その沢は陰鬱な谷川岳の沢の中では最も広く、明るかった。背後には笠ヶ岳、白毛門が望まれ、眼前には疎林の向こうに奇岩の並ぶ堅炭岩が長く、緩やかな裾野を広げ、すぐ近くまで続いていた。
テント場でもないそこへは、すでに何度か来ていた。着いたのは、午後の3時半ごろだった。テントを張り終えると、それから焚火の準備を始めた。最初からそうしようと考えていたわけではなかったが、そんなことを当然のようにさせてしまう雰囲気が、その谷にはあった。
風がないから煙が塊になって、ゆっくりと林の間を昇っていくのが見えた。何かおだやかな気持ちになって燃える火を眺め、ひとりの時間に浸った。近くを流れる白濁した湯檜曾川の瀬の音が懐かしく、心地よかった。安堵感にも似た、「来て良かった」という気持ちが湧いてきた。
いつしか頭上には、葉をすっかり落とした木々の間から、青白く光る冬の星々が見えていた。寒くはなかった。水気を含んだ薪がシューシューと音を立てて燃えていたのは、幾日か前に降った雪のせいで、そこに落ちていた枯れ木はみな湿っていた。
その夜の献立は、酒粕入りの豚汁にした。いつものように飲む方が主になってあまり食べなかったが、美味かった。酒を飲むピッチが早かったらしく酔って少し眠くなってきた。時計を見たらまだ8時を回ったばかりで、そんな時間に寝たら夜中に目が覚めて、長い夜を悶々と過ごすことになるかも知れなかった。誰にも、実生活での屈託はある。実は、それを扱いかねて、初冬の谷川へ行くことを思い立ったのだった。
それからどのくらいの時間をそうやっていたのか、火の勢いが落ちてきた。そのまま自然に消えるのを待つべきか、それとも火を燃やしながらもう少し深い山気と、酔いの中にいるべきかを決めかねて、ぬるくなったウイスキーのお湯割りを口にした。湯檜曾川の流れの音だけが聞こえていた。
誰かに、その時の気分が、帰れば都会では薬となり、また毒にもなることを伝えてみたかった。
谷川岳、登攀そのものよりも、こんな他愛のない記憶が心象のようにいつまでも残っていて、お蔭でもう一度訪れてみたい数少ない山のひとつになっている。
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