公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「百魔」  上  其日庵 杉山茂丸

2015-05-27 07:36:00 | 今読んでる本

其日庵杉山茂丸


『ゼー・ピー・モルガン氏と、日米資本融通のネゴシエーションを起こし、不思議にそれが一致して、一億三千万ドルの外資を年三朱五厘にて輸入することに仮契約を締結し、日本に帰朝して、時の総理大臣に面会し』とある。

 
ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日)は、アメリカの5大財閥の1つであるモルガン財閥の創始者である。
 

大蔵大臣、西園寺公望?に一笑に小僧と付された際に、反論して『僕は今三十七歳』と記載してあるので1901年の頃の話を書いているのだが、確かにこの時点で金融ビックバンに相当する仕掛けを持ち込んでいる。1901年といえば、明治三十四年のこと、この年、杉山茂丸と伊藤博文は渡米している。杉山は桂太郎首相の内意を受けた(おそらく事後に)外債引受交渉のための渡米と言われている。伊藤博文(明治33年(1900年)9月には立憲政友会を創立し、初代総裁におさまる。10月第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月辞任。)はの満韓交換論をベースとした日露同盟の米国支持を求めるものだった。日本をロシアの防波堤にするというのが英仏のアングロフレンチのビジネス戦略[事実英国は日英同盟がありながらも、フランスを通じてロシアへ資金援助している]だったから、伊藤にとって残る後ろ盾と期待できるのは金子堅太郎のコネクションのある米国しか残されていなかった。
より大きなピクチャーで日露同盟路線をぶち壊すのが杉山の役割だったから、この渡米は、まさに呉越同舟である。日清戦争の戦後は台湾の領有を伊藤に選択させたとさえ豪語している。伊藤は敗れる(エージェントが親分に捨てられた状態が到来する)。日清戦争の段階で日露戦争を前提としていた川上操六らと繋がっていた杉山は川上操六の諜報機関情報を得ていた。

1895年(明治28)十一月七日にアーネスト・サトウは東京からソールズベリー(英国首相)宛に手紙を書いている。『昨夜の晩餐会で参謀総長の川上(操六)陸軍中将に会いました。ロシアのことに話がおよぶと、彼はロシアは皆の考えているほど決して強くはないと言いました。ウラジオストクには三万人しかいないし、それも第一級の兵士ではない。シベリア鉄道が完成しても、本拠地からあれほど遠い距離を、補給線を延長して戦争を遂行できるのかどうか疑わしい。
日本の艦隊は現在はもちろん劣勢であるが、いま英国で建造している戦艦2隻[富士と八島]が引き渡されれば、全く違ってくる。以上のように言いました。彼が今後十年間に日本はもっと強くなるとほのめかした口振りから、私は彼が再び戦争する前に待ったほうが良いという意見だと推測しました。
しかし、もしロシアの海軍力が優勢だとしても、必要な場合は数時間で彼らを海峡から誘き出して、対馬を経て朝鮮へ軍隊を送り込むのは、いとも容易なことだと彼は言いました。朝鮮の海岸は対馬から見えているのです。
彼は東アジアで英国がその勢力を主張することが心配だと意見を述べました。』イアン・C・ラックストン著「アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より」(厳松堂出版、2003年刊)213P

そして1902年の日英同盟さらに1904年日露戦争になる。こうして遠くから見るとロシア革命の背景にいる明石元二郎と同様、伊藤に替わるアングロアメリカのエージェントが杉山茂丸だったのだろう。ボーア戦争で中国に手が回せない英国の日本防波堤戦略のとおり、日本は英国のためにロシアの防波堤となり、何物かを得た。台湾を領有したからバルチック艦隊は休養・補給もままならず勝ち目なく日本海に誘導され、5年後に撃滅されてしまう。続くロシア革命も杉山らと無縁ではない。世界は本格的な弱肉強食の時代にあった。
知人のアメリカ人、ジェームス・モールスを訪ねて香港でのシーワンとのやり取りを話した。このときモールスが、資本主義を学ぶならアメリカの工業資本を手本にすると良いと言ったことで、茂丸はアメリカ行きを決め」、初めての訪米となる。このジェームス・モールスなる謎の知人は、日露戦争の後にも杉山茂丸と連絡しあって、日英同盟の継続英断を日本の外交勝利と褒め称えた上で、但し書きの米国除外についての解釈衝突を飲ませた杉山を賞賛している。
ジェームス【杉山茂丸はゼームスと記載する】ジェームス・モールスが本名かわからぬが、調べてみようと思う。日露戦争のさなかにも戦費の限界を見極める情報を掴んだとしてモールスとナップ(米国の日本工作員)は登場する。このへんのほうが一般に理解されやすいかもしれないが、島国を脱しようとする野心とロシアを分割して小さな帝国にしようとする米国(英国、フランス)の戦略とたまたま一致していた一時期にすぎないが、日米同盟の成果として日露停戦にルーズベルトが乗り出してくる。その下書きがこの三人、杉山茂丸、山縣有朋、児玉源太郎に、によって後に描かれた。日本が得た何物かとはなんだったのだろう。契機は石炭貿易の関係から探るのがいいだろう。前坂俊之氏(静岡県立大学名誉教授)の研究と文献探査も参考になる。維新政治部隊の影の存在、高島鞆之助、吉井友実もまた導きの系譜になるだろう(高島の嫡嗣は吉井の息子である)。前者は杉山同様陰の主役なのであまり資料がない。

それを知るには枢密顧問官という鵺的な永年官職が物語るものを再構成してみると良い。樺山資紀(初代台湾総督)もまた陸軍から海軍に立場を変えたキーマンであり、その息子樺山愛輔は大東亜戦争時のヨハンセングループの中心人物である。つまり英米チャンネルを抜きに日本の歴史を腑に落ちるまで理解することはできない。

高嶋は樺山資紀とともに赴任し、副総督職はその後廃止されているワンポイント受任。これには重要な意味がある。杉山はほぼ並行して台湾領有路線を飲ませている。この三人と児玉源太郎、川上操六は一つの計画に従って日露戦争の10年以上前から持っていた基準に従って協働行動していることが見える。やや遅れて後藤新平もこの台湾マフィアに加わる。

杉山はこの訪米の時に星一に再会し彼を伊藤に紹介している。外資引きうけは日銀、邦銀に反対されることは当然としても、その後の始末記が実に痛快で面白い。大正十五年(1926年)のメモだから、四半世紀前の武勇伝の記憶である。杉山茂丸は実に強記なひとである。


『ゼー・ピー・モルガン氏と、日米資本融通のネゴシエーション』これは見逃せない。

現代でも古い九州人はジェーをゼーと発音記載するから間違いなく本人のメモである。

対日借款の引受はモルガン商会であることは言うまでもない。モルガン商会が対日融資に関与するのは、1902年(日英同盟の年)横浜正金銀行の 60万ポンド、約300万ドルの証券を発行したとき主宰機関の一角、Panmure Gordon Hill&Co.のグループに参加してロンドンのモルガン商会が2万5000ポンドを引受け605ポンドの利益(2.42%)を得たのが最初である。その数年後2億ドル*の投資をしていることがハウス大佐のジョージ・ロイドへの手紙に残されている。つまり、杉山の言うこの外債引き受け交渉は政治的に葬られるような趣をとりながら、秘密裏に実は(おそらくは皇室の裏政治活動資金となり)実行されていたというアングロアメリカ側の証拠があるとともに日本側の証拠が出ているとういうことだ。

3380億円に相当するこの「独立」した資金*が、日本の国運を狂わせることになる。当時の対日金利相場が2.42%であったところを杉山は3.5%と発表している。金利差1.08%36億円相当が杉山らに転がり込む算段になる。全部国家のために使い切る、これこそ魔人。

*1916〜31年の1米ドルは当時の日本円でおよそ2円。当時の物価や給料と現在の物価や給料を比較すると、当時の1米ドルは現在の日本円で4千〜5千円に相当すると思われる。1億ドルは約4〜5千億円ということになる。

 



 

JPモルガンは自らは急病になり乗船しなかった明治45年(1912年)4月にタイタニック号という棺桶を海に浮かべ招待者を消した。


このひとはどこかで立場をするりと入れ替えてしまったのだろう。簡単にいえば、男子の独立面目のためにスポンサーを選んだということだ。
白禍の惨毒などと言っていたのは遠い昔の別人の話のようになっている。アングロサクソンの暴虐=白禍を防ぐためにも、ヨーロッパや米英の経済水準に追いつくことが至上命題だと考えた明治の壮士は「柔軟」に考えていたのか。杉山は自信満々で同じ穴の貉になってしまうことも顧みていなかった。歴史を経て見るとそのように見える。もちろん御本人の知るところではない。

この本は全体を通して重要なところはなるべく固有名詞を語らないようにしている。そこが壮士の原型というか基本的な黒幕マナーに則ってメモを書き残している。大胆そうに見えて細やかな知性が垣間見られる。『不思議にそれが一致して』などと省略しているのも謀議事実の粉飾二重化が感じられる。

この頃の国際認識が新渡戸稲造が大正十四年に紹介したような会議合議体による調和ではないことを、大正十五年の時点で杉山茂丸が理解(あるいは内通)していたとしたら、大正昭和の政治経済の黒幕として活躍できたのは当然のことだろう。

前出の星一も杉山の門人筋である。星の台湾における阿片取引ポジションとJPモルガンの背景を重ねあわせれば(1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事,
陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)、後藤新平総督による暫時禁止政策「阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放す」とうらはらな新規阿片吸飲特許発行)、後藤新平を紹介する杉山茂丸の役割が何であったかがよく分かる。
もう一つ『尋ねる後藤に「台湾の道具立には、銀行という背景がない、之を備え付けねば政治の何物も出来ぬと思ふ」と応じる。(*このとき、台湾総督府民政長官・後藤は42歳、杉山は35歳である)』この発想は杉山茂丸自身が香港の発展に見たサスーンの創設した香港上海銀行の成功を下敷きにしていると思われる。サスーンといえば、阿片ビジネスの親玉である。こうして紐解くと日露戦争の黒幕の黒幕が見えてくる。

杉山の独立こそ男子の本懐という原理は、今で言うベンチャービジネスと同じである。当時は策士とか山師とか言われる人々、彼は今で言えばベンチャー事業家であってエンジェルでもある。何事にも儲かるネタには政治が介入する時代(今もなお)であるから、当然政治の黒幕も果たせなければ独立などできない。

『庵主は序ながら、例の婆心にかられて、青年工夫の一助にともおもい、ここに筆を馳するのである。』と締めながら、このようにのべておる

『「人間の死は必要のないときに死を決して置く。左すれば我慾というものが絶える。::」と。鞏固なる鍛錬と、修養が第一の必要である。』
「凡そ人は如何なる人を問はず、欲望は人をして大ならしむる一の動機となるべきものである。然れども欲望によりて事をなしたる人は人間の中の屑の人間である。決して大事業をなしたるとて真の尊ぶべき人ではない」(「故原田一道閣下の言行」『原田熊雄関係文書』より)


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