インマヌエル沼津キリスト教会

心に「聖霊の光」を灯す教会です
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現代のバベルの塔(2016.10.19 祈り会)

2016-10-19 21:27:11 | 祈り会メッセージ
2016年10月19日祈り会メッセージ
『現代のバベルの塔』
【ヘブル11:7~8、創世記11:1~9】

はじめに
 先週と今週は、ノアとアブラハムの間の箇所を見ることにしています。ですから、きょうもヘブル書11章の箇所は7節と8節です。7節はノアの箇所で、8節はアブラハムの箇所です。交代で読みましょう。

11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 イスラエルの歴史はアブラハムから始まりました。そしてアブラハムの孫のヤコブの十二人の息子たちがイスラエル十二部族の祖先になりました。ヤコブの家族たちはカナンの地がききんで食べる物に困った時にエジプトに移住して、そのまま住み着きました。そしてエジプトの地でイスラエル人たちは、おびただしく増えました。そのイスラエル人たちを神はモーセをリーダーにしてエジプトから脱出させて約束の地のカナンに向かわせました。そして、その途中のシナイ山のふもとで律法を授けて、皆が律法を守ることで一つになり、神と共に歩むことができるようにして下さいました。
 しかし、人々は神と共に歩むことが下手で、神様から離れてばかりいました。そこで神は今度はイエス・キリストを遣わして十字架に掛け、イエスが死んでから三日後によみがえらせました。そして、このイエスを信じるなら聖霊を受けて、御霊によって人々が一つになることができるようにして下さいました。
 アブラハムの物語は、このイスラエルの長い物語の始まりです。神様は私たちが一つになることができるように、まずアブラハムから始めて、イエスさまを十字架に掛けました。しかし、アブラハムの前に人類は一度、ノアの洪水によって滅ぼされています。そしてノアの家族だけが残りました。ですから人類はノアの子孫たちです。
 そういうわけで、ノアの家族が一つになっていれば、神様はアブラハムに始まってイエスさまの十字架に至るイスラエルの歴史を開始させる必要は無かったわけです。しかし、ノアの家族は一つになってはいませんでした。そのことを先週見ました。もう一度、見ておきたいと思います。創世記9章の21節と22節をお読みします。

9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

 このようにノアの息子のハムは父を尊敬していませんでしたから、ノアの家族は一つになっていませんでした。

神の領域に届く塔の建設を企てた人々
 そして、きょう見るのがバベルの塔の箇所です。創世記11章の1節から9節までを交代で読みましょう。

11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 奇妙なことですが、人は神様の下では一つになることができないのに、このようにバベルの塔を建設して神の領域に達しようとする企ての時には、一つになろうとするのですね。神のように偉くなりたいという欲望のもとでは一つになりたがることは、非常に危険なことです。それで神様は人々のことばを混乱させ、彼らを世界中に散らせることにしました。そうしてアブラハムから始めてイエスさまに至るまで、もう一度、一つになることをやり直させることにしました。

現代のバベルの塔
 さて、きょうバベルの塔の箇所を読んだ、この機会に、いま私が「現代のバベルの塔」として危惧していることを話したいと思います。それは科学研究のあり方です。今年のノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大隅先生が記者会見の席で話していましたが、いま研究の現場では基礎研究が非常にしづらい環境になっているということです。私もかつては大学で研究の現場にいましたから、そのことはよくわかります。
 しかし、私が研究の現場から離れてもう8年以上が経ってしまいました。そして、今の状況は8年前の状況よりも、もっと悪くなっているようです。どんな研究にでも使っても良い研究費がどんどん削られて、短期で成果を上げることが重視される競争資金の獲得が重視される傾向が益々強まっているようです。
 このための研究資金を獲得するために、自分はこういう研究をして、3年ないし5年以内にこれだけの成果を挙げますという研究計画書を提出するわけですね。こうして研究計画を作成して資金を得なければ、研究がほとんどできないということになってしまっているようです。
 これは、後で話すことに比べれば、まだマシだと思いますが、それでも良くない点があります。それは自由な発想に基づいた研究がやりづらくなるということです。短期に成果を挙げる目標ばかり見据えていると、研究の過程で思い掛けない発見があっても多くの場合、見逃してしまうことでしょう。
 そして信仰との関係で言えば、神様の語り掛けを聞き逃すということにもつながります。
 神様は信仰を持っていない者に対しても、いつも語り掛けています。そうして人を信仰に導こうとしています。私自身も、まだ信仰を持っていなかった時から神様は語り掛けていて下さり、そうして教会に辿り着きました。この経験から、私は神様はすべての研究者に対しても語り掛けを常に行っていると確信しています。そうして、一人一人の研究者を信仰に導くと同時に、人類にとって有用な研究テーマへも導きます。
 短期で成果を挙げるタイプの研究が重視されると、この神様の語り掛けが聞こえにくくなってしまいます。それでも、自分で研究テーマを自由に考えて研究計画を申請するタイプの研究は、まだマシだろうと思います。私が危惧するのは、文部科学省や経済産業省が旗振り役になって、たとえば人工知能の研究をすれば研究資金を潤沢に提供しますよ、というタイプの研究です。
 もちろん、このタイプの研究も必要ですし、人工知能の研究と言っても多岐にわたりますから、その中で自由に発想する余地はあります。しかし、それに全くの自由から比べると、やはり大きな制限があります。これこそが私が「現代のバベルの塔」として危惧していることです。特に人工知能の研究はバベルの塔に非常に近いと私は感じています。こうして人は、神様の語り掛けに対して、どんどん鈍感になって行きます。

霊的な領域の深層部に鈍感な私たち
 最後にヨハネの福音書の11章を開きたいと思います。既に何度も話していますが、今後、私はこの箇所について、繰り返し取り上げることになるだろうと思っています。
 ヨハネ11章の32節から35節までを交代で読みましょう。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。

 これはイエスさまがラザロの墓に向かう途中で涙を流した場面です。
 イエスさまはラザロを深く愛していました。しかし、ここでイエスさまが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたことに私たちは尋常ではない何かを感じ取らなければなりせん。ラザロの死だけではない何かがここにはあります。このイエスさまの「霊の憤り」には私たち読者の魂を揺さぶる力があります。ですから私たちはこの場面の表層だけを見るのではなく、深層部にまで思いを巡らせなければなりません。
 もう、何度も繰り返し話して来たことですが、ここでイエスさまが愛していたラザロとは、イエスさまが深く愛していたエルサレムのことでもあります。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって滅亡してしまいました。この11章の表層部の下にある深層部にエルサレムの滅亡があることは、前後の関係から明らかです。
 このことに私たちは、これまで気付かずに来ました。昔の人々が気付かなかったのは仕方のないことだろうと思います。文字を読むことが出来る人はわずかであり、その中でも聖書を実際に手に取って、じっくり読むことができた人はもっと限られていたからです。しかし、現代においては文字を読めない人は少なくなりました。そして聖書も手軽に持つことができるようになりました。それゆえ莫大な数の人々が聖書に接しています。それなのにヨハネ11章の深層部にエルサレムの滅亡が隠されていることに気付かれていません。そればかりでなく、私が指摘しても、まだこのことの重大さに気付きません。
 これは一体どういうことなのか、私にはよくわかりません。そして人工知能による支配が加速されて行った時、いったいどうなってしまうだろうかと私は非常に危惧を感じています。その時には神様は介入されるのだと思いますが、その前に神様は手を打って下さっているのかもしれません。

おわりに
 いずれにしても、バベルの塔の話は大昔の話ではなく、現代の話でもあるということを指摘しておきたいと思います。先日の礼拝でもノアの箱舟の話は大昔の話ではなく、現代の話でもあると話しました。神様はこうして聖書を通して私たちに警告を与えて下さっています。
 私たちはこの神様の御声をしっかりと聞くことができる者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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