インマヌエル沼津キリスト教会

聖書の読み方も天動説から地動説へ移行しよう
沼津市今沢34番地

より多くの人を獲得するために(2017.7.30 礼拝)

2017-07-31 08:35:27 | 礼拝メッセージ
2017年7月30日礼拝メッセージ
『より多くの人を獲得するために』
【使徒16:1~5】

はじめに
 使徒の働きの学びは、きょうから16章に入ります。この16章でパウロはいよいよヨーロッパ伝道へと乗り出します。きょうは早速、そのヨーロッパ伝道へ至った経緯を学びたいところですが、16章の3節にパウロがテモテに割礼を受けさせたことが記されています。異邦人のギリシヤ人を父に持つテモテに、パウロがなぜ割礼を受けさせたのか、このことに触れずに素通りするわけにはいきませんから、きょうはこの一件について、ご一緒に学ぶことにしたいと思います。

テモテを伝道旅行に連れて行ったパウロ
 まず16章の1節と2節をお読みします。

16:1 それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、
16:2 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。

 デルベもルステラも、パウロがかつて第一次伝道旅行で訪れた土地でした。今回の第二次伝道旅行の目的は、まずこれらの土地の兄弟たちがどうしているか、信仰から離れていないか、実際に会って確かめることでした。
(地図を見る)
 そして、このルステラにテモテという若者がいました。この1節には信者であるユダヤ婦人の子とありますが、テモテへの手紙第二には、この母親の名前はユニケであることが書かれています。テモテはギリシヤ人の父とユダヤ人の母との間の子でしたが、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で評判の良い人でした。
 続いて3節、

16:3 パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。

 この3節からは、いろいろなことが想像されます。そこに聖書を読む楽しさがあります。想像を膨らませることで、聖書がぐっと身近に感じられるようになります。私たちは学者ではありませんから、想像したことが少しぐらい間違っていても構わないと思います(そもそも私たちは聖書の時代に生きていないのですから、100%正確に聖書を解釈できる人など誰もいないでしょう)。パウロは、どうしてテモテを連れて行きたかったのでしょうか。このことについて、様々に想像することで、パウロという人物や当時のことをとても身近に感じることができるようになるでしょう。
 パウロはなぜテモテを連れて行きたかったのでしょうか。ある注解書には、弟子を育てたかったと書いてありました。確かにそういう面もあるだろうと思います。しかし、もっと単純に、信頼のおける若くて元気な者が一緒にいれば何かと便利だというのが一番の理由ではないかと私は考えます。旅の先々で宿を求めるような時、若い者に先に行ってもらえれば早めに宿を確保することができます。そうすれば次の町に着いたらすぐに休むことができます。町に着いてから宿を探していたら、なかなか休むことができません。或いは旅の途中で水がなくなってしまったような時でも、若い者に水を探しに行ってもらうこともできるでしょう。第一次伝道旅行では若いマルコが途中で脱落してしまいましたから、それでパウロはけっこう不自由したのかもしれません。
 では次に、「このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた」とは、どういうことでしょうか。連れて行った先のユダヤ人の手前ではなくて、テモテがいる、このルステラの地方にいるユダヤ人の手前、と使徒の働きの記者のルカは書いています。

この地方のユダヤ人の手前とは?
 ここから先は私の想像がかなり入っていますが、テモテを連れて行った後の母のユニケのことを思ってのことだったかもしれません。この時、父親のギリシヤ人が家にいたかどうかはわかりませんが、息子のテモテがパウロと一緒に旅に出て、いなくなってしまうことは様々に心細いことであったでしょう。そういう心細い時にユダヤ人社会から見放されてしまってはユニケにとって良くないという判断があったかもしれません。
 ユダヤ人にとってはユニケがギリシヤ人と結婚したというだけで、とんでもないことだったでしょう。まして、テモテを連れて行くパウロは、かつてルステラの町で石打ちに遭った異端の犯罪者のような男です。テモテがそのパウロの弟子だということになったら、ユニケはユダヤ人の社会から完全に見放されてしまう、それではテモテも母が心配で、母を残して家を離れることはできない、そのような考えがあったのではないかと私は想像します。
 しかし、それにしても、テモテの父親は異邦人のギリシヤ人です。ですからテモテの血の半分は異邦人です。この異邦人の子のテモテに割礼を受けさせることに、それまでのパウロの異邦人に割礼は必要ないという主張と矛盾はないでしょうか。それは、パウロの中では矛盾のないことでした。

より多くの人を獲得するために

 パウロは極めて柔軟な考え方をする人でした。それが最もはっきりと表れているのが、第一コリントの9章でしょう。9章の19節から23節までを交代で読みましょう。

9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 19節の「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」とは、どういうことでしょうか。それは20節を読むとわかります。

9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

 イエス・キリストを信じて救われるのに律法を守る必要ありませんが、律法を守っている人は救われないということもありません。つまりキリストの救いを受けるのに律法は関係ありません。律法を守っていても守っていなくても救われます。大切なのはイエス・キリストを信じる信仰です。パウロはユダヤ人も救われることを願っていました。そのユダヤ人たちに対して律法を守る必要はないと主張すれば、ユダヤ人たちの反感を買うことになります。それはユダヤ人たちにイエス・キリストを信じてもらう上で得策ではありません。それでパウロは20節にあるようにユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためでした。
 そして21節にあるように、律法を持たない人々に対しては、──パウロは神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためでした。
 さらに22節にあるように、弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
 ここからパウロが福音の伝道に掛ける情熱が伝わって来ます。パウロは命を掛けて福音を伝道しています。

おわりに
 最後に、23節をご一緒にお読みしましょう。

9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 何でもそうですが、人に何かを伝えるには、そのことをよく理解する必要があります。例えば私は30代の半ばで日本語教師になりました。それまでの私は日本語についてあまり分かっていませんでしたが、日本語を外国人に教えることで、以前の私よりも日本語のことがわかるようになりました。福音もまた同じです。福音は、人に伝道することで、ますます深くわかるようになります。そうしてますます福音の恵みを受けられる者になります。私たちは福音を伝道することを通じて、福音の恵みをいただけますから、とても感謝なことです。
 この素晴らしい恵みを、私たちの教会員の全員で共有したいと思います。
 そのことのために、お祈りいたしましょう。
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