平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

信仰の二次元の時間(2014.7.9 祈り会)

2014-07-10 11:11:20 | 祈り会メッセージ
2014年7月9日祈り会メッセージ
『信仰の二次元の時間』
【ローマ8:16】

はじめに
 祈祷会での使徒の働きの学びは3章で足踏みをして、なかなか先に進みませんが、きょうも使徒の働きからは離れます。いま私たちが置かれている状況が刻々と変わって来ていますので、この祈祷会のメッセージは、その時々に示されたことを語らせていただきたいと思います。そして、また使徒の働きに戻るかもしれませんし、戻らないかもしれません。戻るとしたら、もう少し飛び飛びに扱って行くことも考えたいと思います。

平和の福音を宣べ伝える
 さて、いま私が示されているのは、平和の問題を意識しながら、福音を宣べ伝えるということです。私は平和の実現という希望を持って平和の働きをしたいと願っていますが、それに対しては、次のような考え方もあります。すなわち、主イエスの再臨があるまでは、紛争は決して地上からなくならないことがマタイ・マルコ・ルカで預言されているということです。先日の礼拝で交読したイザヤ2章のような平和な状況は、終わりの日が来て初めて実現するのだということです。しかし、そうであれば猶更、その日が来る前に、できるだけ多くの方々を救いに導かなければならないと思います。それには、平和が危うい今の状況では平和のメッセージを通じて福音を語るのが、最も耳を傾けてもらいやすいであろうというのが、私が今、示されていることです。
 これまで私たちが使徒の働きから学んで来たように、私たちには聖霊が注がれています。そして、聖霊が注がれた者の働きは、人間の働きではなく、聖霊の働きであるということです。ですから人間的な思いではなく聖霊に導かれた働きをしているなら、平和のための働きは人間的な努力ではないと思います。

二次元の時間で信仰を表現する
 そういうわけですから、平和が危うい状況にある今、私たちは福音を宣べ伝える働きをしっかりとしなければなりません。そこで私が今示されていることは、信仰においてわかりにくいことを、図解を多用して説明してみたらどうかということです。そして今私は、時間観を一次元から二次元に拡張すれば、わかりやすいのではないかということです。この二次元の時間観は、決して思い付きのことではなくて、それはヨハネの福音書の永遠観から導かれることです。ただしヨハネの福音書が「時間とは二次元である」と言っているわけではなく、時間が二次元であると考えると上手く説明できるということです。
 私たちの身の回りの空間が三次元であると言われるのも、三次元と考えればいろいろなことが上手く説明できるからです。現代物理学では、もっと多くの隠れた次元があるという説もありますから、実際のところは良くわかりません。それでも、いちおう目に見える世界では空間が三次元であると考えれば、いろいろなことが上手く説明できますから一般人の私たちは、空間は三次元と考えれば良いのです。
 時間を二次元と考えれば、信仰のことを上手く説明できるというのも、そういう類の話であると思っていただければ良いと思います。神との交わりの中にある時間を、もう一つの時間軸で表すなら、信仰を上手く説明できるのです。ですから信仰を持たない人にとっては、時間は相変わらず一次元のままです。

霊的な目覚めで気付く「神の時間軸」の存在
 図1から説明します。



 この二次元の時間観はヨハネの福音書から導かれるものですから(後で説明します)、図1にはヨハネの福音書のみことばの、

 「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
 「来なさい。そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)

を入れてみました。
 普段、私たちは横軸の一次元の時間の中で生活をしていますが、神の存在に気付き、神と共に歩み始めるなら、もう一つの時間軸があることに気付きます。ヨハネの福音書に則して説明するなら、イエス・キリストが私たちに対して「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすればわかります。」という語り掛けに応答して、イエスに付き従って行くことにした時、縦軸の「神の時間軸」の存在に気付き、神と共に歩み始めます。そうして、この縦軸に沿って歩み始めるなら、「平和」、「自由」、「救い」、「弱さを誇る」、「神」、「永遠の命」、「希望」、「光」、「信仰」の方向へと進んで行くことができます。一方、イエス・キリストの語り掛けに気付かないか無視をして応答しないのであれば、それまで通りの横軸の時間に沿って進み続けます。それは「戦争」、「奴隷」、「滅び」、「強さを誇る」、「悪魔」、「死」、「絶望」、「闇」、「不信仰」へと向かう道です。
 この神の縦軸の存在はヨハネの福音書から導かれます。



 図2の左側の図を使って説明すると、「モーセ」、「預言者」、「イエス」、「使徒」、「愛弟子A」、「愛弟子B」、・・・、「わたし」の一人一人にはそれぞれの人としての人生があります。それら個々の人としての人生は、横軸の「人の時間」に沿って進み、いずれはこの世の人生を終えて死にます。しかし、一人一人の人生に沿って「イエス」もまた共に歩んでいます。イエスは永遠の中を生きていますから、全ての時代の者と共に歩んでいます。このことに気付く時、人は「御父と御子との交わり」(Ⅰヨハネ1:3)の中に入れられます。そして、この「御父と御子との交わり」が「神の時間軸」であると言うことができます。
 この縦軸の存在は聖霊の働きによって気付くものです。なぜなら「御父と御子との交わり」は聖霊の働きによって感じることができるものだからです。ですから霊的な熟睡状態にある者は、決して気付くことができません。霊的に覚醒して回心して初めて気付くことができ、聖霊に満たされるなら「御霊の実」が与えられる方向へと進んで行きます。ウェスレーは「御霊の証し」という説教でローマ8:16の「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」を引用し、この御霊の証しの一つとして「御霊の実」、すなわち、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が信仰者に与えられることを挙げています。

おわりに
 このように、信仰を二次元の時間で表現することは、「信仰とは何か」のイメージをほとんど全く持ち合わせていない人々に対して、何がしかのイメージを持っていただく効果があるのではないかと考えているところです。ここに挙げた図がわかりにくいのであれば、さらに図を増やして、図解を多用することで、福音を宣べ伝える助けにすることができればと思います。そして、それが平和の働きへとつながって行けば感謝に思います。
 お祈りいたしましょう。
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