平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

愛が欠落していた伝道者(2014.9.24 祈り会)

2014-09-24 11:37:50 | 祈り会メッセージ
2014年9月24日祈り会メッセージ
『愛が欠落していた伝道者』
【伝道者2:18~26】

はじめに
 きょうは伝道者の書の2章の残りの部分をご一緒に見ます。
 先週は伝道者の書の前半の部分を見るとともに、ルカの福音書11章の金持ちの農夫の例え話の箇所も、ご一緒に見ました。ある金持ちの畑が豊作だったので作物を蓄える場所がありませんでした。そこで、この金持ちはもっと大きな倉を建てることにして、自分の魂にこう言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。しかし神は彼に言いました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」そうしてイエスさまは最後に、こう付け加えました。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこの通りです。」
 伝道者の場合には、このことの空しさを良く知っていました。金持ちの農夫は、これから先何年も安心して食べて飲むことができることにワクワクしていましたが、伝道者は既にあらゆる楽しみを味わい尽くしていましたから、それが空しいことであることを知っていました。それから先週はまた、伝道者は愚かな者をさげすむ傾向があることも指摘しました。伝道者は愚かな者と一緒に楽しむことを知らず、愚かな者と同じ結末に行き着くことを嘆き、空しさを感じていました。伝道者のこのような傾向は、放蕩息子の兄と似ているようにも思います。

他の書との比較で見えてくる伝道者の姿
 先週、このようにルカの福音書を引用してみて、伝道者の書の書は、この書を単独で眺め回すよりも聖書の他の書と比較することで、伝道者の姿が一層クッキリと見えて来るようになることに気付きました。ですから、きょうも聖書の他の書を引用することにします。きょう引用するのも、やはりルカの福音書です。
 その前に、きょうの伝道者の書の箇所の始めのほうを見ておきたいと思います。きょうの箇所では伝道者は次のように嘆いています。2章の18節と19節、

2:18 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。
2:19 後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

さらに21節、

2:21 どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。


 ここで伝道者は、自分が知恵を使って築いて来た物事を、後継者に譲ることの空しさを嘆いています。このような伝道者の姿を、きょうは放蕩息子の父親の姿と比べてみたいと思います。

放蕩息子の父親との比較
 ルカの福音書15章ですね(新約聖書p.147)。ルカ15章の11節と12節、

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

 ここで放蕩息子の父親は自分の後継者の二人の息子に財産をあっさりと分けてあげました。伝道者がブツブツ言っているのと比べると、随分と違いますね。また、放蕩息子が財産を使い果たして一文無しになって帰って来た時に、父親が息子をどのように迎えたのか、皆さんの多くが良くご存知の箇所ですが、改めて味わってみたいと思います。ルカ15章の20節から24節までを交代で読みましょう。

15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 父親は、自分が分け与えた財産を使い果たして帰って来た息子を叱らなかったばかりか、祝宴を始めて祝福しました。父親は、この世の財産に対しては全く淡白です。伝道者がこの世のことに執着しているのとは全く180度異なると言って良いでしょう。すると、伝道者に欠落しているものが段々と見えて来ます。放蕩息子の父親には大きな愛がありましたが、伝道者にはこのような愛が欠落しているように見えます。

愛が欠落していた伝道者
 父親は愚かな弟息子のことを愛しており、また愚かな兄息子のことも愛していました。15章31節で父親は兄息子にこのように言いました。

「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」

 兄息子は弟息子の帰郷の祝宴に加わることができない狭い心の持ち主でしたが、父親はこのように愚かな兄息子のことも愛しており、「私のものは、全部おまえのものだ」と兄息子に言いました。伝道者にはこのような父親の愛が欠落しているように見えます。伝道者は神への信仰心は持っていましたが、神の豊かな愛を自分もまた身に付けるべきであるとは、全く考えていなかったようです。伝道者の書の2章に戻ります。24節から26節に掛けては、「神」ということばが4回も使われています。24節、

2:24 人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。

25節、

2:25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。

26節、

2:26 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。

 このように伝道者は何度も「神」に言及していますから、一応信仰心は持っています。しかし、最後には、またしても「これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」と言って嘆いています。

聖霊が注がれた者が持つべき愛
 伝道者には聖霊が注がれていなかったようですから、これは仕方のないことなのでしょう。しかし、イエス・キリストを信じれば聖霊が注がれる新約の時代の私たちは、キリストに似た者へと変わって行くことが求められますから、神の愛も身に付けていかなければなりません。そうして神の愛を分け与えることができる者へとなって行かなければなりません。
 ヘンリ・ナウエンが書いた『放蕩息子の帰郷』という本には、レンブラントが描いた絵画の『放蕩息子の帰郷』を観たナウエンが思い巡らしことの、心の遍歴が克明に記されています。ナウエンは先ず、自分は弟息子だと思っていました。しかし、ある時、人から「あなたはむしろ兄息子に似ているのではないですか?」と指摘されて、以来、ナウエンは自分は兄息子だと思うようになりました。そんなある日、ナウエンにこう言った友人がいました。「あなたが弟息子であろうが兄息子であろうが、父となるように召されていることに気づくべきです。」
 ナウエンはカトリックの司祭でしたから、なおさら父となるように召されていました。ナウエンの友人はこのことをナウエンに指摘したのだと思います。私についても同様だと思います。キリスト教の伝道者は皆、放蕩息子の父親のような愛を持つように召されているのだと思います。しかし私は、それは伝道者に限らず、クリスチャンの皆が父になるように召されているのだと考えます。それは先ほども言ったように、私たちはキリストに似た者に変わって行かなければならないからです。聖霊が注がれた者は、御霊に導かれて生きるようになり、そのことにより御霊の実を自身の内に実らせるようになります。そうして、キリストに似た者にされて行きます。旧約の時代の伝道者の書の伝道者には聖霊が注がれていなかったようですから、このような御霊の実が実っていなかったと言えるのだと思います。

おわりに
 最後に、ガラテヤ5章の22節から26節までを交代で読んでメッセージを閉じることにします。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

 お祈りいたしましょう。
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