平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

聖霊と時間(2014.5.25 礼拝)

2014-05-26 09:32:00 | 礼拝メッセージ
2014年5月25日礼拝メッセージ
『聖霊と時間』
【Ⅰヨハネ4:7~17】

はじめに
 いま私たちはイースターとペンテコステの間の期間の中を歩んでいます。イースターの50日後がペンテコステの日ですので、日本語では五旬節と言います。ペンテコステというのはギリシャ語です。ギリシャ語のペンテは5つという意味です。アメリカの国防総省の建物は五角形をしているのでペンタゴンと呼ばれることをご存知の方も多いと思います。このようにペンテ・ペンタは数の5の意味を持ちます。そして50のギリシャ語はペンテーコスタで、私たちは五旬節のことをペンテコステと言っていますが、ギリシャ語の綴りをよくよく見てみると、ペンテーコステー(πεντηκοστη)と伸ばすようです。しかし私たちはペンテーコステーではなくペンテコステといつも言っていますから、これからもそのように言うことにしたいと思います。
 イエス・キリストは復活してから四十日間弟子たちに教えてから天に上り、50日目に天から聖霊を弟子たちに注ぎました。イエスさまは聖霊についてヨハネの福音書では、弟子たちに次のように教えています(週報p.3)。

「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 聖霊は天の父がイエス・キリストの名によって遣わされ、私たちの内に入ります。新約の恵みの中を生きる私たちは、イエス・キリストを信じれば誰でも、この聖霊の恵みに与ることができます。しかし、どうも私たちは、この聖霊の恵みのことがあまり良くわかっていないような気がします。そこで、ペンテコステを前にして、きょうは聖霊について、もう少し学びを深めることにしたいと思います。まず聖霊について聖書にはっきりと書いてあることや一般的に言われていることについて述べ、その次にきょうのタイトルである「聖霊と時間」について述べることにします。
 この聖霊と時間との関係は、これまであまり言われていないことだと思いますが、私たちが感じている時間と聖霊の働きとの関係がわかると、聖霊の理解が一層深まることと思います。

多彩な働きをする聖霊
 それでは、まず聖霊に関して一般的に言われている事柄から話を始めたいと思います。
 私たちクリスチャンが信じている神は、父・御子・御霊の三位一体の神です。父・御子・御霊の御霊が聖霊のことです。私たちは父を信じ、御子を信じ、聖霊を信じることを毎週の礼拝の使徒信条を通じても告白しています。
 私たちは、御子イエスと天の父のことは、比較的よく知っているでしょう。御子イエスのことは福音書に書いてありますし、天の父のことは旧約聖書を読めば、わかるようになります。しかし、聖霊については、なかなかイメージが掴みにくいのではないかと思います。私が高津教会の一般信徒だった時も、聖霊についてはあまりわかっていませんでした。しかし神学院に入り、牧師になって、聖霊のことがだいぶわかるようになった気がします。
 そうしてわかったことは、聖霊のことがわかるようになると、御父と御子のことも、もっと良くわかるようになるということです。そこに三位一体の深い味わいがあると思います。味わいとか言うと何となく不謹慎かもしれませんが、やはりキリスト教の恵みは三位一体の神を知ってこその恵みだと、最近私は、しみじみ思います。イエス・キリストを信じないで聖書のことを論じる人たちはたくさんいますが、イエス・キリストを信じない者には聖霊が注がれませんから、三位一体の神のことは決してわかりません。三位一体の神をわからずに聖書を論じても、ひどく空しいだけだと私は思います。そういうのを、「空の空」(伝道者1:2)と言うのではないかと思います。
 さきほど引用したヨハネの福音書のイエス・キリストのことばをもう一度引用すると、イエスは弟子たちに、このように言いました。

「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 ですから、聖霊が私たちの内に入らない限り、私たちはイエス・キリストの教えについて理解することは不可能です。
 聖霊が私たちの内に入ることで私たちはイエス・キリストのことがわかるようになります。ですから聖霊が注がれないなら私たちはイエス・キリストの証人になることができません。使徒の働き1章8節でイエスさまは次のように弟子たちに言いました(週報p.3)

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 こうして、聖霊が注がれた者にはイエス・キリストの証人、証し人になる力が与えられます。そしてまた、聖霊が注がれることで私たちには、御霊の実が与えられます。御霊の実のことは、ガラテヤ人への手紙5章に書いてあります(週報p.3)

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22,23)

 聖霊が私たちの内に入ると私たちは段々とイエス・キリストに似た者に変えられて行きますから、このような愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の心が育って行くのですね。これらの心が育つ成長の速度は人によって様々だと思いますが、私たちの内に聖霊が住んでいて下さるなら、私たちは確実に成長して行くことができるでしょう。
 このように、聖霊の働きは一言では言い表すことができないくらいに多彩です。聖霊はイエス・キリストが話したすべてのことを私たちに教え、私たちがイエス・キリストの証人になる力を与え、そして御霊の実によって私たちはキリストに似た者へと変えられて行きます。

時間の感覚への聖霊の働き
 以上のことは、一般的に良く言われていることですから、これらのことを知識として知っている方は多いだろうと思います。しかし、知識として知っていても、どうも今ひとつ実感できていないという方もおられるのではないでしょうか。これらの聖霊の働きが私たちの内にも働いているのですよと言われても、知識としては理解できても、聖霊が自分の内で働いていることを今ひとつ実感できていない方もおられるのではないでしょうか。
 なぜ、今一つ実感できないのか、その原因の一つとして、私は今日のタイトルとして掲げた「聖霊と時間」についての説明が、これまで十分に為されて来なかったからではないかと考えるようになりました。
 「聖霊と時間」とは、早く言えば「永遠観」のことです。これまで私は、しつこく「永遠」について語って来ましたが、永遠については、人それぞれにイメージがあって、どうも私が思い描く「永遠」が十分に伝わっていなかったようです。そこで、いったん「永遠」という言葉はなるべく使わないようにして、もう少し別の言葉で説明するようにしようと思います。そうして皆さんが慣れて来て下さった頃に、実はこれこそが私が言い続けて来た「永遠」のことですよ、と言うことにしてみようかと思います。

 では、ここから「聖霊と時間」について説明して行きます。
 先ほど、聖霊の働きについていくつかの例を挙げましたね。それらに加えて聖霊は私たちの時間の感覚にも働き掛けます。聖霊が働いていると私たちは、たとえ昔のことであっても最近のことのように感じるようになります。
 たとえば、私たちは福音書のイエスさまのことを、とても身近な存在に感じますが、それは聖霊が私たちの内で働いているからです。ですから、聖霊が内に入っていない人にとっては、私たちがイエスのことを親しみを込めて「イエス様」と、「様」を付けて呼ぶことは理解不能でしょう。クリスチャンではない方々から見れば、2千年前の人物であるイエスのことをクリスチャンが「イエス様」と言っていることを、とても不思議に感じることでしょう。
 また、さきほど使徒の働きの1章8節(週報p.3)をお読みしましたが、この、

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

というイエス・キリストのことばも、聖霊が内に入っていない人にとっては2千年前の古いことばに過ぎませんが、聖霊が内に入っている私たちは、このことばは現代の私たちに向けられたことばであると感じ、ユダヤやサマリヤということばも、沼津や静岡や日本ということばに自動的に変換して受け取ります。
 このように昔のことを身近に感じることは2千年前の弟子たちも、もちろん経験していました。弟子たちは彼らが生きていた時代よりもずっと以前に書かれた旧約聖書を、とても身近なこととして感じていました。それは弟子たちに聖霊が注がれていたからですね。例えば弟子たちは、きょうの聖書交読で読んだイザヤ書53章のしもべを、イエス・キリストの姿に重ねていました。同じ2千年前の人々でも、イエスを信じないユダヤ人たちにとっては、イザヤ書53章のしもべはイエスとは全く無関係の人物ですが、弟子たちにとっては、このイザヤ書のしもべはイエス・キリストその人でした。
 そして弟子たちは、モーセの時代にイスラエルの民がエジプトを脱出した時の過越の出来事を、イエス・キリストの十字架の出来事と重ねました。モーセがエジプトの王に、自分たちがエジプトから出て行くことを願い出た時、エジプトの王は許しませんでした。そこで神はエジプト全土の初子を打ちました。王の子供も、庶民の子供も、家畜の子供も、エジプトにいるすべての初子を打ちました。しかし、イスラエル人たちは家の門柱とかもいに羊の血を塗り付けていましたから、神はイスラエル人の家の門は過ぎ越して行って、子供を打つことをしませんでした。このことに懲りたエジプトの王は、イスラエルの民がエジプトから出て行くことを許しました。こうしてイスラエルの民は奴隷状態から解放されました。エジプトの奴隷であったイスラエル人たちは羊をいけにえとして、そのいけにえの羊の血を家の門柱に塗ることで救われました。この過越の出来事をイエスの弟子たちは十字架と重ねました。十字架で流されたイエス・キリストの血は、罪の奴隷となっている人々を救ったため、イエス・キリストは過越の羊であったのだと理解しました。
 このように2千年前の弟子たちがモーセの時代やイザヤの時代やイエスの時代を、時間を越えて、すべて身近に感じていたのは、弟子たちに聖霊が注がれていたからですね。そうして現代においてイエス・キリストを信じる私たちにも聖霊が注がれていますから、私たちもモーセやイザヤやイエスの時代、そして使徒の時代のことも、すべて身近に感じることができます。

神の愛を感じる恵みも聖霊の働き
 このように聖霊が注がれている者は、イエス・キリストの十字架もとても身近なこととして感じ、そこに神の大きな愛を感じます。きょうの聖書箇所のヨハネの手紙第一の4章も、これまで話した私たちの時間の感覚への聖霊の働きを前提にして読むべきでしょう。このヨハネの手紙第一4章には神の愛のことが書かれています。聖霊が注がれている者にとっては、この箇所から素晴らしい神の愛の恵みを感じることができると思いますが、聖書を古い書物と感じている聖霊が注がれていない方々にとっては、聖書から神の愛を感じることは難しいであろうと思います。
 では、きょうの聖書箇所のヨハネの手紙第一4章の7節から17節までを見て行きましょう。まず、7節と8節を交代で読みましょう。

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

 8節でヨハネは「神は愛だ」と言っています。そして、それがどういうことなのか、次の9節と10節で明らかにしています。9節と10節を交代で読みます。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 これはもちろん十字架のことですね。神様は十字架によって私たちに愛を示して下さいました。このような愛は、聖霊が内に注がれていて初めてわかることでしょう。続いて11節から12節を交代で読みます。

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 ここからわかることは、神はただ単に私たちの罪を赦し、いのちを与えるために御子を十字架に付けたのではなく、私たちが互いに愛し合うことができるようにもなるよう、愛を示して下さったということです。ですから私たちは互いに憎しみ合ったりするのでなく、互いにに愛し合わなければなりません。続いて13節と14節を交代で読みます。

4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

 13節にあるように、神は私たちに御霊を与えて下さいました。このことによって私たちにはパウロがガラテヤ書に書いたように御霊の実が与えられています。パウロは、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と書きました。ですから、私たちは互いに愛し合うことができるはずです。また、御霊によって私たちはイエス・キリストの証人となる力が与えられていますから、14節にあるように私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。今この証をしているのは2千年前の弟子たちでもあり、現代の私たちでもあります。

時間を越える神の愛
 続いて15節から17節までを交代で読みます。17節は、ご一緒に読みましょう。

4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

 ここからわかることは、神の愛は時間を越えるということです。神の愛の内にあるなら、私たちは、将来のさばきの日を少しも恐れることなく、大胆でいることができます。なぜなら、私たちはこの世にあってキリストと同じような者であるからです。いま現在、神の愛の内にあってキリストと同じような者であるなら、最後の審判の時に、悪い方に裁かれるはずがありません。ですから私たちは現在にいながらにして、既に未来の神の国に入れられているのと同じです。それは2千年前の過去のイエス・キリストの十字架の出来事を信じているからですね。
 いま私は「未来」とか「現在」とか「過去」という言葉を使いましたが、それは聖霊が注がれていない人にとっての過去・現在・未来であって、神にとっては全てが現在ですから、神の愛の内にいる者にとっても、すべてが身近な現在の出来事になります。
 16節にあるように、私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
 神は時間を越えて存在し、神の愛もまた時間を越えて存在します。そして、その神の愛の内にいて神の愛を感じている私たちは、モーセの時代やイザヤの時代やイエス・キリストの時代に神がなさったことを全て身近なこととして感じることができます。
 神は愛です。このことがわかると、旧約聖書の記事も、より一層身近に感じることができると思います。神は人を愛していますが、人は神から離れようとします。それで神は怒りますが、怒るだけでは決してなく、憐みも掛けて下さいます。それは、最初の人のアダムとエバの時代からそうでした。最後に、創世記の3章を見て、終わることにしたいと思います。創世記3章の21節から24節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.5)。

3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 アダムとエバは、神が食べてはならないと命じた木の実を食べてしまいましたからエデンの園から追放されました。しかし、神はアダムとエバを追放する前に、21節にあるように、皮の衣を作って着せてくださいました。私はここに何とも言えない神の愛を感じます。神は怒っていましたが、ただ怒っていただけでなく、アダムとエバを憐み、愛していました。

おわりに
 こうして聖書には、始めから終わりまで神の愛がたっぷりと詰まっています。そして、聖霊が与えられている者には、この神の愛を、時間を越えて感じる特権が与えられています。これは素晴らしい恵みです。この恵みが与えられていることを私たちは感謝したく思いますし、まだこの恵みが与えられていない方々には、イエス・キリストを心の内に迎え入れることを、心よりお勧めしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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