日本キリスト教団 大塚平安教会  

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新しい命に生きよう。

2017-04-19 09:24:11 | 礼拝説教

 【ローマの信徒への手紙6章3~11節】

     【マタイによる福音書28章1~10節】

 

 みなさん、イースターおめでとうございます。

 主なる神が主イエス・キリストの復活を通して、私たちに伝えたいと思ったことは一体何か?

 ローマの信徒への手紙、6章3節を読んで頂きましたが、そこに示されている御言葉を読みます。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

 主イエス・キリストの復活を信じるとは、私たちが、「主による新しい命に生きる」ことだと聖書は告げています。それでは新しい命とはどんな命なのか、それが本日与えられたテーマであろうと思います。

 新しい命に生きるために必要な一つは洗礼によってキリストと共に葬られるということ、つまり、自分の人生に死ぬということだと思います。

  先週、娘と一緒に「祈りの力」というアメリカの映画を見ました。原題は「war room」「戦いの部屋」というタイトルです。

 夫トニーと妻のエリザベスと小学生の娘の三人家族が主人公です。夫のトニーは製薬会社のトップセールスマンとして活躍し、妻のエリザベスは不動産会社に勤めて、家を売買する部門で働いています。割合に豊かな家庭、傍から見たら幸せなファミリーのように見えるのです。しかし、実際は、夫婦関係は既に破たんしておりました。特にトニーは、家に帰っても妻とろくに会話しようともしない、たまにする会話は喧嘩となり、口論となるのです。娘の学校の成績やクラブ活動にも関心を示さず、言葉も荒く、愛情のかけらもない態度を取り続けていました。エリザベスは、なんとかして暖かな家庭を取り戻したいと願いつつも、殆ど絶望的に諦めていた状態でした。そんな折に、仕事でエリザベスは、自分の家を売りたいと言って来たクララという年配の女性と出会うことになります。

 クララは、エリザベスに自分の家の中を案内しながら、会話を交わしながら、エリザベスが何か問題を抱えていることを感じ取り、一休みした折にお茶を飲みながら話しかけました。

 あなたは神様を信じているのか、教会には行っているのか、家族はあるのか、子どもとは上手くやっているのか、夫との関係はどうか。

 当初、エリザベスは、クララの面倒臭いと思われる質問に、適当にあしらいながらも、人並みには信仰もあるし、教会も毎週とはいかないけれど人並みは行っていますよと話しつつも、クララが熱心に聞いてくるものですから、ついに心を開いて、夫との関係が最悪であり、もう修復は難しい状態であることを告げるのです。そこでクララはもう一度問いかけます。あなたは夫と口論して勝ったとしたらそれが嬉しいのか、負けたとしたら悔しいのか、勝っても負けても、どちらしにしてもそこにあなたが願う平和があると思うのか?

  そして、その家の小さな2畳ほどの衣裳部屋に連れていき、ここが私の「戦いの部屋」であると教えたのです。戦いの部屋、この部屋でこれまで必死に祈り続けてきたのだと告げます。マタイによる福音書の6章6節にこうあります。「だから、あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる。」その御言葉を頼りとして、クララは自らの人生の多くの困難を、祈りをもって実践し乗り越えて来たのだと言うのです。

  そして更に話しかけます。エリザベスよ、あなたは今、神に祈ることが必要だ。あなたの本当の敵は夫ではない、敵は別にいる。それは例えるならサタンのようなものであって、サタンよ、私から去ってくれと祈り続けなければならないと必死に諭すのです。エリザベスはその必死さに、心が動かされるものを感じて、なお疑いつつも家に帰り、自分も小さな祈りの部屋を作り、そこで毎日、祈りの時間を過ごすことになります。そして祈りながら次第に気づいていくのです。これまでの夫との会話は、売り言葉に買い言葉で争い続けていたこと、結局のところ、全ては夫が悪いと思いつつ、夫に信頼も愛情も慈しみも赦しもなかったこと、そして何よりも神に祈っていなかったこと、そしてそのままそれは神を信頼していなかったことに気づいていくのです。

 人並みに教会に行って、人並みに信じているという言葉は、人並みに神も教会も信じていないということであったと気づいてくるのです。そこからエリザベスは更に本気になって自らの戦いの部屋で祈り続けます。夫の暴力的な言葉に自分の気持ちが引き出されないように気を付けながら、ののしられては、いたわりの言葉で返し、意地悪な仕打ちを受けても、反撃することなく、「敵を愛し、自分を迫害するものの為に祈りなさい」という御言葉を信じて祈り続けるのです。

 既に妻の変化に気づいていたトニーでしたが、ついに決定的なことが起こります。自分の失態で製薬会社を解雇されたのです。失意のどん底で帰宅したトニーに、自暴自棄になっていたトニーに、なお夫に対する信頼と愛情を失わない妻の姿を見て、トニーの心も大きく動かされ、思いが変化し、そこから家庭が、家族が生まれ変わったかのように導かれ、エリザベスは祈りによって、夫を自分のもとに取り戻し、娘は笑顔を回復し、家族の絆が強まり、祈りによって家庭が守られて行くことになる、そんなストーリーでありました。

 エリザベスに祈ることを教えたクララは、「祈りは戦いだ」と話します。戦う程に神に祈っているかと、映画を見ている者にも問いかけていたのだと思いました。

  私たちは人並みには祈っていると思う、人並みには信じていると思っています。けれど人並みとはどうことなのでしょう。人並みと本気との差はもしかしたら随分と違っているのではないかと思います。神に対して、自分が死ぬのか、死なないのか、自分が死んで、神と共に生きようとするのか、そこに本気かどうかが問われているのではないでしょうか。

  本気で祈り続けるその先に、見えてくるのは、これまでの自分の人生に別れを告げようと決意する思いではないでしょうか。キリストと共に葬られて、新しい神の命の中で生きていこう、そのような決心ではないでしょうか。

  ローマ書の6章6節以降でパウロは記しました。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

  パウロは、神を知る前の私たちのこれまでの人生は「罪」に支配されていたと言うのです。クララがエリザベスにあなたの敵は夫ではない、敵は別にいる、それはサタンのようなものだと話す、そのサタンの正体を「罪」という言葉に置き換えることも出来るでしょう。しかも、それはあくまでも相手の罪ではありません。相手の罪を見つけて非難することが大切だと言っているわけではないのです。

  けれど、そうなると、それでは自らに罪があるのかと、問わざるを得なくなります。しかし、自分のうちに罪を認めるのは容易ではありません。あなたは祈りが足りないと言われてもなかなか受け入れられなかったエリザベスの思いは、少なくとも私にはよく分かりました。やっぱり自分が可愛くて、どこまでも自分は悪くないと思ってしまうし、けれど、そう思い続けていることが物事の解決を遅らせているということにも気づかないのです。

  今日、ここで罪とは何かについて、話をする暇は限られていますが、一言で言うとすれば「罪」とは神様と切れている状態だと言えるでしょう。繋がっていないという状態でしょう。

 例えば、どんなに素晴らしい電化製品だとしても、コンセントが無ければ動かないように、どんな立派な車であってもガソリンが入っていなければ一ミリも動かすことが出来ないように、タコ糸の切れてしまったタコのように、繋がっていない、切れている状態とは、そこに力が無い、実体が伴わないのです。

 ペトロの手紙という箇所に「人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」(ペトロ2章19節)とあります。私達を生かし、命を与え、人生を与えて下さっている神に服従するのではなく、自分が打ち負かされた物、例えば自分の思いや、自分の計画、あるいはお金、時間、貪欲、時には夫、妻、親ということもあるでしょう。自分を打ち負かした者に服従してしまうのです。しかしそれらは、本物ではありませんから、本物ではない、神ではないものに服従してしまうという事です。神でないものに征服されてしまう、このことを罪というのだと思います。

 だからこそ、気付く事が大事です。私達が本物の神に従って、復活の主イエスの恵みの中で洗礼を受けようと決心したあの時、「新しい命に」生きていこうと決心した、その思いを忘れずに生き続ける事が大切なのだと思います。

 今日、これから洗礼式を執り行います。今日はお二人の方がその備えをしつつ、祈って礼拝に臨んでおられます。洗礼の意味はローマ書に「キリストと共に死に、しかし、死者の中から復活されたキリストと共に生きることです。」とあります。

 お二人は神と子と聖霊の御名によって、水によって清められ、罪が洗い流され、罪に死に、キリストと共に新しい命に生きようと決心されておられます。  

  本日の説教題を「新しい命に生きよう」といたしました。このタイトルは6章4節の「わたしたちも新しい命に生きるためなのです」という箇所から取りました。「生きる」という言葉は元々「歩く」という意味の言葉が用いられています。主イエス・キリストと共に新しい命の中を歩んでいきましょう。

 人生の時には走らなければならない時あるかもしれません。休むことも必要でしょう。しかし、大切なことは「歩く」事、そしてそれが「生きる」と訳されているという事です。私達の日常生活の中で、毎日が冒険のような、目新しい事が起こるという事は、そうそうはありません。また、そうであってもならないと思います。むしろ本来はもっと地味で、日々コツコツコツコツとした歩みであろうと思います。特に信仰についてはそうであろうと思います。

 勢いづいて一機に物事が進む事もあるでしょう。思いがけない展開の時もあるかもしれません。それもまた大切な事でありましょう。

 けれど洗礼を受けるあの感動を保ち続ける事は、むしろコツコツコツとした日々の生活の中にあって、その生活の中に信仰が織り込まれていくものでありましょう。

  だからこそ私たちに必要なのは、復活された主イエスに対して祈り続けることです。この方が共にいて下さることに感謝しながら、日常のコツコツした日々の中で、私たちは輝いていきたいと思います。

 主イエス・キリストは十字架の死の後、この世に復活されて、今この時、私たちと共におられます。インマヌエルの神に感謝しながら、この一週間、過ごして参りましょう。

お祈りします

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