インマヌエル沼津キリスト教会

聖書の読み方も天動説から地動説へ移行しよう
沼津市今沢34番地

イエスを十字架に付ける者たち(2016.10.9 礼拝)

2016-10-11 09:14:53 | 礼拝メッセージ
2016年10月9日礼拝メッセージ
『イエスを十字架に付ける者たち』
【使徒7:51~60】

はじめに

 きょうの使徒の働きの学びは7章からです。7章の学びはきょうの1回で終わらせて、次回は8章の学びに入りたいと思っています。とは言え、きょう開いている7章の終わりの方は、既に何回か開いている箇所です。きょうはここから『イエスを十字架に付ける者たち』というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。
 きょうのタイトルのミソは、「イエスを十字架に付けた者たち」という過去形ではなく、「イエスを十字架に付ける者たち」というように現在形を使っているところにあります。イエスさまが十字架に付けられたのは1世紀の紀元30年頃の出来事だけではありません。それから数年後のこのステパノ殉教の出来事もまたイエスさまを十字架に付けたのと同じことを人々はしています。そして、このイエスさまを十字架に付ける行為はこの2千年間に無限に多くの回数行われて来て、現在でもまだ行われています。そして、私たちもまたイエス・キリストを信じる前は、イエスさまを十字架に付けたのと変わらないことをして来ました。きょうは、そのことをこの使徒の働き7章から学びたいと思います。

御霊と知恵に満ちていたステパノ
 まずはここに至った経緯を簡単に復習しておきます。使徒の働き6章から見て行きましょう。エルサレムの教会では教会員の数がどんどん増えていました。そして、それにつれて特に食卓のことで、もめごとも起きるようになり、使徒たちはその相談に乗らなければならなくなりました。そのため、本来の務めである祈りとみことばの奉仕が十分にできなくなっていましたから、新たに御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち7人を選んで、食卓のことを任せることにしました。その、御霊と知恵に満ちた評判の良い7人のうちの一人がステパノでした。ステパノについて使徒の働きは6章8節で、

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。

と書いています。
 そして、リベルテンの会堂に属する人々がステパノと議論をしましたが、対抗することができませんでした。リベルテンの会堂とは、かつてユダヤがローマに征服された時に捕らえられてローマに連行され奴隷として売られた人々がその後に解放されて戻り、その戻った人々が建てた会堂だということです。それゆえ、この人々が持つエルサレムの神殿で礼拝することへの思いには熱烈なものがあったと思われます。議論の詳しい内容は、書いてありませんからわかりませんが、概ね次のようなことではなかったかと私は想像します。ここでヨハネの福音書4章をご一緒に見ましょう。ヨハネ4章のサマリヤの女とイエスさまとが話をしている場面です。19節から24節までを交代で読みましょう。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 21節でイエスさまは、「父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」とサマリヤの女に言いました。そして使徒の働きの時代になって人々に聖霊が注がれるようになりましたから、ステパノの時代はまさにそういう時になっていました。それまではエルサレムの神殿に来なければ礼拝をしたことにはなりませんでしたが、聖霊が注がれる時代になってからは、場所には関係なく霊とまことによって礼拝する者が真の礼拝者であるということになりました。ステパノは恐らくはこのようなことを、リベルテンの会堂に属する人々と議論していたのではないかと想像します。

ステパノを石で撃ち殺したユダヤ人たち
 この霊とまことによる礼拝は、決してモーセの律法を軽視しているわけではありません。しかし、エルサレムの神殿で礼拝することに熱烈な思いを持っている人々にとっては、モーセの律法を軽視しているように見えたことでしょう。
 使徒の働きに戻ります。6章の11節と12節、(私のほうでお読みします)

6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。

そしてさらに、13節と14節、

6:13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
6:14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」

 そして7章に入ります。1節、

7:1 大祭司は、「そのとおりか」と尋ねた。

 ここから2節以降にステパノの長い演説のことばが記されています。ここでステパノは旧約聖書に書いてあることを正しく述べていますから、ステパノがモーセと神とを汚す考え方の持ち主ではないことがわかります。議会の人々も文句の付けようがなかったことでしょう。しかし、きょうの聖書箇所の51節以降から、雲行きが変わります。

7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

 ステパノから見れば、イエス・キリストを信じようとしない人々は皆、聖霊に逆らっている人々でした。そして52節、

7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 イエス・キリストがこの世に来ることを旧約の時代の預言者たちは預言していましたが、その預言者たちをユダヤ人の父祖たちは迫害していました。そして、イエス・キリストがこの世に来た時、彼らはこのイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまいました。
 そして53節と54節、

7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

 ステパノから見れば、イエス・キリストを信じない人々は律法を守っていない人々でした。しかしユダヤ人たちは、自分たちは律法を守っていると思っていましたから、はらわたが煮え返る思いで歯ぎしりしました。そして、次のステパノのことばでついに堪忍袋の緒が切れました。55節と56節です。

7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

これを聞いてユダヤ人たちは、57節、

7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

こうしてステパノはユダヤ人たちに石で打たれて殺されました。この現場にはサウロもいたことを使徒の働きは記しています。

クリスチャンへの迫害はイエスを十字架に付けたのと同じ
 この7章の流れを見ると、ユダヤ人たちはステパノが旧約聖書の話をしている時にはステパノの言うことを聞いていました。しかしステパノがイエス・キリストに言及した途端に激しく怒り、ステパノを殺してしまいました。つまり、ユダヤ人たちはイエス・キリストを十字架に付けたのと同じことを、またしても行ったのだと言えます。ステパノを石で打って殺したことは、イエス・キリストを十字架に付けて殺したのと同じことです。この現場には、イエスさまを十字架に付けた時に「十字架に付けろ」と叫んだ者たちもたくさんいたことでしょう。しかし、十字架の時にはいなかった者たちも、このステパノ殉教の現場にはいました。パウロがそうですね。パウロはユダヤ人たちがイエス・キリストを十字架に付けた現場にはいませんでしたが、数年後のステパノ殉教の現場において、イエス・キリストを十字架に付けました。そして、この時以降、パウロはイエスさまを信じる者たちへの迫害を過激に行いました。8章3節には、次のようにあります。

8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 こうしてパウロはイエスさまを十字架に付けることを何度も何度も繰り返し行いました。
 イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたクリスチャンの中にはイエスさまがいますから、クリスチャンを迫害することはイエスさまを十字架に付けるのと同じことです。そして、このことは現代においても行われています。現代の日本では迫害と言えるほどのことはありませんが、世界においてはクリスチャンであるというだけで殺されることもあります。
 ただし、このような暴力的なことでなくても、キリスト教の教えを無視することは日本でも多く行われています。これもまたイエスさまを十字架に付けるのと同じことです。ですから私たちもまた、かつてはイエスさまを十字架に付けた者たちでした。なぜ暴力的なことを行わなくてもイエスさまを十字架に付けることになるかというと、それはペテロたちのことを考えればわかるでしょう。
 ペテロたちはイエスさまが逮捕された時にイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。イエスさまが逮捕されたことが十字架へとつながって行くわけですから、逮捕されたイエスさまを見捨てることはイエスさまを十字架に付けたのと同じことだということになります。
 私自身のことを言えば、私は今でこそキリスト教会の牧師をしていますが、教会に通うようになる前には、教会に誘ってくれたクリスチャンの誘いを何度も冷たく断りました。これはイエスさまを見捨てることであり、つまりイエスさまを十字架に付けたことになります。そしてイエスさまを見捨てるということは神様を見捨てることですから、重大な罪です。しかし、神様はこんな私たちの重大な罪を赦して下さいました。それは神様が私たちを愛して下さっているからです。ヨハネの手紙第一に書いてある通りです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

おわりに
 きょうは使徒の働き7章からステパノがユダヤ人たちによって石に打たれて殺された場面を見ました。これはイエスさまを十字架に付けたのと同じことでした。そして私たちはこの出来事を二千年前の他人事として読むのでなく、私たちもまたかつてはイエスさまを見捨てて、イエスを十字架に付けた者たちであることに思いを馳せたいと思います。そして、神様はこんな私たちをも愛して下さり、赦して下さったことに感謝したいと思います。私たちは、この神様の大きな愛に感謝して、霊に燃えて主に仕え、イエスさまの福音を地域の方々に宣べ伝える者たちでありたいと思います。
 最後に、使徒7章の59節と60節を交代で読みましょう。

7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 お祈りいたしましょう。
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