インマヌエル沼津キリスト教会

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周囲の目に縛られている私たち(2017.5.24 祈り会)

2017-05-26 10:45:21 | 祈り会メッセージ
2017年5月24日祈り会メッセージ
『周囲の目に縛られている私たち』
【ヨハネ12:37~43】

はじめに
 祈り会では、ヨハネの福音書の学びを続けています。ここ何回か、「イエス・キリストは聖書のことばである」ということを主題にして話して来ましたが、このテーマでのネタがそろそろ尽きて来ましたから、少し話題を変えながら、なおヨハネの福音書の学びを続けて行きたいと願っています。

なぜヨハネの福音書の三層構造が気付かれずに来たのか?
 今の私の頭の中にある最大の疑問は、なぜヨハネの福音書の重層構造、すなわち「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」が三層に重なっている構造、この構造のことが、今まで気付かれずに来たのか、ということです。私のような足りない者が気付くことができたことなのに、なぜ長い間にわたって気付かれないまま今日に至ったのでしょうか。(私が足りない者であると自己評価していることは、決して謙遜ではありません。もし私が前職または前々職において十分な成果を挙げていたなら、私はその職にとどまっていた筈です。しかし、私は前職においても前々職においても十分な働きが出来ませんでした。このことを私はとても残念に思い、コンプレックスを感じています。恐らく神様は、私を牧師に召し出すために、前の職場で活躍するための能力を十分に与えて下さらなかったのだと思います。ですから、それは仕方のないことだったと思っています。そして神様が私を召し出して下さったことを今では感謝しています。しかし、前の職場で他の人々が活躍しているのにも関わらず、自分が十分な成果を挙げられないでいたことは、けっこうつらいものがありました。そして、もし私に優れた能力があるなら、ヨハネの福音書のことも、もっと上手に皆さんにお伝えできている筈です。そのことが上手くできていないことも残念に思っています。ですから私が自分を高く評価していることはありません。)
 話を元に戻すと、ヨハネの福音書の深層部に「旧約の時代」と「使徒の時代」があることは、他に何の文献も要りません。ですから、誰でもこのことを発見する可能性はあったわけです。それにも関わらず、これまでヨハネの福音書の深層部の存在が知られずに来たのは、本当に不思議なことです。

聖書一冊あれば発見できること
 一般的に言って、何か新しい発見をするには、莫大な費用が掛かるのが普通です。自然科学の実験・計算系では装置にお金が掛かります。ネットで調べた装置では、スーパーカミオカンデ(巨大な水槽を神岡鉱山の廃坑に設置したもの)が約100億円、すばる望遠鏡(空気が澄んだハワイの山の上に設置したもの)が約400億円だそうです。或いはまた、スーパーコンピュータ「京」の総開発費は1,120億円だそうです。装置が要らない理論系でも専門性を身に付けるまでの大学・大学院の学費がそれなりに掛かりますし、人文社会系においても調査費が掛かるでしょう。つまり、これらの分野では個々の研究者の能力の問題以外にも費用の問題というハードルが先ずありますから、新しい発見が簡単に得られないことは良く理解できます。
 一方で聖書は、自国語に翻訳された聖書を比較的安価に入手できます。翻訳者は多大な労力と時間をつぎ込んでいますが、読者は一般の書店で数千円程度で聖書を購入することができますから、現代では多くの人々が自分の聖書を持っていて、日常的に読むことができます。ですから、聖書を一冊持っていれば誰でも発見するチャンスがあったヨハネの福音書の深層部がこれまで知られずに来たのは、本当に不思議なことです。

主が私たちの目を閉じている?
 どうしてでしょうか。一つの可能性としては、いつも私が言っているように、皆があまりに【過去→現在→未来】の直線的な時間観に縛られているために、「イエスの時代」、「旧約の時代」、「使徒の時代」の三つの時代が重なっていることに気付きにくくなっているのだろうと思います。しかし、それにしても誰か他に気付いても良さそうにも思います。それゆえ、もしかしたら主が私たちの目を依然として閉じているのではないかという気もしています。
 お開きにならなくて結構ですが、主はイザヤに次のように仰せられました。

「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(イザヤ6:9,10)

 このような『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』の時代が今でも続いているのだろうかという気もします。しかし、イエス・キリストを信じる者にとっては、もうこのような時代は過ぎ去ったはずです。それなのに、ヨハネの福音書の深層部が知られずに来たのは、いったいどうしてなのか。これはとても不思議なことです。
 ただ、ヒントになりそうな箇所がありますから、その箇所を、ご一緒に読むことにしたいと思います。今のイザヤ6章を引用しているヨハネ12章です。ヨハネ12章の37節から43節までを、交代で読みましょう。

12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

 38節の「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」は、有名なイザヤ53章からの引用ですね。そして、40節の「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」はイザヤ6章からの引用です。

周囲の目に縛られると到達できない真理
 このイザヤ6章が引用されたのは、ユダヤ人たちがイエスさまを信じなかったからです。彼らがイエスさまを信じなかったのは、主が彼らの目を盲目にし、また、彼らの心をかたくなにしたからだとヨハネ12章40節は書いています。
 しかし、ヨハネは12章42節のようにも書いています。

12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。

 この箇所からは、たとえ主が人の霊的な目を盲目にしても、その目が絶対に開かないということはなく、何かをきっかけにして開くこともあるのだということがわかります。私の場合もそうでした。私の霊的な目は堅く閉じられていましたが、16年前に、父の死をきっかけにして少しずつ開きました。そうして高津教会に通うようになって、しばらく経ってから、イエス・キリストを信じるに至りました。
 ただし、洗礼を受けるには、もう一つの心のハードルを乗り越える必要がありました。家族や世間がどう思うだろうかということを心配して、このことが心のハードルになっていました。今の42節の前半に続く後半、そして43節とまったく同じです。お読みします。

ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

 この箇所は、日本人のクリスチャンならよくわかると思います。私の場合も、家族がどう思うだろうかというハードルがありました。それでも、家族の問題は何とかクリアして洗礼の恵みに与りましたが、世間の目ということに関しては、未だに完全に自由になれてはいないと思います。たとえばチラシの投函では、私は玄関先で犬に吠えられると退散してしまいます。悪いことをしているわけではないのに、犬に吠えられると何だか悪いことをしているような気持ちになってしまいます。世間体を全く気にしていなければ、たとえ犬に吠えられても堂々と投函できるはずですが、つい気持ちが萎えてしまいます。
 或いはまた、世間の目だけではなく、私は教団の目も気にしています。今度出版する本の内容を代表以外の教団の先生方が知ったら(代表には知らせてあります)、どういう反応を示すか、私はけっこう気にしています。私は今回の本の働きは、主から与えられた使命だと確信していますから、たとえ教団の先生方がどう思おうとも構わないという強い気持ちで出版に踏み切り、Facebook上でも報告していますが、それでも先生方の目を恐れる気持ちから完全に自由になれているわけではありません。
 ただし、この種のことは、恐らくは私に限ったことではないだろうと思います。周囲のあらゆる種類の目から100%完全に自由になれている人は稀有であろうと思います。
 そういう点でヨハネ12章の42節と43節は、すべてのクリスチャンに当てはまると言っても過言ではないでしょう。様々な人の目の中で暮らしている私たちは、それほど精神的に不自由な存在であるとも言えるのだと思います。この箇所は、決して不信仰を批判しているのではなくて、誰にでもこういう傾向があるのだということを教えてくれているのだと思います。
 聖書の真理に到達するためには、これらの縛りから完全に自由にならなければならないのでしょう。このことを教訓として、きょうの学びとしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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