公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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脳について

2013-08-01 12:09:26 | 日記
ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた。としばらく前にニュースで聞いた。

私は脳が脳について語る資格があるのかどうかという疑問から始めているので、ホーキング博士といえども、これはうわ言である。肝心は語られないことにある。

何も語らないほうが真実に近い。人間に必要な物は優れた脳ではなくホーキング博士のような死後の闇を恐れない心だ。長く不治の病とともに生きてきたホーキング博士はその域に達したのであろう。それを語らないからこそ真実に近い。

脳は内側から照らして初めて価値を示す。これが心眼である。内側から照らすとはどういうことか。脳には空間的時間的統合(第一の直感:実在感)と論理的予測的統合(第二の直感:選別感)というものが常に働いている。著書『充足根拠律の四方向に分岐した根について』においてアルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)が示した充足理由律の4つの根がこれに相当する。生成の充足理由律と存在の充足理由律のペアが岡潔の言う空間的時間的統合(第一の直感)、認識の充足理由律と行為の充足理由律のペアが論理的予測的統合(第二の直感)にそれぞれ相当する。ショーペンハウエルはこれをアプリオリと言っている。ではなぜアプリオリなのかというと、充足理由律を疑うと知の体系が敗北崩壊するからだ。
実際のところ私達の直感は、ここにある状態であるということと、次の状態でもここに様々な可能性でありうるということを瞬時に予測処理している。この統合的感覚は脳が休みなく行っている自動処理であるが、内側から脳を照らすということの要諦は、この自動処理という第三の直感の行為性(有限性)を自覚しつつ、時間が止まっているかのように静寂で、自在無限の世界(明鏡止水)に漕ぎ出すということにある。

アプリオリな脳システムではあるが、疑いをもつべき対象(システムの外から見る:Hackハックすることができる)でもあるという主張が岡潔の第三の直感ということになる。これはなかなか言葉にならない。充足理由律を外側から認めていたショーペンハウエルは間接的にこのシステムハッキングを認めていたと私は解釈している。無自覚には第三の直感は目にしているものがリアルであると承認することが第三の直感である。

何がリアルであるかということを、見えるものだけでなく、目にしたことも、聞いたこともない対象(未来、遠い過去、魂、極限)にまでリアルを拡張できる(想像力)のは第三の直感の啓示のおかげである。日本人の教育がなすべきことは見えないものを聞き取り、聞こえないものを生き生きと己の自明と見る直感力を涵養することであって、脳を知識の側から照らして使うことではない。その清澄なる情緒によって内側から照らすのである。

そうした清澄なる情緒がどのようなものであるかは日本の歴史に学べばよい。吉田松陰しかり、高杉晋作しかり、高橋多一郎しかり江藤新平らの系譜近・現代日本の壮士達である。


知識脳はそれほどのものではないかといえば、そうでもなく、100年に一人の天才はさておき、優れていなくても凡人の脳のすばらしいところは、すべての脳が別々の履歴を持っているということにある。脳の履歴差こそが、人類の大切な資源なのだ。脳の履歴差があるから違和感を感じることができる。一見均質で同じ主張をしているようにみえる表現でもその表現に至る脳裏は全く別で、言葉の上で同質であることを確認しているに過ぎない。もし言葉のドレスを脱ぐことができるなら、見知った者同士でも大きな発見に出会うことだろう。



… われわれはつねにアプリオリに、あらゆるものは根拠をもっているということを前提しており、そしてこの前提が、なにごとにつけ<なぜ>と問う権利をわれわれに与えてくれるのであるから、この<なぜ>をあらゆる学問の母と名づけることが許されるであろう。

― アルトゥル・ショーペンハウアー(1813年)『充足根拠律の四方向に分岐した根について』
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