江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

周将軍武勲抄(前篇)

2016-10-16 11:57:53 | 「魏晋南北朝隋唐演義」
序文
 案外、というべきか、『晋書』は「名将」に関する記載の宝庫である。東西両晋の事実上の始祖であった宣帝司馬懿を筆頭に、東呉の名将・陸抗の好敵手であった羊祜、東呉平定の立役者となった杜預&王濬、鮮卑禿髪部の叛乱を鎮圧し、後年唐の李靖に「騎兵戦の手本」とまで讃えられた馬隆(なんでいつもマイナー扱いなんだ!)、陸機・陸雲兄弟の義兄で、白羽扇を片手に「御手盛り」で「陳敏の乱」を平定した策士・顧栄(『三国志演義』における諸葛孔明のいでたちのモデル?)、漢趙の王弥石勒を相手に破竹の勢いを示し、「白起・韓信に匹敵する」とまで讃えられながら、その残虐さ故に自滅していった「屠伯」苟晞、ろくな後方支援も無かったのに無理やり北伐を敢行し、迎え撃った石勒に連戦連勝を重ねた祖逖、田園詩人・陶淵明の曾祖父で、東晋建国時に武勲著しかった陶侃、巴蜀に割拠していた成漢を滅ぼし、東晋簒奪の一歩手前まで登り詰めたにもかかわらず、遂に野望を果たせなかった「出来そこないの曹操」・桓温、「淝水の戦い」で前秦の苻堅率いる百万の大軍に大勝した幸運児・謝玄、不敗のまま逝った前燕の軍神・慕容恪、後趙の石虎が派遣した遠征軍を見事に撃破したという隠れた名将・前涼の謝艾、宰相としても軍師としても将帥としても一流の器局を示した前秦の王猛……そんな中、あまり名前の挙がらない将帥が一人いる。
 それは、周訪という男である。おそらくこの人物が存在しなかったら、元帝司馬睿は長江以南に東晋を建国することは叶わなかったであろう、というほどの名将である。その武勲は同時代を生きた祖逖や陶侃に匹敵し、王敦を遥かに凌駕する。にも拘らず、何故か彼に言及した文章というものに出くわしたことがほとんどない(全くない訳ではないのだが、分厚い概説書で数行言及されていれば良い方、という有り様である)。こういう人物を発見した時、大抵私は「もったいないなあ」、「誰かが紹介してやればいいのに」などと思ってしまう(←偉そうだなあ)。
 私が周訪を「発見」したのは、高校二年の時であったと思うが、二十年近く経ったのに未だにちっともメジャーな存在になってくれない。陶侃や祖逖、謝玄あたりは多少認知度が高まってきているとは思うのだが(これは単純に、田中芳樹氏の『中国武将列伝』という挑発的宣伝文のおかげであろう)、馬隆や苟晞、そして周訪に至っては、未だに「それ誰?」状態である(魏晋南北朝史研究者の間ではいずれもよく知られた名前だろうが)。
 実は周訪は、田中氏の短編小説・『宛城の少女』にごく端役で登場している(主人公の荀灌が宛城からの脱出後、襄城の次に立ち寄る尋陽城の太守が周訪である)のだが、誰にも覚えてもらっていない、というなんとも悲しい人物である。そのあまりの扱い方から察するに、どうも田中氏は周訪には興味が無かったらしい(ついでに言えば、陶侃も登場しているのだが、これまた残念な役回りである。東晋の二大名将なのに、これでは荀灌の引き立て役である)。だが、やはりどう考えても端役で使い棄てていいような人物ではないと思う。
 結局、二十年近く経っても誰も周訪をきちんと紹介してくれないので(もしも「いや、俺は紹介してるぞ!」という方がいらしたら本当にごめんなさい)、とりあえず自分で紹介することにした。以下の記述は、基本的には『晋書』巻五十八・「周訪伝」に依拠した(無論、全訳・完訳などではなく意訳・超訳・誤訳のオンパレードである。それなりの「読み物」にはなっていると思うが、漢籍の勉強には全くならないことは予め申し上げておく)。他の人物の本紀や列伝、『資治通鑑』も適宜参照したが、いちいち出典は銘記しないので悪しからず。
 ……それでは、開幕。

その生い立ち
 周訪(しゅうほう 260-320)は字を士達といい、本籍は予州汝南郡安城県、実際の育ちは揚州廬江郡尋陽県の人である。周訪の曾祖父の代に後漢末の動乱が発生したため、汝南周氏の一党は予州から揚州――後の東呉の勢力圏――へと避難した。この時代、東呉に仕えることになった周姓の人物としては、周瑜周泰周魴などがいるが、おそらくは彼らと直接の関係はなかったものと思われる。以来汝南周氏の当主は東呉に仕官し、周訪の祖父・周簒は威遠将軍、父・周敏は左中郎将にまで昇ったという。『三国志』に立伝されるほどではないにせよ、ほどほどの地位の武官を輩出する家であったかと思われる。
 周訪は若いうちから「沈毅」と評されるような為人であったらしい。冷静沈着で剛毅な少年……想像するとちょっと面倒臭そうな奴である。また、謙虚で金銭や物品に拘らないところがあり、周囲の貧者に何でも分配してしまうので、家に余財が無くなるほどであった……ということだが、このあたりはお定まりの「偉人伝」的記述であるため、話半分でいいだろう。その生年から察するに、東呉に仕えたことは無かったか、せいぜい数年程度であったと思われる。
 東呉の滅亡後、周訪は尋陽県の下級官吏となっている。もし東呉が存続していれば、父の恩蔭(コネ)で上級官吏か武官に任官することもあるいは可能であったかもしれない。この時周訪の更なる下僚となったのが、一歳年長で似たような経歴を有していた陶侃(とうかん 259-334)、字は士行であった。周訪は同年代の陶侃の才幹を高く評価したらしく、彼を上司に推薦し、己とほぼ同格の地位に引き上げてもらった。以来この二人は深い友誼を結んだという。陶侃と周訪の関係性は終生変わらなかったらしく、後年周訪の娘が陶侃の息子の正室に迎えられている。ある種の義兄弟的関係だったとみてよいだろう。なお陶侃には、実は「五奚蛮」と呼ばれる非漢人の生まれだったのではないか、という説がある。もしこれが事実であったとすれば、少なくとも周訪にはそれを理由として陶侃を差別するような発想が一切なかったということになり(陶侃は後年「寒門」出身であるとして、北来貴族から差別的言質を吐かれて苦労している)、これはまあ「美談」と言えるかもしれない。
 この時期の二人に関するあまり面白くもない逸話として、観相の話がある。若かった周訪と陶侃が廬江郡の観相(人相観)・陳訓のところに出掛けていった。この時代に大流行した月旦評(人物批評)をしてもらいに行ったのである。陳訓は二人の顔を見比べて、「君たちはどちらも山の頂のような地位にまで出世するだろう、その功績も名声もほぼ同じぐらいになるだろう、ただ、陶君は上寿(長寿の意)で、周君は下寿(長生きは長生きだが長寿というほどではない、の意)の相が出ている、優劣は寿命だけだろうな」と呟いた、というのである。まあ後年の履歴から逆算しての牽強付会であろう。
 それからもうひとつ微妙な逸話がある。周訪の外出中、同郷の人間が周家に侵入し、飼っていた牛を勝手に殺して喰ってしまった(せめて連れ出せよ)。周訪が帰宅した時、家には満腹になった犯人と牛の残骸が転がっていた訳だが、それを発見した周訪は官衙に被害届を出さず、密かに牛の残骸全てを埋めて処分し、誰にも判らないようにしてやった、というのである。なんとなく言いたいことは判る。しかもこれによく似た話が『春秋左氏伝』に載っている(晋の羊舌大夫――春秋期の賢臣・叔向の父――の賢婦人による「羊隠し」の逸話がベースになった創作であろう)。周訪が立派な人間であることを示したくてでっち上げた逸話なのであろうが、出来が悪すぎてやや興醒めてしまう(『晋書』のこの種の逸話には、出来そこないの三文小説のようなものが多い。中には結構面白いものもあるのだが、よくよく読んでみると、それは『世説新語』の孫引きであったりする。……おい、房玄齢、誰に書かせてた?)。
 以後、周訪は約四半世紀ほどの間経歴不明となる。二十代から四十代にかけての事跡がほとんど伝わっていないのである。ある程度のことが判明している親友・陶侃の履歴から推測するに、四十代後半までにはそこそこの地位――中小の郡の太守か大県の令(知事)程度――には引き上げられていたものと思われる。もしこのまま西晋による四海混一(天下統一)が続いていたとしたら、周訪はそのまま平穏無難な人生を送ることとなったであろう。だが、中原では所謂「八王の乱」が勃発し、「中華世界」は再び分裂の時代を迎えていくこととなるのである。

瑯邪王傘下に
 周訪の人生に転機が訪れたのは、西晋の永嘉年間(307-312)のことである。周訪は永嘉元年には四十八歳になっていた。人が老いることの早かったこの時代では、もはや立派な「老人」である。この年、西晋の安東将軍・都督揚州江南諸軍事(旧東呉方面軍司令官)となった瑯邪王司馬睿(しばえい 277-322 宣帝司馬懿の曾孫 後の東晋の元帝)が建鄴(後の建康)で幕府を開いた。中原で延々と続く「八王の乱」にすっかり飽いた司馬睿は、新天地・江南に割拠することとしたのである(これがのちの東晋の母体となる)。
 当初は自前の幕僚――後の名宰相・王導(おうどう 字は茂弘 267-339)やその従兄の王敦(おうとん 字は処仲 266-324)たち―――だけでやりくりしようとしていた司馬睿であったが、江南の地を統治するためには土着の旧呉人士の起用が必須であるということに気が付くや方針を転換、以後積極的に彼らを登用していく。顧栄(こえい 25?ー312 字は彦先。顧雍の孫)、賀循(がじゅん 260-319 字は彦先。賀斉の曾孫)、甘卓(かんたく 26?-322 字は季思。甘寧の曾孫)、張闓(ちょうがい 字は敬緒。張昭の曾孫)、虞潭(ぐたん 字は思奥。虞翻の孫)といった、遠祖が東呉に仕えていた面々が多数招聘され、司馬睿幕下に集っていくこととなる(なので、『三国志』でも特に東呉の人士が好きな人にとっては、東晋初期という時代は大変とっつきやすい時代の筈である。……なんで人気が出ないんだろう?)。
 周訪も同時期に招聘されたのだが、ここでちょっとした「事件」が発生する。ちょうどこの頃、姓が周、名が訪という同姓同名の別人が何らかの罪を犯し、死罪となることが決定したのだが、捕吏が周訪を誤認逮捕しようとしたのである。齢五十前後の「老人」であるはずの周訪は、捕縛しようとした捕吏数十人(誇張であろう)に反撃を加え、容赦なく追い散らしたという。なかなかの「万人の敵」っぷりである。いったいいつ武芸の腕を磨いていたのだろう。それはともかくとして、周訪はその足で司馬睿の元へ出頭して(なんとも腰の軽い「老人」である)、自らの無実を訴え出た。誤解は解け、司馬睿は剛毅かつ年齢の割に武勇に秀でた周訪に興味を示したようである。
 周訪は揚烈将軍に抜擢され、千二百の兵を与えられた。瑯邪王幕府は慢性的に兵員不足であったから、案外この数字は大したものであるかもしれない。遅まきながら部隊長となった周訪は、永嘉五(311)年六月、王敦、甘卓らと共に、西晋の江州刺史(東呉時代の揚州東半部分の長官)・華軼(かいつ 2??-311)の「討伐」に参加する。華軼は字を彦夏といい、曹魏の華歆『三国志演義』では希代の悪人として描かれているが、正史『三国志』では高潔な士大夫である)の曾孫に当たる。曾祖父に似て大変清廉な人物ではあったが、やや融通の利かないところがあり、「洛陽に晋朝の皇帝が存在する以上、建鄴の瑯邪王幕府の命令を聞くいわれはない」と突っぱね続け、いつしか司馬睿とは敵対関係になっていたのである。業を煮やした司馬睿は、幕下の有力者・王敦を主将に任じ、その討伐を命じた(要は内紛である。やれやれ)。清廉ではあっても用兵には長じていなかった華軼は、実戦部隊を指揮する周訪・甘卓らの攻勢に耐えきれず敗走した(その後華軼は、反りの合わなかった部下に裏切られて殺害され、その首級を建鄴に送られるに至る)。周訪は、野戦・攻城戦・水上戦のいずれにおいても勝利を収め(しかも配下僅か一千前後で、戦意を喪っていたとはいえ数倍の敵を幾度も撃破している。いったいいつ用兵に開眼したのだろう。「若いころから兵書に通暁していた」といった類の逸話は皆無である)、江州平定の立役者のひとりとなった。司馬睿は周訪の功績を高く評価し、振武将軍・尋陽太守に任じた(この時期、親友の陶侃も司馬睿幕下に加わっており、揚武将軍・武昌太守に任じられている。ほぼ同格とみてよいであろう)。一方で警戒心を露わにしたのは、主将であった王敦である。周訪や甘卓の用兵の巧みさ(甘卓も曾祖父の名に恥じない用兵ぶりを発揮している)を間近で見た王敦は、このままでは自らの地位が脅かされるのではないか、と疑うようになるのである。

流矢
 周訪の次なる敵となったのは、湘州(三国期でいう荊州南部)で晋朝に叛旗を翻した杜弢(ととう 字は景文)という男であった。杜弢は、元来益州(蜀)の名門出身であったが(おそらく蜀漢に仕えた杜瓊の同族であった)、巴氐の首領・李雄(りゆう 274-334 字は仲儁。巴氐とはティベット系遊牧民のことで、この時期には漢人流民をも糾合して大勢力となっていた)の益州侵攻によって玉突き式に大量発生した流民の指導者となってしまった。杜弢は流民たちに推される形で梁益二州牧・平難将軍・湘州刺史を称し、正式に晋朝から自立したのである。「杜弢の乱」の勃発である(察するに、杜弢が流民を焚き付けて積極的に叛乱を起こしたというよりも、流浪の末食い詰めた流民が暴発し、たまたま知識人で名望のあった杜弢を神輿に担いだ、というのが実相に近いと思われる。そう考えると、巻き込まれた杜弢も気の毒な男である)。
 事態を重く見た司馬睿は、王敦を江州刺史・追討都督に任じて討伐を指示し、王敦は陶侃・周訪・甘卓ら旧呉人士に実戦部隊の指揮を委ねた。どうもこの時期になると、陶侃が実戦部隊の指揮官、周訪・甘卓らがその属将という位置づけになっていたらしく、周訪はしばしば陶侃の指揮下で戦闘することになる(この時期から陶侃と周訪の昇進速度がずれていくことになる)。
 さて、周訪らは兵員輸送に「船艦」を用いたという。長江の支流が多く流れる湘州を攻めるには順当な方法であろう。それに対し杜弢軍は、井戸の釣瓶を加工した飛び道具(?)のようなものを拵えたらしく、それを使って周訪らの艦隊を攻撃した。これに対し周訪は、長い杈(さすまた)状の器具(?)を船の甲板に並べて防御し、杜弢軍の攻撃を無力化したという(このあたり訳していてあまり自信がない。とりあえず当時最先端の機械化艦隊戦を行なったのだとでも思っておいてほしい)。
 この直後、周訪にある不幸が襲いかかる。杜弢軍との交戦中、流れ矢が両の前歯に命中し、あろうことか二本とも折れてしまったのである。それでも周訪は平然としていたということだが、無論精一杯の虚勢であったろう。あるいは戦闘に夢中過ぎて気にも留めなかったのだろうか。結局これ以降、周訪は生涯「歯欠け」という何とも締まらない風貌の将軍となってしまった(この時代、入歯が存在したのか寡聞にして知らない。ご存知の方がいらしたらご教示願いたいところである。以前観た『タイムスクープハンター』によると、江戸期の日本では商売として成立するくらい入歯屋が繁盛していたらしいが、大陸ではどうだったのだろう?)。
 周訪配下の兵卒たちが「うちの大将は歯欠けだけど戦にはめっぽう強いんだぞ!」と息巻いたかは不明だが、兵卒たちからの周訪への信頼は絶大であり、それは生涯変わらなかったという。それにしても、左右どちらかの眼球に流れ矢が当たった場合、後日いかつい眼帯でもして戦陣に立てば、さぞかし容貌も引き締まって見えたことであろうが、前歯二本となると悲壮を通り越して滑稽でしかない。今筆者の脳裏には、兵馬俑風の甲冑を着こんだ三四郎・小宮の姿が浮かんでいる。あの口調で「やをはなへ~」などと叫ぶ姿が映し出されてしまうのである。やれやれ。


※以下は完全なる余談である。五胡諸政権の一つ、前燕の皇族に慕容霸という才幹溢れた男がいたが、彼も落馬した際にうっかり歯を折ってしまい、生涯「歯欠け」であったという。霸の才幹を憎んでいた兄で主君の慕容儁は、それを知ると霸に命じて「𡙇」と改名させたという。「𡙇」とは、「欠」の別字のことで、つまりわざわざ「歯欠け」と改名させたのである。悪意の塊のような所業である。慕容儁はさぞかし溜飲を下げたことであろう。が、慕容霸改め慕容𡙇の方が一枚上手であった。彼は後日讖緯(うらない)によって更に名を改めた方が縁起が良くなるということにして、片偏のみを残したのである(完全な改名をしなかったのは、兄であり主君であった儁への最低限の言い訳のためであったろうか)。彼こそが、後燕の始祖として史上に名の残る慕容垂その人である。
 ……というわけで、周訪と慕容垂こそは、両晋十六国期の「歯欠け」の双璧である。

 この後、周訪は両の歯を喪う以上に残酷な出来事に遭遇することとなるのだが、それは「後篇」に取っておこうと思う(とか言ってると、また中途で投げ出しそうである。なんとか早めに書き出さないと……)。

(未了)
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