オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

羊飼いのたとえ

2017-07-16 00:00:00 | 礼拝説教
2017年7月16日 主日礼拝(詩篇23:1~6)岡田邦夫

 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)

 最近、西浅井町にある奥琵琶湖キャンプ場に舞鶴自動車道を通って、何回か行きました。山の中の高速道路なので、高架橋がいくつもあります。その高架橋から、下を見ると田畑の緑が広がり、山沿いには集落が点在し、軽トラが走っている。ここの人たちはどんな生活をしているのだろうかと思いをはせるのです。実にきれいな景色で、私のお気に入りの地点です。高速道路なので、止まれないから一瞬のことです。
 詩篇23篇をみますと、羊と羊飼い、緑の牧場、いこいの水のほとり…実にのどかで牧歌的な風景が私たちの目の裏に浮かんできます。詩篇の中でも、最も愛唱されている詩篇です。

◇いのちの日の限り…乏しくない
 聖書において、神と私たちの関係が羊飼いと羊にたとえられています。羊は攻撃する力はなく、逃げるのも遅い。群れから迷い出したら、帰って来ることが出来ない。人は弱く、迷いやすいことを示しています。羊飼いのような神を必要としています。これはダビデの詩篇、彼が王になる前は羊飼いをしていた経験から、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と信仰の歌を歌うのです。悪い羊飼いもいるわけですから、イエス・キリストは「わたしは良い羊飼い」と強調されました。
 人は元来、乏しいのです。それに気づく時期があります。人生の上り坂の上り口・青春のころ、これからどう生きたらいいのだろうかという求めが生じます。虚無感に襲われます。また、人生の下り坂の下り口・中年の終わるころ、これまでの人生、これでよかったのかという求めが生じます。ここでもまた、虚無感に襲われます。天気予報でおなじみのヘクトパスカルという気圧の単位、そのパスカルはクリスチャンになりました。有名な言葉があります。「人には神によってしか埋めることのできない空洞がある」。虚しさを気ばらす、良いものはあるけれど、しかし、どんなことをしても、この魂の空洞は埋められないのです。神にお入りいただくしか、埋めようがないのです。
 それは位置ではなく関係です。神との関係性です。主イエス・キリストは 私の良い牧者なので、私の魂は全く乏しいことがありません。その主は生けるみ言葉の豊かな緑の牧場に伏させ、魂を満たし、慰めの御霊のいこいの水のほとりに伴ってくださいます。主の復活の力により私のたましいを生き返らせてくれます。良い羊飼いの名にかけて、私を神の国と神の義に導いてくださいます。

 私のことですが、若い日に理系でしたが、他の世界も知りたいと、背伸びして、欧米の文学書を読み(眺めただけか)、美術館に行き、絵画教室に行き、山岳部に入り、スポーツをかじり、語学学校に行き、とにかく、色々やりました。また、恋に恋をしました。山登りはすぐ達成感がありますが、楽しければ楽しかった分、その夜、空しさが覆うのです。絵のデッサンからですが、その描いたものを見ると、無味乾燥で虚しさだけがただようのです。そういう時にキリスト教に出会ったのが幸いでした。イエス・キリストを受け入れた時、信頼した時、わが魂にイエス・キリストの福音が充満して、かつてない、喜びを体験しました。感情の高まりは消えていきましたが、イエス・キリストとの信頼関係はあたりまえのように続いており、感謝です。
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来る」からです。

◇いのちの日の限り…満たされる
 よく、洋画を見ると、埋葬シーンで、牧師か神父がこの詩篇23篇を読んでいるのをみます。『エレファント・マン』(母の胎にいる時に象にお腹を踏まれ、顔などが歪んでしまった)という映画で、エレファント・マンがこの23篇を暗誦するところを主人公が目撃し、精神遅滞ではなく正常な知能を持っていることを知るという行がありますのも有名です。
 ある牧師がカウンセリングを学ぶために、渡米し、ヒューストンの病院で実習をされました。患者さんは肌の色に関係なく、牧師だとわかると神の使いのように思ってくれたそうです。その先生は、これはキリスト教2000年の財産だと思うと言っておられました。そして、特に死を間近にした患者さんの愛称聖句、よりどころは「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(23:4)。その言葉を聞きながら、まったく穏やかな顔をして、天に帰って行かれるとのことでした。特にイエス・キリストである「あなたが私とともにおられますから」、寄り添って、確かな導きで天に引き上げてくれると信頼し、天来の安心が与えられるからです。

 生きているうちは敵がいます。私をだめにしとうとする敵、神から引き離そうとする敵、しかし、救い主がおられる。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」。食事は豊かな交わりをもたらし、客人をもてなすかのように香油を注いでくださる。恵みという杯があふれるのです。この方がおられたら、他に何が必要でしょう。しかし、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)。
 私たちはよくも悪行も、時間に追われ、勉強に追われ、仕事に追われ、何かに追われています。しかし、この詩篇の最後の行が実にいい。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」(23:6)。陸上競技の100メートル走が話題になっています。これが追い風だと記録が伸びるわけです。公式記録にならないこともありますが、追い風がこれほど影響するとは面白いです。いつくしみと恵みの追い風が私たちには吹いているのです。御国に追いやるように吹いているのです。この風に吹かれてまいりましょう。その追い風は強いときもあれば、弱いときもある、普通の時もある。イエス・キリストは私たちの必要に応じて、いつくしみと恵みの追い風を聖霊によって送ってくださるのです。

 主の家とは安全の場、隣在の場です。生涯、そのような恵みといつくしみの追い風を受けるところに私たちは居続けましょう。調子のいいときも、そうでない時も、牧者であるイエス・キリストはよくご存じなので、弱い羊は主に信頼して、主の宮に住まいましょう。
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」。

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