公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

第三の直感 2

2013-05-18 16:42:00 | 今読んでる本
無心の状況にあって、すでに答えがわかっているかのような直感が、おそらく第三の直感というものだろう。通常の直感ではない。ただならぬ啓示である。岡潔のような発見や創造につながる、そういう体験が日常にあるものでもなく、しかし無自覚に第三の直感を人間は操っている。

ヒトは覚えていているから、物事を思い出すのだろうか? 老年のこの頃は、名前も思い出せないことが多いのだが、たまには、飽くことなくずっと考えていてイヤッと思い出すこともある。しかしながら、訳もしれず想起とは無関係なときに突然に思い出す事の方が多いだろう。


一般に精神作用には、問しか無い。それも答えがあってはじめて意識的に問うことができる。対象を思い出し指し示すことで、無差別の世界から有限の世界に答えは落ちてくる。(これを反射的認識の小さな意味では心理学で言うところのゲシュタルトと言ってもいいだろう)だから歴史的にはその証拠に、人間には、パラドックスという有名な問いだけが残されることがある(シュレディンガーの猫なども未解決解釈の問い)。おそらくシュレディンガーはその答えを垣間見たのであろうが、問いだけが印象に残ったのだろう。その後、ジョン・スチュワート・ベルが局所実在性が成り立たないことを示唆することで不完全な問いが完全な問いとして完成した。このパラドックスは依然として問いのままである。人間は明確な答えがあるときしか明確な設問をすることができない。

実験心理学の世界でも、クラインの消防士の現場の咄嗟の適切な判断の丹念な研究から得た法則に、認知主導的意思決定(Recognition-primed decision)モデルと呼ばれるものがある。燃え盛る炎と黒煙の中、「答え」の由来するその前の世界は無規定の世界だろう。失念や咄嗟の判断ばかりでなく、新概念の発見もまた同じ無規定から生成する作用であって、思い悩んでいた同じ物(問い)が別の形で見える瞬間がある。その瞬間を逃すともう有限の世界に落ちてこない。新概念は永遠に発見できない。これが過ぎ去ってしまった第三の直感だろう。凡人にあっては、ほとんどの第三の直感はこのようにして過ぎ去ってしまう。凡庸な精神作用にはそのような真剣な問いさえないが、鋭利に問いを持つものにさえ答えが横切る瞬間を捉えるとは限らない。

天才が尋常でないのは、その瞬間を受け止める準備ができているということです。このような啓示の実例は、天才が努力によって準備に到達している場合もあろうし、本来備わった器質的準備もあろう。しかし共通するのは思考とは無関係な環境で視点を移した時に瞬間的にビジョンが見えるということだ。

数学であれ、絵画であれ、音楽であれ、剣の道、山岡鉄舟の様な剣豪(鉄舟は死期を予期し寸分違わず成仏したと、勝海舟が海舟評論「山岡臨終の見事さ」で寄稿を残している)であれ、たぶん創造、発見、大悟の瞬間は一瞬でしょう。

人間はだれしもが無自覚ながら無限の智の世界と連結している。無規定なものを有限化して、一瞬垣間見た世界を時に技術体系に、時に精神の糧として利用している。
他方では、見たいものしか見ない。
この点、小林秀雄と岡潔がその対談「人間の建設」で了解し合った視点で、無限の智の世界とは死の世界のことです。死と精神を媒介するのは個々人が持つ情と心の再生神域です。 日本人が信じる死は西欧社会の死と同じではない。日本人にとっての死は再生されない領域のことで、肉体の死は死ではなく、山河や杜にて再生されるかぎり草葉の陰に生が残留する。同様に穢れた肉体は再生しないと信じられているので活動する肉体の一部であっても死んでいる。同様に家も村も郷も再生する。われわれの無限智の世界はすぐそこに伝統的情緒とともにある。わかりますか、それが日本人の競争力の源泉なのです。

剣豪といえば、明治の剣豪山田次郎吉翁は、明鏡止水の境地にて、関東大震災の4年前に震災を予言(当時の雑誌『新時代』に収載)したと伝えられる(伝者池波正太郎)。翁によれば心の動きは弾丸よりも速く、当たる気がしないらしい。
これなどは心のなかに物質世界があるという認識の典型だろう。最近の量子力学、南部陽一郎以降の、理論の対称性という美しさから離れた自発的対称性の破れが当たり前となってから、特に統一理論はますます物質世界を主観的確率(ベイズ確率)に支配された世界とみている。これなども、普遍的な偏りのない理論の持つ無方無限が個別に限定されることで本来の世界が見えにくくなる事例の一つとも言える。すなわち、再生神域において世界が心のうちから創造されているという結論に至る。



岡潔は、心のなかに物質世界があるとはっきりと言っているが、この頃は、私も本当にそういう窓くらいあるのではないかと思うのです。なぜなら、物質世界は死の世界だからです。死の世界に精神を導いているのは、情、心、私がこれまで素心と言ってきたものです。

続く

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