平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

終わりの日(2015.4.22 祈り会)

2015-04-23 08:51:27 | 祈り会メッセージ
2015年4月22日祈り会メッセージ
『終わりの日』
【イザヤ2:1~11】

2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも【主】の光に歩もう。
2:6 まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らがペリシテ人のように東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。
2:7 その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。
2:8 その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。
2:9 こうして人はかがめられ、人間は低くされた。──彼らをお赦しにならないように。──
2:10 岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。【主】の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。
2:11 その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、【主】おひとりだけが高められる。

「終わりの日」の前兆
 イザヤ書の2章には、イザヤが見た「終わりの日」の情景が淡々とつづられています。3節と4節は平和に満ちた様子が描かれています。
 この「終わりの日」というのは、私たちにとってはイエス・キリストが再臨する日のことです。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書には、この「終わりの日」の前兆として何が起きるのか、主イエスご自身が語った言葉が書かれています。私たちは聖書を読む会でマルコを学んでいますから、マルコを見てみましょう。マルコ13章の全体に、「終わりの日」の前兆が書かれています。ここを交代で読みたいと思いますが、少し長いので、途中は飛ばすことにしたいと思います。まず、1節から10節までを交代で読みましょう。

13:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
13:3 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。
13:4 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」
13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
13:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。
13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。

 続いて、28節から37節までを交代で読みましょう。

13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。
13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。
13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。
13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。
13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

 32節にあるように、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」ということですから、イエスさまご自身でさえ知りません。
 この再臨の日がいつなのか、もう明日にでも来るのか、或いはそれほど切迫していないのか、このことについては人によって考え方には随分と幅があります。今の不穏な時代を見ていると本当に切迫していると見る人もいますし、その日は夜中の盗人のように来る(Ⅰテサ5:2、Ⅱペテ3:10)のだから、「来るぞ、来るぞ」と言って警戒している間は来なくて、警戒を解いた時に来るのだという人もいます。

ヨハネの福音書に基づく「終わりの日」
 私自身の立場は、ヨハネの永遠観に基づいていますから、明日でも百年後でも千年後でも全部同じで「今がその時だ」という立場です。ヨハネの福音書には「さばきの日」のことが書いてありますが、その前兆については何も書いてなく、「今がその時です」と書いてあります。ちょっと、そこも読んでみましょう。ヨハネの福音書の5章の24節から29節までです。

5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
5:27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 私の立場をさらに付け加えるなら、多くの者が、このヨハネの永遠観に慣れ親しむようになるまでは、「終わりの日」は来ないのではないかと考えています。もちろん、その日がいつなのかは誰もわからないことですから、私のこの考え方は間違っているかもしれません。しかし、「終わりの日」の前兆のようなことは、これまでにも数え切れないほどたくさんありました。
 紀元1世紀だけに限っても、ペテロ・パウロたちが迫害によって殉教し、紀元70年にはエルサレムがローマ軍の攻撃によって炎上し、神殿も崩壊して廃墟になってしまいました。また79年にはイタリアのポンペイが火山の噴火の火砕流によって埋没してしまうという大災害がありました。これらは皆、「終わりの日」の前兆として捉えられ、明日にでも主の再臨があると多くの人々は思ったのではないかと思います。しかし、再臨はありませんでした。
 ヨハネの福音書は1世紀の末に書かれたと考えられます。ヨハネの福音書がなぜ書かれたのか、いろいろなことが考えられますが、私はその一つとして、マタイ・マルコ・ルカで警告されていた前兆が起こっているのに、再臨は無かったじゃないか、ということに答える意味もあったのではないかなと思います。再臨は明日とか百年後とか千年後とかの話ではなく、「今がその時」なのだということです。
 少し前の20世紀にも前兆と思われることは多く起こりました。第一次世界大戦があり、第二次世界大戦があり、広島・長崎への原爆投下を経て、朝鮮戦争やキューバ危機など、いつ核戦争になってもおかしくない事態の中に20世紀後半はありました。
 21世紀に入ってからも9.11の同時多発テロやインドネシアの大津波、日本の東日本大震災、最近のIS、「イスラム国」の台頭、日本が平和憲法を改正しようとする動きなど、再臨の前兆と思えるような不穏な事態はたくさんあります。
 私は、この先、世界がどんなに悪い方向に進もうとも、ヨハネの永遠観が理解されない限りは主の再臨はないだろうと思っています。1世紀に数々の前兆と思われることがあっても再臨はありませんでした。そしてヨハネの福音書が書かれましたが、人々はヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの福音書の延長線上で理解しようとしましたから、ヨハネの永遠観は理解されていません。私はヨハネの永遠観が理解されない限りは、再臨は無いだろうと思っています。

主は一人でも滅びることを望んでおられない
 繰り返しますが、再臨がいつなのかは誰も知らないことですから、私は間違っているかもしれません。しかし、私がそう思うのは、もう一つ根拠となるみことばがあります。ペテロの手紙第二3章9節です(新約聖書p.463)。ご一緒に読みましょう。

3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 主は一人でも滅びることを望んでおられません。ヨハネの福音書でイエス・キリストは私たちが一つになることができるように祈って下さっていますが、主の民は分裂を続けています。
 ユダヤ教とキリスト教がたもとを分かち、キリスト教は東方と西方とに分裂し、西方教会はカトリックとプロテスタントに分裂し、プロテスタントはさらに細分化しています。このように分裂を繰り返していて、再臨があるでしょうか。第二ペテロ3:9の「すべての人が悔い改めに進む」の「悔い改め」には、「分裂し続けていること」への悔い改めも含まれているのだと思います。

おわりに
 最後に、もう一度イザヤ2章に戻りましょう。私たちは分裂し続けるのではなく、一つになる方向に進んで行く時に、「終わりの日」は来るのだと思います。イザヤ2章の2節と3節を交代で読みましょう。2節に、「すべての国々がそこに流れて来る」とあります。このように世界は一つにならなければなりません。2節と3節を交代で読みます。

2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
 
 お祈りしましょう。
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