他人に心配をさせない、他人を不安にさせない、動揺させない、迷惑をかけない――。
これらは日本人にとっては基本的に「善」ですが、しかしあまりに徹底するとかえって害悪をもたらすことがあります。
そして日本人というのは、これを徹底するあまり、まきちらさなくてもいいような害悪をまき散らしてきた、そういう民族だったと思うのです。
今回の原発事故など、その最たるものでしょう。国民を不安にさせないという名目で、一体いくつもの「不都合な事実」が隠蔽され、後になって次々に暴露されていったことか……。
東電が、本当に国民のことを慮って隠蔽しまくっていたのかどうかは分かりません。ただとにかく「心配させないように」「不安にさせないように」「動揺させないように」と動機づければいくらでも言い訳ができてしまう、そういう国なんですね日本は。
心配をかけない、不安にさせない、迷惑をかけない、こうした善意から肝心なことが隠蔽させることもある。また悪意ある隠蔽も、あとから「心配をかけないために隠蔽した」と説明すれば、おためごかしであってもとりあえず善意の隠蔽として言い訳できる。そういう事例が一体いくつあったことでしょう? 大手企業の不祥事隠しから、いじめられている事実を誰にも言えずに自殺してしまう小中学生まで、この日本人独特の精神構造は、計り知れないほどの害悪を撒き散らしてきたのではないかと僕は想像しております。
もちろん日本に限ったことではありません。例えばアメリカの火災事例で、ナイトクラブの火災の際に、客に心配をかけさせまいと「この火事は小規模なので気にせずゆっくり避難して下さい」と嘘の放送をしたため、逃げ遅れて百何十人も死んだなどという例もあります。でも僕は外国の人の精神構造はよく分からないので、まずは日本人に限って話を進めます。
肝心なのは、心配かけまいと隠蔽することではありません。また危険である事実を、不安や動揺を与えないように小さく報道することでもありません。大事なのはただひとつ、何がどう危険であるのかを正確に伝え、そして考えうる限りの最悪の状況としてどんなことがありうるか、それを知らせることだけです。
考えてみれば当たり前のことなのですが、日本人はこれができない。なぜなら最悪の状況を想定したり、可能性としてどんな危険がありうるかを語ると、「そんな縁起でもないことは言うもんじゃない」と忌み嫌う性質があるからです。不安になること、動揺することに対して基本的に免疫ができていないんですね。だから情報を発信すべき側も、その気持ちが分かるから踏ん切れない。
このように、どうも日本人は、本当の意味で冷静になれない民族です。言葉の意味するところと現実に起こることは切り離して考えるべきなのに、それができない。他人が発する言葉と、他人の願望と、世界の在り方を区別できないんですね。ですから言葉によって不吉な世界像が示されると、それが言葉を発した本人の願望であるかのように受け止められてしまうのです。
この、変な意味で、言葉と世界と欲望が密着しているという状態は、「迷惑」という言葉の使い方にも表れていると僕は考えています。「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」などというと個人主義的主張の代名詞みたいな感じですし、まあ事実それは一理あるんですけれども、実は日本人はそれが徹底できません。なぜか。
それは日本語のニュアンスでいうと、「他人」という言葉は個人主義的な意味での「私以外の個人」を表すわけでもないですし、「迷惑」という言葉も、他者危害の原則の「危害」に該当するかというとそれもちょっと違うからです。
「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」という言い方は、いわゆる他者危害の原則に基づいたものです。原形は「他人に危害を与えなければ何をやってもいい」という言葉だと考えて頂ければいいのですが、ではこの2つの言い方はきちんと重なるのでしょうか。
簡単な例を挙げます。援助交際で売春をやっている十代の女性がいるとします。彼女は一見「他人に危害を加えていないから売春をやってもいい」ように見えますが、「他人」を個人主義的な意味で「私以外の個人」と定義したとしても、この場合彼女は自分の親や家族を「他人」には含めないでしょう。また売春は「他人に危害を加える」行為ではありませんが、それを身近な人に知られることで心配をかけ、動揺させ、不安にさせてしまうことも「他人に危害を加える」ことにちゃんと含まれているかというと、そうではないはずです。
つまり「他人に危害を加えていないから売春をやってもいい」ように見えても、それを親や家族に知られたって構わないかというとそんなことはないはずなのです。
他者危害の原則に基づく「他人に迷惑をかけないなら何をやっても……」という言い方には一見説得力があるようですが、日本人にとって「他人」とは親や兄弟をもそこに含められるほど徹底した概念ではありません。また「迷惑」も同様です。だから本当は、売春とは立派に「他人に迷惑をかけうる」行為なのです。
別に、親兄弟も他人と見なせ、といいたいわけではありません。ただ日本人にとって「他人」とは親兄弟のような身近な存在をも含めた概念ですし、「迷惑」も「危害を加えること」と重なり合う概念です。そこでそろそろ冷静になって、迷惑をかけることは危害を加えることと必ずしもイコールではないし、他人は他人と割り切らなければならないこともある、そして言葉は必ずしも世界と密着しているものではない――と自覚してもいいのではないかと思うのです。
同じ日本人に対してのみ迷惑をかけなければいい、不安にさせなければいい、という考え方は、実は同世代間内での甘えや依存に過ぎません。それによって重大な結果が起きれば、未来世代に対して犯罪的な結果を残すこともありうるのです。そのことは、今回の原発事故の顛末を見れば明らかです。
時間的・空間的な意味での「同胞」にさえ迷惑をかけなければいいという考え方からは、もう脱却しましょう。大事なのは、同胞のみならず、時間的にも空間的にも外部にあり未だ顕現していないような他者に対しても「善」であるといえるような選択なのです。
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これらは日本人にとっては基本的に「善」ですが、しかしあまりに徹底するとかえって害悪をもたらすことがあります。
そして日本人というのは、これを徹底するあまり、まきちらさなくてもいいような害悪をまき散らしてきた、そういう民族だったと思うのです。
今回の原発事故など、その最たるものでしょう。国民を不安にさせないという名目で、一体いくつもの「不都合な事実」が隠蔽され、後になって次々に暴露されていったことか……。
東電が、本当に国民のことを慮って隠蔽しまくっていたのかどうかは分かりません。ただとにかく「心配させないように」「不安にさせないように」「動揺させないように」と動機づければいくらでも言い訳ができてしまう、そういう国なんですね日本は。
心配をかけない、不安にさせない、迷惑をかけない、こうした善意から肝心なことが隠蔽させることもある。また悪意ある隠蔽も、あとから「心配をかけないために隠蔽した」と説明すれば、おためごかしであってもとりあえず善意の隠蔽として言い訳できる。そういう事例が一体いくつあったことでしょう? 大手企業の不祥事隠しから、いじめられている事実を誰にも言えずに自殺してしまう小中学生まで、この日本人独特の精神構造は、計り知れないほどの害悪を撒き散らしてきたのではないかと僕は想像しております。
もちろん日本に限ったことではありません。例えばアメリカの火災事例で、ナイトクラブの火災の際に、客に心配をかけさせまいと「この火事は小規模なので気にせずゆっくり避難して下さい」と嘘の放送をしたため、逃げ遅れて百何十人も死んだなどという例もあります。でも僕は外国の人の精神構造はよく分からないので、まずは日本人に限って話を進めます。
肝心なのは、心配かけまいと隠蔽することではありません。また危険である事実を、不安や動揺を与えないように小さく報道することでもありません。大事なのはただひとつ、何がどう危険であるのかを正確に伝え、そして考えうる限りの最悪の状況としてどんなことがありうるか、それを知らせることだけです。
考えてみれば当たり前のことなのですが、日本人はこれができない。なぜなら最悪の状況を想定したり、可能性としてどんな危険がありうるかを語ると、「そんな縁起でもないことは言うもんじゃない」と忌み嫌う性質があるからです。不安になること、動揺することに対して基本的に免疫ができていないんですね。だから情報を発信すべき側も、その気持ちが分かるから踏ん切れない。
このように、どうも日本人は、本当の意味で冷静になれない民族です。言葉の意味するところと現実に起こることは切り離して考えるべきなのに、それができない。他人が発する言葉と、他人の願望と、世界の在り方を区別できないんですね。ですから言葉によって不吉な世界像が示されると、それが言葉を発した本人の願望であるかのように受け止められてしまうのです。
この、変な意味で、言葉と世界と欲望が密着しているという状態は、「迷惑」という言葉の使い方にも表れていると僕は考えています。「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」などというと個人主義的主張の代名詞みたいな感じですし、まあ事実それは一理あるんですけれども、実は日本人はそれが徹底できません。なぜか。
それは日本語のニュアンスでいうと、「他人」という言葉は個人主義的な意味での「私以外の個人」を表すわけでもないですし、「迷惑」という言葉も、他者危害の原則の「危害」に該当するかというとそれもちょっと違うからです。
「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」という言い方は、いわゆる他者危害の原則に基づいたものです。原形は「他人に危害を与えなければ何をやってもいい」という言葉だと考えて頂ければいいのですが、ではこの2つの言い方はきちんと重なるのでしょうか。
簡単な例を挙げます。援助交際で売春をやっている十代の女性がいるとします。彼女は一見「他人に危害を加えていないから売春をやってもいい」ように見えますが、「他人」を個人主義的な意味で「私以外の個人」と定義したとしても、この場合彼女は自分の親や家族を「他人」には含めないでしょう。また売春は「他人に危害を加える」行為ではありませんが、それを身近な人に知られることで心配をかけ、動揺させ、不安にさせてしまうことも「他人に危害を加える」ことにちゃんと含まれているかというと、そうではないはずです。
つまり「他人に危害を加えていないから売春をやってもいい」ように見えても、それを親や家族に知られたって構わないかというとそんなことはないはずなのです。
他者危害の原則に基づく「他人に迷惑をかけないなら何をやっても……」という言い方には一見説得力があるようですが、日本人にとって「他人」とは親や兄弟をもそこに含められるほど徹底した概念ではありません。また「迷惑」も同様です。だから本当は、売春とは立派に「他人に迷惑をかけうる」行為なのです。
別に、親兄弟も他人と見なせ、といいたいわけではありません。ただ日本人にとって「他人」とは親兄弟のような身近な存在をも含めた概念ですし、「迷惑」も「危害を加えること」と重なり合う概念です。そこでそろそろ冷静になって、迷惑をかけることは危害を加えることと必ずしもイコールではないし、他人は他人と割り切らなければならないこともある、そして言葉は必ずしも世界と密着しているものではない――と自覚してもいいのではないかと思うのです。
同じ日本人に対してのみ迷惑をかけなければいい、不安にさせなければいい、という考え方は、実は同世代間内での甘えや依存に過ぎません。それによって重大な結果が起きれば、未来世代に対して犯罪的な結果を残すこともありうるのです。そのことは、今回の原発事故の顛末を見れば明らかです。
時間的・空間的な意味での「同胞」にさえ迷惑をかけなければいいという考え方からは、もう脱却しましょう。大事なのは、同胞のみならず、時間的にも空間的にも外部にあり未だ顕現していないような他者に対しても「善」であるといえるような選択なのです。
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