位置が崩れてしまうはずである。なので、パソコンでご覧ください)。

≪唐朝李氏略系図≫(数字は唐朝歴代皇帝。赤字は女性)

<後梁・蕭氏>       宣帝詧━━明帝巋━┳後主琮
                               ┣
                               ┗蕭皇后
<隋・楊(普六茹)氏>   楊忠━━━文帝堅   ┃
                         ┣━━━┳煬帝広━━━━楊妃
                         ┃     ┣           ┃
                         ┃     ┗楊皇后*      ┃
<匈奴・独孤(劉)氏>   独孤信━┳独孤皇后(七女)         ┃
                        ┣━━━━          ┃
                        ┣独孤皇后(長女)※       ┣━━恪
                        ┗独孤太后(四女)         ┣━━愔
                         ┃              柴紹  ┃
                         ┣━━━━①高祖淵  ┃   ┃
                         ┃       ┣━━平陽公主
<唐・李(大野)氏>     李虎━━━昞       ┣━━━━建成┃
                                  ┣━━━━②太宗世民
                                  ┣━━━━玄霸┃
<費也頭・紇豆陵(竇)氏>紇豆陵岳       ┣━━━━元吉┣━━承乾
                         ┣━━━┳竇皇后       ┣━━泰
<北周・宇文氏>      宇文泰━┳襄陽公主          ┣━━③高宗治
                        ┣武帝邕━━宣帝贇      ┃    ┣━━━━弘
                        ┣孝閔帝覚  ┃         ┃    ┣━━━━賢
                        ┗明帝毓  *楊皇后      ┃    ┣━━━━④中宗顕
                          ┃                ┃    ┃       ┃
                        ※独孤皇后(長女)        ┃    ┃      韋皇后
<北魏・長孫(拓抜)氏>  長孫子裕━━━━         ┃    ┣━━━━⑤睿宗旦
                                  ┣━━━┳長孫皇后  ┃       ┣━━━━⑥玄宗隆基
                                  ┃     ┗無忌     ┃      竇皇后     ┃
<北斉・高氏>        高岳━━━━━━┳高氏             ┃     (紇豆陵氏)    ┃
                (高歓従弟)        ┗士廉             ┃               楊貴妃
                                                 ┣━━━━太平公主
<武周・武氏>                       武華━━━士彠━━┳則天武后
                                               ┣元爽━━━承嗣
                                               ┗元慶━━━三思


 ……正直、なんというか「こんなに(血を)欲しがるかね?」という印象である。独孤氏(匈奴屠各種の末裔)や紇豆陵氏(匈奴の別部・「費也頭」の首長の家柄)、長孫氏(北魏帝室の分家筋)などと縁続きなのは比較的有名な話だと思うが、曾祖父の代まで遡ると、後期南北朝の「貴種」をあらかた網羅してしまう。宇文氏(北周帝室)や楊氏(隋帝室)といった所謂「関隴集団(西魏・北周・隋・唐の上位層を構成した軍事貴族集団)」だけに留まらず、「関隴集団」の敵対者であった高氏(北斉帝室。高岳は北斉の始祖・高歓の従弟にあたる。高歓の直系はあらかた族滅されていたから、高岳の一門が旧北斉の血統を残す数少ない家系であったと思われる)までもが、広義の「姻族」に含まれることになる。この繋がり具合はやはり「偶然」では済まされまい。明らかに確信犯的に歴代当主が「狙って」やってきたことなのであろう。
 世民の曾祖父・李虎(西魏八柱国のひとり)が、嫡子の昞に北族の名門・独孤(どっこ)氏(または劉氏)の娘を娶らせたのには、「関隴集団」内の紐帯を強化するという意味合いがあったのであろう。また独孤氏は、かつての匈奴単于・冒頓の末裔であると信ぜられていた(実際には系譜が途切れていて繋がらない。というか、多分繋がっていない。五胡十六国期に匈奴系部族の一首長として重んぜられた一族の末裔であった、というのが妥当なところであろう)。この時代、匈奴単于の末裔とされていた独孤氏の血が加わるというのは、血統にうるさい北族社会にあっては極めて重要なことであった(北周・隋・唐がこぞって独孤氏の血を欲したというところにも、その「貴種」性が現われていると思う。ちなみに、独孤姉妹は揃って美貌の持ち主であったともいうが、それは多分に副次的な要素であったろう。あくまでも血筋が尊重されたのである)。
 続く李淵(後の唐の高祖)が、紇豆陵(こっとうりょう)氏(または竇氏)から正室を迎えたのも、「関隴集団」の拠点・長安の北方――オルドス――に強大な勢力を有する遊牧集団・「費也頭(ひやとう 実際は何て発音したのかな?)」を懐柔するためであった。これ以降、李氏と紇豆陵氏はより一層紐帯を深め、一心同体となっていく。ちなみに、李淵が隋に叛旗を翻した際、軍事的に李淵らをサポートしたのがこの「費也頭」集団であった。李淵が後顧の憂いなく中原に進出できたのは、「費也頭」のおかげである。彼らを唐建国最大の殊勲者と評することさえできる(もっと有名になってもいいのになあ、「費也頭」。……って、連呼し過ぎ?)。
 そして、紇豆陵氏との婚姻によって、偶然か必然か旧北周帝室・宇文氏の血をも加えることになった。結果、子の世民らは、北周の始祖・宇文泰の曾孫という「立場」をも手に入れることになった。宇文氏は隋の文帝によってほぼ族滅されていたから、その血統を伝えることになった李氏の存在は、「関隴集団」内においてより尊重されるようになったと思われる(実は隋の帝室・楊氏は、宇文氏や李氏よりワンランク下がる位置にいた。宇文氏族滅は、結果として楊氏を「関隴集団」内で「浮いた」存在にしてしまったといえる)。
 更に、李淵の次男・世民(後の太宗)が正室を迎えた長孫氏は、旧北魏帝室の鮮卑拓跋氏(孝文帝期に「元」に改姓)から枝分かれした名門・拓抜氏(←「跋」の字が異なることに注意!)の末裔であった(直接の家祖は、名将・長孫嵩の従子(おい)で太武帝の重臣であった長孫道生である)。北魏帝室の主流があらかた潰えてしまっていた当時にあって(と言っても、全くいなくなったわけではない。金末の元好問などは拓跋氏の末裔であったという)、長孫氏の血統は大変貴重なものであったろう(唐代の貴族層には、五胡や北魏にルーツを有する家が多いが、このことは北魏から唐に至るまでの貴顕の大半のポジションがさしたる変化をしなかったことを示している)。
 しかも、長孫皇后の母方の血筋は、偶然なのかこれまた狙ってのものなのか、北斉帝室の高氏であった(紇豆陵・宇文氏の関係性とパラレルとなる)。唐が旧北斉領を統治するに際し、長孫(旧北魏)・高(旧北斉)両氏の支持を得られたことは大いなるアドバンテージとなった(実際、世民の義兄となった長孫無忌とそのまた義兄であった高士廉――しかも士廉は長孫皇后と無忌を養育していた時期があったので、実質的には「親」のような存在であったらしい――は、唐朝創業の功臣として、世民に厚く遇されている)。実際、太宗の元で手腕を振るったのは、旧北斉治下から登用された士大夫たち――房玄齢や魏徴ら――であった(将帥から拾っていっても、秦叔宝、程知節、李勣らが挙げられる。なお、杜如晦や李靖は旧北周治下の出身である)。
 ちなみに、本系図に唐朝とは直接的には血の繋がらない後梁の蕭氏まで記載したのは、隋の煬帝の正室・蕭皇后の弟・蕭瑀――梁の武帝蕭衍の玄孫、『文選』で有名な昭明太子統の曾孫にあたる――が世民の側近であったからである。また、蕭皇后は流浪の末(煬帝の弑逆後、当時夏王を名乗っていた群雄・竇建徳――紇豆陵氏とは無関係――に救い出され、次いで突厥に赴き、四人の可汗に相次いで嫁いでいた――レヴィレート婚を繰り返していた――隋の皇妃・義成公主の元に留まった。しかし、李靖率いる突厥追討軍に義成公主を殺害された挙句唐に降伏するなど、苦労を重ねた)、世民の庇護下に置かれ、これまた手厚く遇されることになる。世民にとっては、梁の旧皇族を保護するというのは、江南を慰撫する上で重要なことであったのだろう。
 世民はこれだけでも「まだ(血が)足りない!」と感じていたらしく、唐朝からすれば旧主となる隋の帝室・楊氏(または普六茹氏)の血統まで吸収していく。世民の側室のひとりは、唐朝が徹底的に貶めたはずの隋の煬帝(そもそも「煬」という諡はとてつもなく悪い意味であり、辞書的な意味を列記するだけでも、「内を好み礼を遠ざける」、「礼を去り衆を遠ざける」、「天に逆らい民を虐げる」などとなる。ちなみに、隋の遺臣たちが煬帝に贈った廟号は「世祖」、諡号は「明」であった。実は言われるほどの暴君ではなかったということだったのであろう)の娘・楊妃であった(彼女は蕭皇后の娘ではない)。おそらく、この婚姻によって隋の遺臣を慰撫するという狙いがあったものと思われる。なお、世民と楊妃は、母方の祖母が姉妹となる「はとこ同士」という関係にあった(系図参照)。楊妃の入宮は、やや縁遠くなった独孤氏との紐帯を強化することにも繋がったかもしれない。
 「貞観の治」と謳われ、後世理想の時代と評された太宗世民の治世は、上掲のような「血の一統」に拠る安定、という前提条件の元に築き上げられたものであった、といえよう。対抗勢力のほとんどを自らの「縁者」とすることで内乱の可能性を根絶し、その上で善政を布くという手順で進められたというあたりに、高祖・太宗らの非凡さが看取されるのかもしれない(無論、これに追加して弱体化していた突厥との戦争に大勝したという「僥倖」も忘れてはなるまい。もし突厥が「本調子」であったとしたら、いかな太宗――実質的には李靖が指揮した訳だが――といえども一敗地に塗れた可能性は否定できない。そういう意味では太宗世民は幸運児であった)。

 以下は、蛇足である。
 ……かくて太宗世民の跡を継ぐこととなった高宗治は、世民までの血統――独孤(匈奴)・紇豆陵(匈奴別部)・宇文(北周)三氏――に加え、長孫(鮮卑・北魏)・高(北斉)両氏の血をも直接に継ぐという、およそ当時としては望みうる最高の「貴種」として皇帝に即位した。唐朝による「血の一統」は最高潮に達したのである。
 新たに即位した高宗の正室は王皇后といい(上掲の系図には載せていない。悪しからず)、高祖淵の妹・同安長公主の縁者であった(どうやら王皇后の大伯母にあたるらしい)。しかし高宗は、己の尊貴過ぎる血統に全く別種の血を注ぎ込みたくなったらしく(要は後述の「女性」に唆されたのである)、突如王皇后を廃し、才幹と美貌に秀でた側室・武照を正皇后とする(廃された王氏は、その後武照に惨たらしく殺害される)。更に武照は返す刀で高宗の伯父であり、功臣第一等であった長孫無忌をも自害に追い込む。当時この展開は、大変イレギュラーなものであったろう。ここまでの婚姻形態とは全く異なる性質・存在のものが浮上・顕現したのである。
 この武照の「攪乱」によって、唐朝の「血の一統」はひとまず終焉する。傀儡となった夫・高宗に成り代わって政務を代行した武照は、高宗の死後実子の中宗顕、睿宗旦を相次いで即位させ且つ廃し、遂には自らが至尊の地位に即く。武周皇帝・武則天の誕生である。武則天は高宗・中宗・睿宗三帝との「共同統治(という名の単独統治)」期間を含めて約半世紀(!)の間王朝の頂点に君臨し、高祖・太宗らによって築き上げられた「血の一統」を否定しようとした。唐の支配層であった「関隴集団」に対抗するのに、新興の「科挙官僚」を以てし、血統に拠る統治から、実務派官僚に拠る統治への移行を試みたのである(この時期に登用された代表的な「科挙官僚」としては、狄仁傑・張柬之らが挙げられる。また、後述の玄宗期に宰相となった姚崇や宋璟、張説、張九齢らが及第・登用されたのもこの時期にあたる。玄宗期の安定の土台は、この時期に造られたものといえる)。
 が、貫徹する前に武則天本人の寿命が尽きた。武周王朝は事実上一代で終焉し、中宗と睿宗が相次いで復位して唐朝が復活する(韋皇后と太平公主の専横という名の「仇花」が咲いたのはこの頃のことである)。睿宗の子で武則天の孫にあたる玄宗隆基は、高・曾祖父の遺産である「関隴集団」と、祖母の遺産である「科挙官僚」のバランスに乗る形で登極し、「中世」最後の光芒・「開元の治」を現出せしめるに至る(しっかし、太宗・武則天・玄宗の三帝の治世を合すると、一世紀近くにもなるんだなあ。そりゃあある程度は安定するわな)。だが、様々に噴出する内外の矛盾への対処を誤り、徐々に政務に倦んでいった玄宗は、寵妃・楊貴妃との快楽に溺れていく。玄宗の治世が真に崩壊するのは、近年「早過ぎた征服王朝」と評されることの多くなった「安史の乱」によってであった……

 ……とうとう「魏晋南北朝」を越えて唐代にまで突っ走っちまったなあ。でも一応、『「黄巾の乱」から「安史の乱」まで』を自分本来のフィールドだと思い込もうとしていた人間なので、ある意味「予定通り」なのかな(「安史の乱」以降はどうも勝手が違うもんで……)。
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