インマヌエル沼津キリスト教会

十字架から二千年の2033年までに平和を
沼津市今沢34番地

ガラテヤでの宣教(2017.6.18 礼拝)

2017-06-19 15:33:46 | 礼拝メッセージ
2017年6月18日礼拝メッセージ
『ガラテヤでの宣教』
【使徒14:1~7】

はじめに
 『使徒の働き』の学びを続けます。きょうから14章に入ります。前回と前々回に学んだ13章の後半では、パウロたちはピシデヤのアンテオケにいました。ところが、そのアンテオケでパウロとバルナバは迫害に遭いました。13章50節には次のように書いてあります。

13:50 ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。

 それで二人はイコニオムへ行ったと51節にあります。そして52節に、

13:52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

とあります。この弟子たちというのはピシデヤのアンテオケで新たに加えられた弟子たちのことですね。弟子たちは聖霊に満たされていました。このようにパウロとバルナバの第一次伝道旅行は迫害などの苦難もありましたが、大変に祝されたものでもありました。

ガラテヤでの宣教
 そして14章に入ります。14章1節、

14:1 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。

 イコニオムでも、二人はユダヤ人の会堂に入りました。新しい町に入ると二人はまずユダヤ人の会堂に入りました。これが彼らの伝道のスタイルでした。そして、ユダヤ人もギリシヤ人も大勢の人々が信仰に入りました。しかし2節、

14:2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。

 パウロたちは、このイコニオムにおいてもユダヤ人たちの妨害に遭いました。それでも、3節、

14:3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。

 このイコニオムの町には長らく滞在したとあります。この長らくがどれくらいの期間かははっきりしませんが、パウロの活動の年表を見ると、せいぜい数ヶ月か長くても1年程度のようです。2年も3年もいたわけではありません。
 さて、この間に町の人々は4節にあるように二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者はパウロたちの側につきました。そして5節から7節、

14:5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、
14:6 ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
14:7 そこで福音の宣教を続けた。

 こうしてパウロのバルナバの二人はイコニオムを出て、ルステラとデルベへ行きました。ここで、後ろの地図を確認したいと思います。
 きょうの14章に出てきた地名のイコニオム、ルステラとデルベはいずれもガラテヤ地方にあることが地図で確認できます。
 そしてパウロの有名なガラテヤ人への手紙は、このガラテヤ地方の信徒たちに当てた手紙です。パウロとバルナバのこの第一次伝道旅行では、多くのガラテヤ人たちが信仰に入りました。しかし、パウロたちがこのガラテヤ地方を離れてから、短期間のうちにガラテヤ人たちの信仰が歪められていったことがパウロの耳に入りました。そのことにパウロが大変な危機感をもって書いた手紙がガラテヤ人への手紙です。

ガラテヤ人への手紙
 きょうの残りの時間は、このガラテヤ人への手紙をご一緒に見ることにしたいと思います。パウロの伝道旅行は、『使徒の働き』だけを読んでもそれなりに分かりますが、パウロの手紙も併せて読むことで、より一層深く理解できます。『使徒の働き』はルカが書き、パウロの手紙はパウロが書きました。ルカの記述は客観的でパウロの記述は主観的であると言えるでしょう。この両方の記事を併せて読むことで、私たちは当時の様子をかなり良く知ることができます。
 では、ガラテヤ人への手紙の1章(新約聖書p.363)を見ましょう。1節から5節までは穏やかな挨拶文ですが、6節に入って急に激しい調子に変わります。この変化の激しさを味わうために、1節から読むことにします。1節から6節までを交代で読みましょう。

1:1 使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──
1:2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。
1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。

 このように、5節までの穏やかな調子が6節では一転して激しい調子になります。先ほど使徒の働きの14章で見たように、ガラテヤ地方でも多くの人々が信仰に入りました。しかし、パウロとバルナバがガラテヤ地方を離れてから間もなく、ガラテヤ人たちはほかの福音に移っていってしまいました。続いて7節をお読みします。

1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

 ここでパウロが書いた「あなたがたをかき乱す者たち」というのは、いわゆる「割礼派」と呼ばれるユダヤ人たちです。この割礼派のユダヤ人たちもまたイエス・キリストを信じるクリスチャンですが、イエス・キリストを信じるだけでは救われず、律法を守って割礼を受けなければ救われないと主張していました。ユダヤ人は生まれてから八日目に割礼すべきことが律法(レビ記12:3)に書いてありますから男子なら皆、割礼を受けていますが、異邦人は律法を守る習慣がありませんから割礼を受けていません。そこで異邦人がイエス・キリストを信じた場合には割礼も受けなければならないと割礼派のユダヤ人たちは主張しました。
 しかしパウロは、それは福音に反することだ、イエス・キリストを信じる信仰のみで人は救われるのだと確信していました。それで8節、

1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

 そのような福音に反することを宣べ伝える割礼派の者は「のろわれるべき」だとパウロは強い調子で批判しました。そして9節で、もう一度同じことを繰り返して書きます。9節、

1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

 「その者はのろわれるべきです」を二度も繰り返すところに、パウロの激しい怒りがよく表れていると思います。

天動説と地動説ほどの大きな違い
 ただし、割礼派のユダヤ人たちの立場になって考えてみると、彼らにとってはこれが当たり前のことだと言えるでしょう。ユダヤ人たちは、モーセの律法を守るのが当たり前という環境で生まれ育ちました。神との正しい関係を築くには、何はさておきモーセの律法を守るべきという考え方が骨の髄まで沁み込んでいました。ですから、割礼派の人々にとっては、モーセの律法を守らなくても人が救われるなどというパウロの主張は天動説と地動説ぐらいに大きな違いで受け入れられないのは当然であっただろうと思います。
 割礼派の人々は天動説の支持者のような者です。生まれて物心が付いた時から太陽が動いている様子を毎日見て育っていますから、天のほうが動いているのが当たり前です。大地のほうが動いて太陽の周りを回っているなどまったく荒唐無稽な話で信じられるわけがありません。
 パウロはその地動説のようなことを主張していました。それゆえユダヤ人たちから迫害されていました。ガリレオ・ガリレイなど地動説を主張した者たちは教会から迫害を受けましたから、とてもよく似ていると思います。
 パウロが、異邦人は割礼を受けなくてもイエス・キリストを信じる信仰だけで救われると確信していたのは、ペテロが見たのと同じように、イエスを信じた異邦人たちに聖霊が降る様子を見たからでしょう。パウロは聖霊に満たされていましたから、聖霊の働きがよくわかりました。割礼を受けても聖霊が注がれることはありませんが、イエス・キリストを信じれば聖霊が注がれます。ですから、この二つには明確な違いがあります。

御霊に頻繁に言及するパウロ
 パウロは聖霊の働きがいかに重要かがよくわかっていましたから、ほとんどの手紙で聖霊(御霊)に言及しています。ガラテヤ人への手紙にも御霊についての記述がたくさんあります。いくつかピックアップします。

4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 そして最後に、御霊ということばは使われていませんが、6章15節をお読みします。

6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

 これまでの慣習に囚われて縛られていると大事なことがわからなくなります。大事なのは新しい創造です。御霊はそのことを気付かせて下さいます。

霊的なイエスをも描く『ヨハネの福音書』
 今月出版した本の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」の帯に私は、「戦災の廃墟の前で涙を流すイエス」という文を用いました。ヨハネの福音書11章のラザロの死を悲しむ場面ではエルサレムの滅亡を悲しむイエスさまの姿が霊的に見えて来ます。これも従来のヨハネの福音書の読み方からしたら天動説と地動説ほどの違いがあると言えるかもしれません。これまで誰もがヨハネの福音書に描かれているのは人間としてのイエスさまだけだと思っていました。しかし実は預言者たちはクリスチャンの内に住む霊的なイエスさまの姿もヨハネの福音書では描かれています。
 天動説に慣れ親しんだ人たちには、このヨハネの福音書の地動説は簡単には受け入れられないようです。ですから、急に状況が変わることはないかもしれません。それでも、少しずつでも変わっていってほしいと願っています。そうすれば、いずれは世の中が大きく変わって行き、平和な世界へと近づいていくことでしょう。その過程においてキリスト教を取り巻く厳しい状況も自ずと改善されていきます。
 パウロは困難な目に遭いながらも、力強く宣教の働きを進めて行きました。ですから私たちも困難にめげずに力強く進んで行きたいと思います。この働きは皆さんのご協力がなければ、とうてい為し得ませんから、ご一緒に進んで行きたいと思います。

おわりに
 再確認しておきますが、私たちが取り組んでいることは、天動説から地動説への変わり目に匹敵する大きな働きです。今は悪い時代の中にありますが、この働きが進むことでよい時代へと大きく変わって行きます。この大きな働きは私たちが御霊によって一つになることで初めて成し遂げることができることです。
 ですから、私たちは御霊の一致を保って進んで行きましょう。
 お祈りいたしましょう。
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