平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

悲惨な過去の上に立つ崇高な理想(2015.5.3 憲法記念日礼拝)

2015-05-03 13:55:42 | 礼拝メッセージ
2015年5月3日憲法記念日礼拝メッセージ
『悲惨な過去の上に立つ崇高な理想』
【ルカ10:38~42】                   

はじめに
 きょうは憲法記念日です。2年半前に自民党が政権に復帰してから、憲法改正に関する論議がにわかに活発になって来ました。そこで今日の礼拝を「憲法記念日礼拝」と名付けて、憲法についてご一緒に考える時を持ちたいと思います。
 私が大学生だった頃、私は憲法には全く関心を持っていませんでした。大学の教養部の授業では「日本国憲法」という選択科目がありましたが、私は受講しませんでした。教員免許を取得するには、この「日本国憲法」の単位が必要ですから友人の多くは、この授業を受けていました。しかし私は教員になるつもりはありませんでしたから、受けなくてもいいやと思っていました。教員になるつもりはなくても、一般教養として受けておけば良かったのにと今私は、当時の自分のことを苦々しく思っています。それほどまでに以前の私は憲法に無関心でした。そんな私が、ここ一、二年ほどの間ににわかに憲法について関心を持つようになり、神聖な礼拝を「憲法記念日礼拝」と銘打つように霊的な促しを受けているのですから、今年の憲法記念日は、本当に大切な日であるということになります。

聖書の教えと合致している平和憲法
 「戦争の放棄」を明記した平和憲法は、イエスさまがペテロに対して「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と言い、無抵抗で十字架に付いたことを伝える聖書の教えと非常によく合致するものです。また、戦争では日本の民間人も多くの人々が命を落としました。沖縄の地上戦では多くの住民が巻き込まれ、全国各地の空襲では人口密集地を狙って大量の焼夷弾が投下され、広島と長崎では原爆によって膨大な数の住民が犠牲になりました。日本国憲法が、この犠牲の上に成り立っていることもまた、キリスト教がイエス・キリストの十字架の犠牲の上に成り立ったことと共通点があります。
 日本ではキリスト教は未だ根付いていませんが、平和憲法は根付いています。ということはキリスト教の平和の精神は根付いていると言えるのでしょう。このことはアメリカとは対照的です。アメリカはキリスト教が根付いていますが、キリスト教の平和の精神は根付いていません。
 これはとても不思議なことですが、キリスト教本来の平和の精神はアメリカよりも戦後の日本でよく根付いていると言えます。だからこそ、平和憲法は何としてでも守らなくてはならないと思います。そして、平和の精神が根付いていないアメリカのような国々に逆に伝えて行かなければなりません。これは日本のキリスト者に課せられた使命のように私は感じています。
 一昨日、私は次の放送原稿を世話役の先生に送信しました。きょうのメッセージでは、先ずその原稿の全文を読み、その後で補足説明を行います(これはフライングですから、本ブログに番組名は書きません)。

過去の悲惨な土台の上にある憲法と聖書
(ここから原稿)
 先日の5月3日の日曜日は憲法記念日でした。そして次の日曜日は母の日です。今回の放送では、憲法記念日と母の日の、どちらに因んだメッセージにしようか、私は少し迷いました。そして思ったことは、母の日を巡る状況については今年も来年も再来年も、それほど大きくは変わらないであろう、ということです。一方、憲法を巡る状況については、今年と来年、そして再来年とでは状況が大きく変わっている可能性があります。一度変わってしまえば最早後戻りはできません。そこで今日は、日本の平和憲法について、キリスト教の聖書の立場から考えてみることにしたいと思います。
 日本国憲法の前文、前の文の中に、こんな一文があります。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 いま読んだ文の中で「崇高な理想」という言葉が使われています。そして、憲法の前文では、もう一度「崇高な理想」が使われて締めくくられます。この締めくくりの文もお読みします。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

 このように「崇高な理想」を掲げる現行の日本国憲法については、理想論に偏り過ぎていると考える人も少なくないようです。理想を追求するばかりでなく、現在の国際情勢に鑑みて現実に沿ったものにして行くべきだという意見も多く見聞きします。
 目の前の現実にきちんと向き合うことは、もちろん大切なことです。しかし、現実にばかり目を向けていると、大切なことを忘れてしまいます。このことについて、聖書は何を語っているでしょうか。新約聖書のルカの福音書に登場するマルタとマリヤの姉妹について見てみたいと思います。旅をしていたイエスの一行はマルタとマリヤの姉妹の家に泊まることになりました。その時の状況がルカの福音書10章の38節から42節に掛けて書かれています。お読みします。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 この時、姉のマルタはイエスの一行をもてなすという現実に追われて大変な忙しさの中にありました。しかし妹のマリヤはイエスの話に聞き入っていて少しも手伝おうとしないので、マルタはいらだっていました。そして遂にイエスにその不満をぶつけたのでした。するとイエスはマルタに言いました。もう一度お読みします。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 イエスは、目の前の現実に追われることよりも、イエスのことばに耳を傾けることのほうを、良しとしました。では、イエスのことばとは、どのようなものでしょうか。

(賛美歌を挟む)

 イエスがマルタとマリヤの家で説いていた教えは、旧約聖書に基づいた教えです。十字架で死ぬ前のイエスが人々に教えを説いていた時には、新約聖書はまだ書かれていませんでしたから、イエスは旧約聖書を引用しながら教えていました。
 では、旧約聖書には何が書かれているのでしょうか。実は、旧約聖書の記述の大半は、イスラエルの民が犯した悲惨な失敗と過ちについてです。神から離れがちであったイスラエルの民は多くの悲惨な失敗を経験しました。ダビデとソロモンの時代に繁栄したイスラエルの王国は北と南の二つの王国に分裂してしまい、その後、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南王国もバビロニヤ帝国に滅ぼされてしまいました。旧約聖書は、イスラエルがこのように悲惨なことになったのは人々が神から離れていたからであると書いています。
 イエスの教えは、このような旧約聖書の時代の悲惨な失敗の土台の上に立っています。イエスの「互いに愛し合いなさい」という教えや「平和をつくる者は幸いです」という教えは単なる理想論ではなく、悲惨な失敗という土台の上に立っているのだということを、私たちはしっかりと認識したいと思います。
 イエスの教えには、悲惨な失敗を二度と繰り返してはならないという思いが込められています。このことを見落とすと、私たちは何度でも同じ過ちを繰り返すことになります。マルタのように現実に追われてバタバタとした日々を送っていると、この大切なことを見落としてしまいます。聖書が平和を説いているのに、イエスの時代から二千年経っても人類が相変わらず戦争を繰り返しているのは、新約聖書のイエスの教えが旧約聖書の時代の悲惨な失敗という土台の上に立ったものであるということを、私たちが忘れがちであるからだろうと私は考えています。新約聖書だけを読むと理想論が書いてあるように見えますが、これは旧約聖書の時代の悲惨な失敗が土台になっているのだということを、私たちは見落とさないようにしたいと思います。
 日本国憲法も同じです。日本国憲法は戦争の惨禍という悲惨な失敗が土台になっています。第二次世界大戦は敗戦国だけでなく戦勝国にとっても悲惨な失敗です。戦争を始めた日本は周辺諸国の人々を侵略によって苦しめ、また降伏が遅れたことで日本の国民をも苦しめました。これは悲惨な失敗です。またアメリカは日本に対して民間人を巻き込んだ無差別攻撃を行いました。軍事施設ではない民間人の居住区域に二発の原爆と大量の焼夷弾を投下したことは過ちであり、悲惨な失敗です。ですから日本の平和憲法は、日本の失敗だけではなくアメリカの失敗をも土台にしています。
 このように日本の平和憲法と新約聖書とは、過去の悲惨な失敗が土台になっているという共通点を持っています。さらに言うなら土台になっているのは、悲惨な失敗だけではなく、安堵の気持ちや平和な気持ちもまた土台になっています。
 イエスのことばに聞き入っていた妹のマリヤは平和な気持ちに包まれていました。旧約聖書の時代の悲惨な失敗を土台にしたイエスの教えは聞く人々に平和な気持ちを与えるものでした。新約聖書はこれらを土台にしてイエスの弟子たちによって書かれた書物です。つまり新約聖書は旧約聖書の時代の悲惨な失敗という土台があり、さらにその上にイエスが人々に与えた平安という、もう一つの土台があります。新約聖書は、この二重の堅固な土台の上に立って書かれ、イエスが語った理想を追求しています。
 日本国憲法もまた、戦争が終わった時に人々が味わった安堵の気持ち、平和な気持ちがもう一つの土台になっています。戦争が終わった時の安堵感は日本人だけでなくアメリカ人も当然持っていました。日本人もアメリカ人も戦争が終わった時に安堵の気持ちを持ち、二度と戦争は繰り返すべきでないと思いました。そうして平和憲法はアメリカ人が草案を作成して、日本人が修正を加え、日本の議会が承認して公布されました。
 このように聖書も日本国憲法も、どちらも悲惨な失敗と、その後に得られた平安という二重の土台の上に成り立っています。しかし、日々を忙しく過ごし、目先の現実に追われ、時流に流されて行ってしまうようになるなら、土台を流失してしまうことになります。土台を失ってしまうことは理想を失うことでもあります。何故なら理想は土台の上に成り立っているからです。そうして理想と土台の両方を失うなら、あとは時流に流されて行くだけになってしまいます。それは姉のマルタのようになってしまうことです。イエス・キリストは、そんなマルタを戒めたのでした。理想の平和を追求する日本国憲法を改正して現実に合わせようという今の日本の動きは、この姉のマルタに良く似ていると私は感じています。
 日本人が愛してやまない富士山は、日本一の高さを誇ります。この日本一の高さはしばしば高い理想に例えられます。この富士山の高さは広大な裾野という土台によって支えられています。このように理想と土台とは一体になっています。私たちは富士山の広くゆったりとした裾野のように、広くゆったりとした心を持ちつつ、理想を追求して行きたいと思います。
 忙しい私たちが目先の現実に追われて時流に流される日々を過ごすなら、土台と理想の両方を失うことになります。私たちは姉のマルタのように目先のことばかりに追われるのではなく、時には妹のマリヤのように静かでゆったりとした時を持ちたいと思います。キリスト教会はそのような時を持つことができる場所の一つです。次の日曜日はお近くのキリスト教会に行かれてみてはいかがでしょうか。
 最後にもう一度、姉のマルタに対するイエスのことばをお読みして、今日のメッセージを閉じたいと思います。皆さんにイエス・キリストの平安が与えられますよう、お祈りしています。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
(原稿ここまで)

霊的な領域につながる話
 この放送原稿に補足したいことは、たくさんありますが、残り時間が少ない中で何か一つ補足するとしたら、これは極めて霊的な世界に通じる話であるということです。放送で霊的な話をしても理解していただけませんから、そういう話にはしていませんが、これは霊的な領域につながる話です。
 姉のマルタのように目先の忙しさに追われているようでは霊的なことは一切わかりません。妹のマリヤのように、神の領域のことに、じっと耳を傾けるのでなければ霊的なことはわかって来ません。平和を実現するためには、霊的に覚醒している私たちの働きがどうしても必要です。
 私は日本人には霊的な領域のことを理解する素質が十分に備わっていると考えています。だからこそ、キリスト教の平和の精神が戦後の平和憲法によって根付いたのだと思います。しかし日本人は和魂洋才を重んじますから、西洋的なキリスト教を魂で受け入れることを拒んでいるように思います。けれどもキリスト教が西洋の宗教であるというのは誤解ですね。ですから、この誤解が解ければキリスト教もやがては受け入れるようになるのではないかと思います。しかし、その前に平和憲法が改正されてしまえば、キリスト教の平和の精神が根付いていないアメリカと同じことになってしまいます。そうしてアメリカと同じように、戦争の繰り返しから抜け出せないという泥沼に入って行ってしまうことになります。

おわりに
 戦争の繰り返しの泥沼に引き込まれないよう、日本は平和憲法を守り、平和憲法の精神をアメリカなどの国々に伝えて行かなければなりません。それが日本のキリスト者の責務であると私は考えます。
 それゆえ、今年の憲法記念日は極めて大切であることを重ねて強調したいと思います。平和の実現のために共に働いて行くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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