日本キリスト教団 大塚平安教会  

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天にのぼられた主

2017-05-16 08:38:33 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書14章1~11節】

「天にのぼられた主」

 ヨハネによる福音書は全部で21章ありますが、その21章は、主イエスの御生涯をバランスよく配置し記しているわけではありません。むしろ、他のどの福音書にもまして、主イエスが十字架に架けられる一週間前、いわゆる受難週の一週間に重きを置いています。21章の中盤にあたる12章からはその一週間の中で、主が話された話、教えられた話が続いているわけで、「わたしはまことのぶどうの木」の話も、「聖霊を与える約束をされる」のも、その中で話されていることがわかります。

 今日、読んで頂きました14章の箇所も、同じように主が目前の御受難を前にして、弟子たちにこれから起こるであろう出来事を見据えて、主ご自身について、また、父なる神について一生懸命に話をされている箇所となります。
「心を騒がせるな。神を信じなさい」という言葉から始まる御言葉、落ち着いて話されているとは思いますけれど、けれど、既に裏切りを企てたユダは主のもとから去っている状況です。ご自分が捕らえられることはご自身が一番良く知っておられます。ですから気持ちとしては、遺言といいますか、弟子たちに対する惜別の説教と言っても良いと思います。「心を騒がせるな」と言いつつも、主ご自身も気持ちが高揚していたのではないかとさえ思うのです。

 けれど、興奮を抑えるようにして、弟子たちに大切な話を話されます。今日読んで頂いた箇所の中では、恐らく「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」という御言葉がもっとも知られている御言葉だろうと思いますし、キリスト教の大切な教えがここに示されているとも言えるでしょう。

 私がまだ洗礼を受ける前に、2年間に亘って、毎週求道会に出席いたしました。導いて下さったのは熊野清子先生と言いまして当時は80歳位ではなかったと思います。毎週、毎週熊野先生の所へ欠かさず伺い、聖書の言葉を聞くのが本当に楽しみでした。この先生は本当のホスピタリティに溢れていまして、どんな時でもよく来て下さったと迎えて下さり、どんな人にでも暖かさを持って迎えて下さっていました。当時一人暮らしであった私は、母親のように思うほどでありました。この方のように生きていきたいと思っておりましたし、今でもそう思います。
 
 その熊野先生が何度も話して下さったことの一つに、人が神の国に至る道は、どうなっているのかということです。天国ともパラダイスとも言いますが、そこに至る道は幾つあるのだろうかと話される、そして、天の国を山の頂上と考えると、その頂きにたどり着くには、一つの山には登山道が幾つもあるように、私たちは天の国に行くためには、本当は幾つもそのルートがあると思いがちだけど、それは違うと教えられるのです。私は当初なるほどと思いながらも、その話は、どうももう一つピンと来ませんでした。逆にやっぱり天の国へのルートは幾つもあったほうが良いのではないだろうかとさえ思っておりました。
 
 私が幼い頃通った幼稚園は、お寺が経営した幼稚園でありまして、お寺の境内が遊び場でもあり、本堂の中でも良く遊びました。本堂に入りますと、父親が作成した仏像とか、人の像が幾つも飾られていまして、少しばかり嬉しかったのですが、その横にお寺であればどこにでもあるようないわゆる地獄と思われる絵が記されているのです。恐らく、天国というよりは極楽の絵もあったと思いますけれど、そちらの絵は覚えておりません。地獄の絵は良く覚えています。血の池があったり、針の山があったりと幼心に見ても、怖い絵であることは容易に分かりました。そして、死んだらこんな所に行くことになるのは嫌だなと思う。そのような絵を見る者は皆そう思うでしょう。ですから、そのようにして寺のお坊さんが、あるいは大人が子供たちに話すのではないでしょうか。「いいかい、悪いことをしたら、死んだあとはこんな所に行かなければならないから、悪いことをしてはいけないよ。」 
 子どもはそういうことを聞くと、純粋ですから、そうだな悪いことをやってはいけないな。良いことをして、極楽に行けるようにと思うのだと思います。
 
 実際にそのようにして、私は育てられてと思います。けれど、皆さん、ここが、仏教とキリスト教との違いなのです。何が違うのか、私たちはいつの間にか、天国に行くために、一生懸命に自分が山を登っていようにして、山頂を目指していけば良いのだと思っているのではないでしょうか。
 けれど、もし本当にそうだとするなら、大切なことは、自分がどう頑張るかにかかっているのです。自力で、自分の力で、信仰という体力をしっかり養って、毎日祈り、礼拝を休まずに頑張れば天の国に行けると思う。自分に与えられている自分ならではの人生のルートを精一杯生きて、神様に認められて、あなたは山頂に到達する働きをしたねと認められたいと思うのです。私はたちそのように思っているところがあるのではないでしょうか。
 
 先週の座間地区の家庭集会で皆さんと一緒に読みました聖書箇所ですが、「金持ちの青年」とタイトルが付けられた箇所を読みました。主イエスの下にやってきた金持ちの青年が尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」主は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ19章18節)と教えたら、青年は、そういうことは皆、子どものころから守ってきたというのです。
 青年は一生懸命に子どものころから律法を守ってきた、山を登るようにして、踏ん張ってきた、だからその働きが実りとなり、若くして財産もあり、地位も名誉もある人生を歩んでいたのでしょう。けれど、どんなに頑張っても、いつまで経っても、あるいは、どのルートを辿ってみても山の頂に到達した思いになれずに、主イエスの所にやってきたのではないでしょうか。

 この青年の悩みは、もしかしたら私たちの悩みかもしれません。少なくとも私自身、若い頃は特に、一生懸命に生きようとしながら、どこにも、また、いつまでもどこかに到達したという思いを感じたことはありませんでした。
だから、主イエスは「私が道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。」と教えられたのではないでしょうか。この御言葉が意味する事の一つは、人は人の教え、すなわち知恵や行い、あるいは学校の道徳教育などでは救われないということだと思うのです。

 それでは何によって救いが与えられるのでしょうか。最初に答えを申し上げますが、「わたしは道であり、真理であり、命である」こう話される方を信じることに尽きると思います。この方が私にとって真理としての道であり、命としての道である。なぜなら、主イエス・キリストだけが天の国から来られた方であり、十字架の死と復活、そして、その後40日後に、再び天の国へと戻っていかれた方。この方だけが天の国と繋がっておられる方だからです。私たちがこの方と繋がることによって、正確には主が私たちを繋げて下さることによって、主がおられる天へとは向かうことが出来るのでありましょう。天の国とは、病気も悩みも無い、一年中花が咲いている場所かもしれません。鳥のさえずりが聞こえるのかもしれません。けれど、それらのことが大切なのではありません。主イエスがそこにおられ、また、愛によって信仰と先達と会いまみえることが出来る、そういう場所だということで十分だと思います。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。」という御言葉の前後に、二人の弟子たちの言葉が記されます。一つは弟子のトマス。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか。」と伝えます。この問に先立って、弟子のペトロも13章36節で同じようにして訪ねています。「主よ、どこにいかれるのですか」主イエスが、既にこの時、御自分の栄光を受けたと話され、これからご自身に起こるであろう出来事を弟子たちに一生懸命に話しておられますが、でもペトロもトマスも弟子たちはどうも分からない、けれど、主がどこかにいかれてしまう、そのことだけは良く分かったのでしょう。聖書を注解する学者によっては、このトマスの問を「愚かな問い」だと説明するようです。これだけ主が話されても、尚、理解出来ない弟子たちの愚かさを表したのでしょう。

 また、8節には今度は弟子のフィリポが語りかけています。「主よ、わたしたちに御父をお示し下さい。そうすれば満足できます。」この願いを「愚かな願い」であると説明するのだそうです。
 けれど、本当に愚かな問いであり、愚かな願いなのでしょうか。私には、二人の問いかけは、人としての大いなる不安を示しているのではないかと思うのです。これまで主と従って来た、主の歩む道を自分もその道に従って歩んできた。けれど、主が自分達のところから消えてしまわれそうだ。そうであるならば、自分達はどの道を歩めば良いのですか、そのような不安の問いかけのようにも思うのです。
 だからこそ主は「私は道であり、真理であり、命である。」と話されました。この言葉の中心は「私は道である」という教えです。私は真理の道であり、命の道だということです。
 
 詩編119編、詩編の中で一番長い詩編ですが、その105節に、こんな御言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」大変美しい御言葉だと思います。

 あなたの御言葉は、私の道の光 わたしの歩みを照らす灯、この私たちの歩みを照らす道の光とは、光り輝くイルミネーションでもなく、上から照らす外灯でもなく、私たちの人生の歩みを、歩みの一歩一歩を照らし続ける光です。そしてその光は、私たちの足元をしっかりと照らし続けるのです。私たちの人生の瞬間、瞬間を照らして下さり、何よりも主なる神が示される道を照らしだして下さる灯でもあります。
 
 トマスの不安、フィリポの不安は私達の不安です。この先をどう生きれば良いのかわからないという私達の不安なのです。その不安は勿論、戦争とか、災害、病気といった、大きな不安はいつもありますけれど、何にもまして自分の人生の足元が見えないという不安ではないでしょうか。
 
 ヘンリー・ナウエンというカトリックの司祭が記した「すべて新たに」という本は、現代人の不安を一言で言い当てています。それは、「私たちは忙しいのに、目一杯であり、目一杯なのに、満ち足りていない」というのです。私も本当にそう思います。私たちは朝に、昼に、夜に、あの事も、この事も、やることは尽きず、またやらなければならない事は終わらず、いつも忙しく、目一杯に働いているにも関わらず、どこまでもいっても満ち足りたと思う所がありません。試験や受験で子どもの時から暇もなく、働き盛りの若者も、責任を負う世代も、定年を過ぎた後の世代の多くの人たちでさえも、いつも心も体もギリギリの状態で、更に多くのことに思い煩い、何かに追われるかのようにして生きている、それが現代だというのです。現代の人間の生き方だと言うのです。

 だからナウエンは伝えます。主イエスは、ただ一つの事だけに生きられた、それは父なる神の御心に生きることであったと教えます。今日読まれた箇所で言うならば11節の御言葉です。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」
もっと、単純に言うならば、主イエスは父なる神に与えられた道を歩み続けられたということでありましょう。私たちはいつの間にか、この世の中の常識のようなものに、どっぷりと浸かってしまって、毎日のテレビや報道によって政治や世界情勢の変化を知らされながら、大いに不安を募らせ、あるいは時として不必要と思われる怒りを爆発させ、世の中の情報に踊らされているようなところがあると思います。
毎日流されているコマーシャルによって、私たちは購買意欲を増加させ、いつの間にか、借金してまでも、あれもこれも必要であると思わされ、物を持つことが幸せなのだと思わされている所があります。

 でも、幾ら購入しても、購入した時には確かにひと時の幸せがあるように感じても、そんな幸せは偽物だから続かないのです。だからまた別の物をと願って、そしていつのまにか物質社会の中で行き詰まってしまうのではないでしょうか。
 だからそのようなこの世の価値観に踊らされるのではなく、私たちは本物なる方、真実なる方、主イエスが示される道をこそ歩んで参りましょう。私たちの力では天の国へ導かれる道を見つけることも、作り上げることも出来ませんでした。でも、その道を主イエスよ、あなたこそが示して下さいました。感謝します。だからその道を私たちは進みます。その足元をどうぞ、御言葉によって照らして下さいと願いながら、私たちは一緒に歩んで参りましょう。
お祈りいたします。

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