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今年新約聖書を読むに当たって、大貫隆他編訳「新約聖書・ヘレニズム原典資料集」を参照しながら読んだ。そのはしがきにあるように、「新約聖書は虚空の中から生まれたのではなく、古代末期の地中海世界の政治史、思想史、宗教史の文脈の中で生まれてきた」。それで新約聖書本文と資料集を併せ読むうちに、聖書(今回は新約)は水面下に大きな部分が隠れている氷山の一角のように思えてきた。見える部分が水面下と全く異質なものでできているわけはなく、全貌についても、また表面に見える聖書という書物の素性についても理解が格段に進んだ。上記三つの文脈の中で理解に努めることは、真剣な研究を目指す者にとって避けて通ることのできないことである。

この度得られた新しい知識の一部を要約して記してみたい。

1. サマリヤ人が待望していたメシア。ヨハネ4:25でサマリヤの女が「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知って」いると答えている。私はこの女性の頭にあったのはユダヤ人が待望しているメシア(キリスト)と変わらないと思っていたが、サマリヤ文書「マルカーの教え」によると、サマリヤ人はエジプトにおける族長ヨセフの支配のような王国が再建されることを待望していた、メシア(キリスト)はそれを実現する「回復する人」(ターヘーブ)であると言う。やはりサマリヤ人はメシア待望の点でも独特の考えを持つ人たちだったのだ。
2. キリスト仮現論 (Docetism)。I ヨハネ 4:2-3, 5:6 で、イエス・キリストが水と血よって来られたこと(イエスの浸礼と十字架の受難を指す)を証ししない者が来る、と警告している。関連資料の中には、救済者(キリスト)自身は受難せず別の者が受難したのだとするペトロの黙示録、ヤコブの黙示録などが残っている。ヨハネの書簡がそういった反キリストを警戒する必要性に迫られて書いたことが参照された文書によって明らかになる。(仮現論についてインスティテュートの教科書「イエスと使徒たちの生涯と教え」1999年、p. 483にも言及がある)。
3. パリサイ人のもう一つの評価。一般にパリサイ人は細かい規則に厳格で、温かみに欠ける連中という印象があるが、ヨセフスの「ユダヤ古代誌」は別の姿を伝えている。「ファリサイ人は一般大衆に大きく訴えるものを持っており、その影響力は甚大で」「最高の理想を実践するファリサイ人に」市井の人々は大きな敬意を示していた、という(XVIII, 14-17)。
4. ストア派の夫婦論。エペソ5:22, 23 に「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。・・夫は妻の頭だからです」とあるが、ストア派の夫婦論に次のような文言があって、その並行の様子が注目に値する。「家にいてくれる妻は、・・大きな慰めである。」「夫と妻の間の絆以上に美しい家の飾りがあり得るだろうか。」「家の美しさとは、夫と妻が・・神々の前に聖なるものとされてつながって一対であること、互いに同じ思いですべてのことを一緒に行なうことである。妻とは担うに軽くて・・重荷を軽減してくれるものなのだ」(ストバイオス「詞華集」IV, 22, 24)。現代から見れば、古いあり方であり考えであるかもしれないが、エペソ書の響きを理解する一助になるのではないかと思う。
5. 「とげのあるむちをける」とは?パウロがキリスト教徒を迫害してダマスコに向かう途中、示現にあい「とげのあるむちをければ、傷を負うだけである」と言う声を耳にする。私はこの意味があまりよくわからないでいた。これは、馬を制御するむち(棒)で、たたかれるのを嫌がる馬が棒を自分から蹴るともっと痛い目にあう、という経験則からきていて、絶対的な強者が無知な弱者に対して言う言葉だという。エウリピデス「バッカイ」に「人間の分際で神を相手にまわし、腹立ちまぎれに棒を蹴とばして怪我をするより、私なら供物を捧げるのに」という文が紹介されている。これで私は、ひとつ謎が解けたような思いがしている。
6. 「上に立つ権威に従う」(ローマ13: 3, 4)。私はずっと妥協的な文言ではないかと思っていた。ここは熱い議論がさまざまに戦わされてきた個所であると言われる。大貫・筒井の原典資料集に次のような文が掲載されていて、おやっと思った。パウロと同時代人のプラトン派哲学者プルタルコスが評論集「モラリア」の中に次のように書いている。「支配者とか君主は人々の世話と保護を司る神の召使い(奉仕者)と言えば、この方がずっと真実をついている。彼らは神が与える贈り物を配分し、保護するのを任務とする。神々が授けてくれる恵みも法と正義と支配者がなければ、享受できない。・・支配者の行うことが法であり、彼らは万物を秩序立ててくれる神の似姿である。」(資料集p. 208, 09)。これが全てを説明してくれるとは思わないが、こんな見方があると大変参考になった。責任感のある優れた政治家や国の指導者は、このような側面を持っていて日夜務めてくれていることに気付かせてくれる。

実に、聖書は氷山の一角のように、読み解くには背後に承知しておくべき資料が山ほどひかえている文書なのだと思う。今後もヨセフスの残した資料やよく聞く外典・偽典、使徒教父の文書なども、参考書とともに少しずつでも読み続けていきたいと思っている。

聖書の世界について秦剛平が的確に表現している。「聖書の世界は正典文書からだけで成り立つものではなく、外典文書や、偽典文書、ヨセフスの著作などから成り立つものである。これらのものを隅から隅まで読んではじめて、聖書の世界が朧気ながらであっても、浮かび上がってくる。浮かび上がってはじめて、その世界を想像し理解することが可能となる。」(秦剛平「旧約外典偽典を読む:絵解きでわかる聖書の世界」青土社、2009年、p. 267)

参考:
・大貫隆、筒井賢治編訳「新約聖書・ヘレニズム原典資料」東京大学出版会、2013年。
・C.K.Barrett, “The New Testament Background: selected documents” Harper Torchbooks, 1956, 1961
・当ブログ 2015.01.09 「新約聖書の原典資料 - - 最善の教材



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コメント
 
 
 
Unknown (教会員R)
2015-12-29 13:10:45
1~5すべて知りませんでした。

聖書は権威ある情報源でしょうが、それだけではどうしても鍵穴から中を観察するようなものになるのは避けられないですね。

同じ対照を記述した別の資料は別の角度から本質を理解する助けになることは良くわかります。

本質を踏まえて聖書を理解するほうがより本当のイエス像に近づくことになると思います。

 
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