平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

ルデヤの心を開いた主(2017.8.20 礼拝)

2017-08-21 09:05:34 | 礼拝メッセージ
2017年8月20日礼拝メッセージ
『ルデヤの心を開いた主』
【使徒16:11~15】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。先週は第二次伝道旅行を続けるパウロたちがアジヤでの伝道ではなくマケドニヤへの伝道に導かれたところまでを学びました。9節と10節から見て行きます。パウロたちは南方面の伝道も北方面の伝道も聖霊によって禁じられました。そんな、ある夜、パウロは幻を見ました。9節と10節、

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 マケドニヤはギリシャにあり、ギリシャはヨーロッパにあります。こうしてパウロたちはヨーロッパ伝道への第一歩を踏み出すことになりました。この10節には、「私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした」とあります。その前の6節には、「彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った」とあります。10節より前は「彼ら」で、10節から「私たち」になったのは、ここから使徒の働きの記者のルカがパウロの一行に加わったからだと考えられています。

ルデヤの心を開いた主
 さて、ここから今日の聖書箇所に入ります。11節と12節、

16:11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

 ここで地図を見ましょう(第二次伝道旅行のルートを確認)。
 続いて13節、

16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

 そして、ここにルデヤという女性がいました。14節と15節、

16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。

信じない人は主が心を開かないからか?
 今回私は、この説教の準備をしていて、14節の「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」に目がとまりました。これはとても気になる表現ですね。このこと自体はよくわかるものの、では私たちの周囲にたくさんいる、イエスさまのことを信じようとしない人々は、主が心を開いて下さらないから信じないのでしょうか。主が心を開いて下さらない限り、これらの人々はイエスさまを信じないのでしょうか。
 これは、そんなに簡単な問題ではないと思います。しかし、しっかり考えなければならない問題だと思います。
 このことについては、パウロも思い悩んでいました。パウロは同胞のユダヤ人がなかなかイエス・キリストを信じようとしないことを残念に思い、悲しんでいました。使徒の働きの最後の部分をご一緒に読んでみたいと思います。

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 使徒の働きの記者のルカは、パウロがこのように言ったと記しています。パウロがこのように言いたくなる気持ちは、私たちはよくわかると思います。周囲の人々にイエスさまのことを一生懸命に語っても、なかなか聞く耳を持ってもらえない時、それは主がこれらの方々の耳を閉じているからではないかと思いたくなります。

主は皆を救いたい

 しかし、このイザヤの預言は旧約の時代のことであって、イエスさまを信じれば誰でも聖霊を受ける時代になって以降は、目と耳を閉じている人がいたなら、それはやはり自分で閉じているのであって、主が閉じているのではないと考えるべきでしょう。第二ペテロ3:9(週報p.3)にあるように、 主は・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおらます。また、この礼拝でよく開くヨハネの手紙第一の1:3は「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」と書いています。この交わりには誰でもが招かれています。
 これらのことを念頭に置いて、改めて使徒16章の13節以降を見てみたいと思います。13節、

16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

 そして、ここにルデヤという女性がいました。14節と15節、

16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

 主はルデヤがパウロの語る事に心を留めるようにされました。そこから先、ルデヤが信じるか信じないかは、ルデヤに委ねられています。主は決して強制的にルデヤが信じるようにしたのではないと思います。強制的に信じさせたのでは、ただの操り人形になってしまいます。主は決してそのようなことはなさいません。
 パウロがイエスさまを信じた時もそうです。主はパウロの目を見えなくするという、かなり手荒いことをしましたが、それでも強制的に信じさせることはしませんでした。パウロは自分自身の意思でイエスさまを信じました。
 ルデヤも、そして家族たちも同様です。そうしてルデヤも、またその家族もバプテスマを受けました。

おわりに
 きょうのメッセージはここまでにしますが、きょうのポイントをもう一度復習したいと思います。
 私たちは、イエスさまのことがなかなか伝わらない時、絶望して、これは主がこの人たちの目と耳を閉じてしまっているからではないかと疑いたくなる時もあります。しかし、そんなことはないでしょう。もし主が目を閉じているのであれば、私たちがどんなに頑張っても、それは無駄な努力であるということになります。そうではなくて主も一人も滅びることを望んではおられず、みんなが御父と御子との交わりに入れるよう、望んでおられます。
 ですから私たちは決してあきらめることなく、周囲の人たちにイエスさまを宣べ伝えて行かなければなりません。ただし人がどのようなことに反応するかは、本当に人それぞれです。ですから、工夫が要ります。かつては、日本人のほぼ全体が同じ映画やテレビ番組や流行歌で盛り上がっていた時代がありました。しかし今は、そのようなことはほとんどなくなりました。好みが多様化しましたから、日本全体が一つのことで盛り上がることは稀になりました。3年後の東京オリンピックでさえ期待する人も多くいる一方で冷めている人もたくさんいます。
 こういう時代の伝道には、本当に知恵が必要だと思います。この知恵は主が与えて下さいますから、私たちは主の御声に耳を澄ませたいと思います。ただしイエスさまを信じるか信じないか、最後の最後にそれを決めるのは本人です。それは主でさえも強制的に信じさせることはなさいません。ですからイエスさまを宣べ伝えることは本当に大変なことですが、それでも私たちはめげずに、イエスさまを宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
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