日本キリスト教団 大塚平安教会  

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世の終わりまで

2017-04-25 21:04:02 | 礼拝説教

【マタイによる福音書28章11~20節】

 「世の終わりまで」

  先週は、主イエス・キリストの復活を喜ぶイースター礼拝を共に守ることが出来ました。大勢の皆さんが来られ、またお二人の方が受洗された、神様の子どもとして生きる決意をされたことに感謝しております。

今日読まれました箇所は、主イエスが復活され、ガリラヤで弟子たちと会われた場面となります。

 主は、弟子たちに対して、御自分が祭司長や、律法学者に引き渡されて、裁判を受け、十字架刑となり、しかし、その三日目に復活されることを話しておられました。話される中で、復活した後のことについても、話されていたものと思われます。

 安息日が終わり、週の初めの日の朝早くに、数名の婦人たちが主イエスの墓に行きましたが、そこで主の天使が表れて、婦人たちに話しかけます。

 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさった。そして、弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」更に、復活された主ご自身が、婦人たちの前に現われて、「恐れることはない、行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」

 その言葉を伝えられた弟子たちは、勿論、喜んだことでしょう。けれど、疑う者もいたとありますから、以前にもその話は聞いたけれど、人間的には全く信じられない、復活されたなんて、本当だろうか、騙されているのではないか、何か策略があるのではないか、どこまでも信じられない気持ちの弟子もいたのだろうと思います。

 それでも、ユダを除いた弟子たち11人は、エルサレムからガリラヤに向かい、主イエスが指示しておられた山に向かい、登りました。

 果たして、そこで主イエスと出会うことになります。主は弟子たちに近寄り語りかけました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。」と告げて下さいました。そこでマタイによる福音書は締めくくりとなるわけです。

 マタイによる福音書に限るわけでもないのですが、小説でもなんでもそうだと思うのですが、大切なのはその書き出しと、締めくくりです。一つの小説を読む時にも、書き出し部分だけでググッと持っていかれることがあります。そんな小説にあたりますとつい夢中で読んでしまう。書き出しと言いますと、マタイによる福音書の書き出しは主イエス・キリストの系図で始まりますが、これがね、私たちに日本人にはなかなかググッと持っていかれない、特に初めて聖書を読もうと思って、新約聖書の最初から、と思いつつこの系図から始まりますから、いっぺんに読む気が失せてしまったと思われた方も多いかもしれません。実際、私もそうでした。

 ところが、このイエス・キリストの系図を読んで、ググッと持っていかれる人達がいたわけで、誰かというと旧約聖書に慣れ、親しんでいたユダヤの人々となるわけです。ユダヤ人ならばこの系図を読むだけで、旧約聖書の流れと言いますか、その記されている歴史、物語を思い起こすことが出来るわけです。ですから、この文書は、旧約聖書の次に続いていて、そしてアブラハムの子である、またダビデの子であるイエス・キリストの系図、この方が私たちの真の救い主として現れて下さったということを記そうとしているのだなと感じることが出来る。

 勿論、これだけの理由ではなく、例えば旧約聖書の引用が多いとか、旧約聖書とのつながりを大切にしながら記されている福音書と考えられていますから、きっと、この福音書はユダヤ人に対して、記されたのであろうと言われる所以でありますが、ですから、物語の最初が大切、そして今日はその最後の箇所、この福音書全体がこれまで書き記してきたことの意味と、更に読者が読み終えた後に、その心に感じて欲しい、受け止め、留めておいて欲しいと願う思いが記されているのだと思うのです。

 その最後の最後の御言葉、復活された主イエスが弟子たちに、すなわち私たちに語りかける御言葉が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という御言葉です。

 世の終わりまで、世の終わりとはいつのことか、復活された主イエスは、その後40日経って天に昇られましたけれど、また再びこの人の世にやって来る時がそうなのか、あるいは、私たち皆が天の国に住まう時、その時がそうなのか、あるいは神の目から見て、全てが完成したと思われる時がそうなのか。

 けれどまた、私たちの人生においてね、もうこれで自分の人生も終わりかなと思われるような事態、依然として北朝鮮を巡る社会情勢は厳しい状況が続いていまして、そんなに楽観は出来ないと言われています。この事が引き金になって、まさに世の終わりのような事が起こらいようにと今こそ祈りが求められるのだと思いますけれど、それだけでもなく、私たち自身の身の上でも、経済的に、精神的に、肉体的に、あたかも世の終わりとなるのではないかと思われる様々な状況の中であればあるほどに、そこに確かに、目には見えないけれど、主なる神がそんな私たちと共にいて下さる。これが今日、お伝えしたいと考えているメッセージであります。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この御言葉が伝えている意味の一つは、私たちは一体日々の生活の中で誰と一緒に生きているのか、ということです。

 誰と一緒にいるのか、誰と一緒なのかと問われても、家族と一緒にいますとかね、教会の皆さんと一緒にいますと言われるかもしれません。先週ローマの信徒への手紙の6章からの箇所を読みましたが、そこに記されていたのは、自分が「キリストの十字架と共に死んで、復活のキリストと共に新しい自分を生きる」ということでした。パウロはローマ書を記しながら、何度も「罪に死んでキリストに生きること」だと伝えていました。

 なぜ、何度もそのことを記すのか、私たちは誰と一緒にいるのか、誰よりも自分自身と一緒にいるのだからということでしょう。

  先日、ある方からこんな話を聞きました。「都会の友達が遊びに来たというのです。それでバーベキューとかね、家の庭でランチをしているときに、「やっぱり田舎はいいなぁ、空気が違うなぁ」と言ったと言うのです。その言葉を聞いて腹が立って、と怒っているのです。確かに友達はおしゃれな都会の中で仕事をされているそうですが、そんな所で働いて、住んでいる場所も都会なのかもしれません。「田舎はいいなぁ」と言う言葉にちょっとムカッと来たのかもしれません。

 でもなんでムカッとするのか。簡単です。自分もここが田舎だと思いつつも、どっかで田舎は嫌だなと思っていて、田舎で嫌だなと思っているのに、田舎はいいなと言われたので、そんなはずはないとか、そういう言い方は無いでしょ、と思うから腹が立つのです。

 私たちは自分と一緒にいる、すなわち、自分の思いは誰の思いにも増してかわいいものですし、自分の思いが間違っているかなとは滅多に思わないものです。相手こそが間違っていると、しょっちゅう思うのです。だから、人の世は争い事が治まりません。

 先日、中学生の娘が学校から帰って来まして、私に話すのです。友達がことわざ辞典を購入して、一緒にその辞典を見ていたと言うのです。そこで一つ覚えて帰って来たというのです。どんなことわざ覚えたの?と聞きましたら「預言者郷里に入れられず」というのです。「預言者郷里に入れられず。」

 お父さんこのことわざ、知っているというのです。まさか本気で聞いているのかなと思いつつも、そのことわざの出典はどこって書いてあったか読んだのか?と聞きましたら。読んでいないのというのです。それは聖書から出ていることわざだよと教えましたら、驚いていました。マルコによる福音書の6章にあるよと話しましたら、今度は長男が「誰も知らないと思ってそんなこと言ってと」茶化されてしまいました。我が家は大丈夫でしょうか?

 それはともかく、主イエスがご自分の故郷に帰られて、安息日に会堂で話をされた、聞いたみんなは驚いて聞いていたけれど、結局は「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは我々と一緒に住んでいるではないか」このように、人々はイエスにつまずいた。とあります。自分達の知っていること、理解出来ること、納得のいくことなら受け入れるけれど、どうも知っていることとは合わないようだ。自分の思っていることとは違うようだ、と思えば受け入れられないということでしょう。

  私たちは誰と一緒にいるのか、私たちは自分と一緒にいるのです。自分が自分と一緒に生きているとすれば気楽な思いで生きていけるかもしれませんが、けれど、何かがある度に、なにか起こる度に、自分の人生に古い自分がひょっこりと出て来て、主と共に新しい自分に生きられないとしたら、それは残念なことではないでしょうか。

 だから、私は自分とは一緒に生きません。だって、自分こそあてにならないものはないのですからという祈りが必要なのではないでしょうか。

 私は自分とは生きない、だからどうするのか、日本人の特徴は自分に生きない、だから「みんなはどうしているかな」と、右を見て、左を見て生きるということもあるようです。

 イソップ童話の中に「ロバを売りに行く親子」という話があります。ある所で、ロバを連れたお父さんと息子が歩いていたそうです。そしたら周りから声がした。もったいないなぁ、ロバに誰も乗らないで歩いているのかい。そう言われたので、息子を乗せて、お父さんがひいて歩いたそうです。そしたら、また、回りで見ていた人が、何だい年よりを歩かせて、子どもが乗っているよ。だから、今度はお父さんが乗って、子どもがロバを引いたそうです。そしたら、違うところからまた声がした、子どもにひかせて、親が乗っているなんてそりゃないだろうと言われたものですから、それじゃ、二人でロバに乗って、これなら文句無いだろうと思っていたら、また、声がした。そんな小さなロバに二人で乗って、ロバが可愛そうだというのです。だから、今度は二人でロバを背負って歩いたそうです。そしたらバランスを崩してロバを川に落としてしまって、ロバを売ることも叶わなかったという話です。

 あまりにも主体性が無く、人の話ばかりを聞いて、深い思索や識別、判断をせずにその通りにやっていても、時にひどい目にあうから気をつけなさいという教訓のような話だそうです。

  ですから、皆さん、自分も当てに出来ませんけれど、皆というのも当てに出来ませんよ。日本は戦後、高度経済成長時代と呼ばれる時代がありました。その頃からですよ。良い学校、良い大学、良い会社、に入ることが良いことだ。今でもそうかもしれません。けれど、本当にそうなのでしょうか。何をもって良いというのか、今、長男が就職の時期になりましたけれど、数年前の記録ですが就職しても、3年以内に3人に1人は仕事を辞めていく時代だと言われています。今はもっと離職率が上がっているかもしれません。

自分も頼りにならない、みんなも当てにならない、大きな会社だとしても、頼りにならない時代です。

 だからどうするのか、聖書には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」これは主イエスの聖書の最後の御言葉です。私たちの幼い時も、青春の時代にも、結婚の時期にも、壮年の時代にも、年を重ねても、どんな時代にも、どんな時にも、主イエスが私たちと共にいて下さる。と、神が約束しておられるのです。この方にそこ、私たちの人生の土台を据えて生きていきたいものだと思います。

 私たちの限りある人生の中で、主イエス・キリストに土台を据えて、この方こそ、わたしと世の終わりまで共にいて下る方である、だから大丈夫、そのように私たちは生きていきたいものです。今日は礼拝の後に教会総会が開催されます。一年間の計画を立てて、実行していこうとしていますけれど、何をどう実行するにしても、主がわたしと共にいて下さる、だから大丈夫、この思いの中で総会が行われることを願いします。政治がどうなろうと、社会がどうなろうとも、経済がどうなろうとも、多くの人が大丈夫かな、心配だな、不安だな、でも、その時にこそ、なんであの人は平安なのか、私もあの人のように生きてみたい、何も言葉を駆使しなくとも、お金をかけることなくとも、私たち自身の主と共に生きる生き方が、きっと最大の伝道となるのではないでしょうか。そのような大丈夫感をしっかりと養いながら、私たちは今日も、そしてこの一週間も、これからもずっと主と共に歩んで参りましょう。

お祈りいたします。

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