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桜木町火災(桜木町事故)

2009-12-13 | 週末学習塾
2011年4月現在、ここの記事は順次パブー版『事故災害研究室』へ移行中です。
パブー版『事故災害研究室』に掲載しているバージョンは加筆・修正が施してあり、当ブログ掲載分よりも読みやすくなっていると思われます。よろしければそちらもご覧下さい。



鉄道事故マニアのバイブル『続・事故の鉄道史』の中で、網谷りょういち氏はこう述べている。

「桜木町事故ほど、事故原因が多岐にわたり、どれが最大の要因かわかりにく事故はない。」

全くその通りである。とにかく、ここまで多くの要因が重なった鉄道事故も珍しい。しかもそれらの要因一つ一つは些細なものだが、それが積み重なったことで結果的には106名が生きながらにして焼け死んだ。まあ、大事故というものは往々にしてそんなものなのだが。

   *   *   *

時は1951(昭和26)年4月24日。戦後の復興も軌道に乗り始めていた頃である。

午後1時40分頃、桜木町駅構内の上り線ではちょっとした事故が発生していた。

電線工事の作業員がスパナを落とし、送電に関わる線を切断させてしまったのだ。これによって、電車の車両に直接電気を流す役割を持つ「トロリー線」なるものがダラリと垂れ下がる形になった。

工事を指揮していたN工手長は、駅の信号扱所へ行き、T信号掛に「断線事故のため上り線に電車を入れないように」と知らせている。

そしてちょうど、断線事故があったのと同じ頃、京浜線では下り列車が出発したところだった。5両編成、先頭はモハ63756――この直後に発生した火災事故によって鉄道史に悪名を刻み込むことになる「63系電車」である。

当時の桜木町駅では、構造上、下り列車も上り列車もともに上り線の線路を共有する形になっており、この時も下り列車の運転士はきちんと信号を確認してから上り線の線路へ進入していった。

あれ、進入しちゃうの? 断線事故じゃなかったの?

という読者の皆様の疑問はご尤もである。この辺の詳細は最後に説明しよう。

さて、上り線では断線事故が発生し、先述の通りトロリー線という電線が垂れ下がっている状態だった。これに、進入してきた下り列車の先頭車両のパンタグラフがたちまち絡まったから堪らない。パンタグラフはひん曲がり、電車の屋根に接触した。

ぬおっ、これはいかん! 異常に気付いた運転士は非常ブレーキをかけてパンタグラフを降下させた。

パンタグラフとは電車内に電気を送る装置だから、これを「降下」させたのは車内の全ての電源がストップすることを意味する。電気が通らなくなるんだから、これで火災は起らないはず――。運転士はそう考えただろうが、問題はパンタグラフではなく電線である。パンタグラフを降下させても、絡まった電線は依然として通電している。

電気はパンタグラフを通して、接触していた車両の屋根に放電。その瞬間、物凄い轟音と閃光が起こり、木製の屋根は爆発するように燃え上がった。

当時、桜木町付近の給電は、横浜変電区と鶴見変電区の二箇所からなされていた。当然この事故が起きた瞬間、それぞれの変電区でも異常を察知。以下のような対応がなされた。

● 横浜変電区 → 「高速度遮断機、作動! 給電ストップ完了!」
● 鶴見変電区 → 「あれっ、高速度遮断機が動かないヨー」

しっかりしろよ、鶴見変電区。

斯くして4〜5分に渡り事故車両には電気が送られ続け火勢が強まり、先頭車両は全焼、二両目は半焼という憂き目に遭う。

ここで、先頭車両63系電車について少し説明しておかなければいけない。

もともとこの型の列車は、1944年、戦時の輸送力増強のために開発されたものである。現在の「全長20メートル、片側4扉」タイプの車両はここから始まっており、当時としてはかなり画期的だった。

もともと「戦争に勝つまでの間に数年保てば良い」という設計思想があったらしく、現代の目線で見れば「数年あれば勝つと思ってたんかい」とツッコミを入れたくなる所だが、その実態は即席の間に合わせとしか呼べない代物だった。車内の木造の屋根は、骨組みが露出、照明はカバーも無い8個の裸電球のみ。現代の我々には想像もつかない車両である。

また桜木町火災の絡みで言えば、ガラス節約のため3段に区切られた窓は中段が開かず、極めて脱出しにくいものだったし、塗料は可燃性、天井の内張りは燃えやすいベニヤ、隣の車両へ通じる扉は満員時には使えない内開き、非常用ドアコックはどこにあるか分からない――と、もう救い様が無い。

とにかく資材を極限まで切り詰め切り詰め、輸送効率だけを追求したのである。ゼロ戦と同じだね。日本人はこういうのを作るのが上手いけれど、それは人命軽視の思想と常に背中合わせであるのだなァと思う。



それでも何とか脱出した生存者もいた。その証言を見ていこう。

「その瞬間、天井を黒煙が覆い、私は手ぬぐいで鼻と口を押えてしゃがみ込んだ。黒煙が真っ赤な炎に変わったとき、自分の下に煙を吸って倒れた乗客がたくさんいるのに気づいた。炎が渦を巻いて迫ってきた。死を覚悟した瞬間、家族の顔が浮かんだ。そのときである。ガチャーン、という音に振り向くと、火だるまになった男性が網棚につかまって両足で窓をけ破っていた。後に続けば助かると重い、私も破れた窓から飛び出した。顔や手は焼けただれたが、中古で買った純毛のスーツが炎から体を守ってくれた」

「桜木町の手前で、突然人がかぶさって来たので、何だかわからないまま手で窓ガラスを叩き壊し、窓から飛び降りて頭の火をもみ消して、火のついた上衣を脱ぐのがやっとだったが、セーターまで焼けていた」

ところでこの時、運転士は何をしていたのだろう?

当時、この5両列車にいた鉄道員は3人。うち先頭車両が火災で焼き尽くされたのは10分程の間だったと言われているから、救出のための措置を取れたのは先頭車両の運転士だけだった。

しかしこの運転士、あまりの火勢にひるんでしまい、救出のため車両に飛び込むことは出来なかった。辛うじて、比較的火災の規模が小さかった二両目の乗客を救出し、二両目と三両目を切り離し、そして最後にようやく1両目の窓から乗客を引っぱり出したりするくらいしか出来なかった。

だが先頭車両で生きながら焼かれている乗客にとっては、窓の外でウロチョロして自分達のことを助けてくれない運転士の姿はさぞ恨めしく写ったことだろう。

この時、運転士は何をすべきだっただろうか。

実は車両の外に、ちゃんと非常用ドアコック、通称「Dコック」があったのである。運転室から飛び出して、これさえチョイと捻っていれば、パンタグラフの故障で開かなくなった自動ドアも全て手動で開けられた筈なのだ。

後にその点を追及された運転士は、そのコックの存在を「後で言われて思い出した」という。これでは責められても仕方が無い。

ちなみに、車両内にもこの「Dコック」は設置されており、事故当時これを操作した人がいたのである。恐らくこれは焼死した乗客の一人だったのだろう、後の現場検証でコックが捻られているのが発見されている。火災当時の乗客たちは、実は手動でドアを開けて脱出することが可能だったのだ! やりきれない話である。

だがそれが気付かれないのも無理の無い話だった。火災時の車両内は修羅道かはたまた畜生道か、と思わせる有様で、乗客は我先にと唯一の脱出口である窓へ押し寄せ、男が女を引き摺り落とすような惨状だったという。誰か一人がコックを捻っても、それだけ混乱した車内では、落ち着いてその旨を説明する前に踏み倒され、煙を吸ってしまうのが関の山だったろう。戦後の混乱とモラルの低下は、こんな所でもまだくすぶっていたのだ。

今では、非常用ドアコックと言えばどんな車両でも目立つ場所に設置されているのですぐ分かる。だが当時の車両は全く目立たず、そうしたコックの存在そのものが多くの人には気付かれていなかったのである。

この桜木町火災を教訓に、ドアコックは目立つ形で設置されるようになった。だがそれが裏目に出たのが三河島事故である。こちらの事故では、ドアコックを捻って脱出した乗客達が、隣の線路に進入してきた別の電車に轢かれている。

こうして桜木町火災は、、先頭車両と2両目を合わせて焼死者106名、負傷者92名という大惨事になった。この事故は国鉄戦後五大事故の一つとして、今でも鉄道事故史を語る上では欠かせないものである。

さて裁判だが、これは最高裁まで争われて、最終的には職員5名が有罪となった。内訳は、架線工事の工手長のNが禁固10ヶ月。信号掛のT、運転士、工事の工手副長が禁固6ヶ月。最初にスパナを落として電線の切断を起こした工手は執行猶予付きの禁固1年である。

なお、有罪判決を受けた内の2人、工事の工手長のNと信号掛のTが事故当時に交わしたやり取りが、事故の責任追及の過程で問題になっている。最後にこれだけご紹介しておこう。

Nの証言
「架線を切ったとき信号所にかけつけて、上り線には電車を入れてくれるなと強く主張した」

Tの証言
「工手長は上り電車を出すのはチョット待ってくれと軽く言った。着(到着)はいいのか、とたずねたら、着はいいと答えたので渡り線に電車を入れた」

あまりに真正面から食い違っているので、却って可笑しい。どちらかが嘘を吐いている可能性は高いが、こういうのって、嘘を主張している本人も、だんだん自分が嘘を吐いていることを忘れちゃうらしいね。

とにかく、この2人の打ち合わせ不備のため、例の63系列車が断線事故が起きていた上り線に進入してしまったことには違いない。

この桜木町事故、例えば後年に起きた鶴見事故などに比べると不明な点がほとんど無い。だから逆に責任追及の焦点をどこに当てれば良いか分かりにくくなっている感がある。そんな中で唯一の「謎」として残ってしまったのが、この2人の証言の真偽なのである。

参考文献『続 事故の鉄道史』

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非常用ドアコック 桜木町事故 ドアコック 63系電車 トロリー線 国鉄戦後五大事故 三河島事故 1944年 非常ブレーキ
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