ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設11周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

何某の院の物語…『夕顔』(その1)

2017-07-01 03:22:31 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の『夕顔』は詞章が難解なうえに動きが少なく、難しい能のひとつではないかと思いますが、調べるほどに人生を見つめる作者の冷徹な目が感じられて。。ぬえは『夕顔』を臈たけた「大人の能」というイメージで捉えています。こういう能もあるんだな~

さて舞台に囃子方と地謡が着座するとすぐにワキが幕を上げて登場、それを笛が「名宣笛」と呼ばれる譜を吹いて彩ります。

ワキは所謂「着流し僧」で、従僧(ワキツレ)が通常二人、ワキに引き続いて登場しますが、ワキ方福王流ではワキツレは登場せず、「一人ワキ」という場合もあるようです。

ワキ「これは豊後の国より出でたる僧にて候。さても松浦箱崎の誓も勝れたるとは申せども。なほも名高き男山に参らんと思ひ。この程都に上りて候。今日もまた立ち出で仏閣に参らばやと思ひ候。

ワキツレを従えている場合はワキは舞台中央で名乗り、ワキツレは橋掛リに下居て控えます。一人ワキの場合は通常のように舞台常座で名乗りになり、以下の謡もずっと常座で謡います。次いで「サシ」という小段をワキが謡うと、橋掛リに控えていたワキツレも立ち上がって舞台に入り、ワキと向き合って三人で「道行」を謡います。

ワキ「たづね見る都に近き名所は。まづ名も高く聞えける。雲の林の夕日影。映ろふ方は秋草の。花紫の野を分けて。
ワキ/ワキツレ「賀茂の御社伏し拝み。賀茂の御社伏し拝み。糺の森もうち過ぎて。帰る宿りは在原の。月やあらぬとかこちける。五条あたりのあばら屋の。主も知らぬ所まで。尋ね訪ひてぞ暮しける 尋ね訪ひてぞ暮しける


豊後国(いまの大分県)から石清水八幡宮参詣のために都に上った僧は、連日あちこちの寺社に詣でています。北山にほど近い雲林院、紫野。そこから東山の方面に歩いて賀茂宮、糺の森へ行き。。徒歩ではかなりな距離だと思いますが、そのうちにたどり着いたのが五條。あとの文言を見るに、ここは五條ではなく六條のはずではありますが。

ワキ「急ぎ候程に。これは早五条あたりにてありげに候。不思議やなあの屋端より。女の歌を吟ずる声の聞え候。暫く相待ち尋ねばやと思ひ候。

ワキは「急ぎ候程に」は正面。。見所に向かって謡うのですが、その後「不思議やな」は幕の方。。このあとシテが現れる方向に向かって謡います。そのところ、ワキ方下掛宝生流と高安流では「急ぎ候程に」~「ありげに候」の部分。。所謂「着きゼリフ」と呼ばれる本文を欠き、すぐに「不思議やな。。」という文句になるので、「道行」の終わりにワキとワキツレは位置を入れ替わり、ワキツレはすぐに地謡の前に行って着座し、ワキは舞台中央またはシテ柱のそばまで行って幕の方へ向かい「不思議やな。。」云々を謡ってから脇座に着座します。

ワキが着座すると、大小鼓は「アシライ」を打ち、やがて前シテが登場します。「アシライ」は大鼓と小鼓が交互に「三地」という手を打ち続けるもので、ほとんどの能の中で、たとえばシテとワキの問答や「サシ」という拍子に合わない長文の叙述の場面で彩りとして演奏され、登場音楽として使われる場合は「アシライ出し」と言われますが、例はあまり多くはありません。また「アシライ出し」で登場するのはほとんどが前シテの登場の場面で、『夕顔』のほかにはこの曲と姉妹曲のような『半蔀』、また『砧』『巴』『熊野』『草子洗小町』など。。それでも意外に人気曲がありますね。後シテの登場としては『大原御幸』が唯一の例ではないかと思いますが。。

「アシライ出し」は、ぬえは登場音楽としては人物が登場するにあたって明確な意志や性格づけが希薄なものだというイメージを持っています。ふと、いつの間にかそこに現れた、とか、茫洋とさまよい出た、といった風情。前述のように「アシライ」は問答やサシの彩りとして多用されますが、そういう時には謡われている文言の叙事的な補強というよりは、むしろ場面の雰囲気を醸成する。。言葉は悪いがBGM的な使われ方をしています。「アシライ出し」もその延長と考えられ、積極的に登場人物のキャラクターを主張する、というよりは、透明感を持ってその人物がそこに「存在」する、ということを叙情的に描写する、という音楽であろうと思います。

付言しますと、この「アシライ出し」、登場音楽でない「アシライ」では笛が参加することはないのですが、登場音楽「アシライ出し」のときにはちょっと様子が違っています。笛の流儀により、一噌流では参加しませんが、森田流は笛が彩りを添えてくださいます。ぬえは『砧』を勤めた時に思ったのですが、ここはお笛があると ぐっと引き立ちますね。もとより叙情的な登場のしかたでもあり、「アシライ」ではなく登場音楽である、という区切りがあると、演者としても出やすいということはあるのではないかと思います。

シテ「山の端の。心も知らで。行く月は。上の空にて。影や絶えなん。

登場した前シテの扮装は典型的な里女のそれで、唐織の着流し姿です。面は流儀の決まりでは若女、または深井、小面とありますが、若女よりは少し凛々しい。。増でも似合うと思います。大人の能ですから(笑)

前シテは一之松に止まると上記の詞章を謡い出します。この和歌が、そのまま『夕顔』の能の”意味”というものを体現していますね。これは夕顔上が詠んだ歌で、8月16日の夜明け、源氏が「何某の院」に夕顔を誘い出したとき、その門前で源氏が詠みかけた歌の返歌です。

一般的には「山の端」が源氏の心で、その本心も知らないままに誘われて行く夕顔が「月」と解されています。上の空で月影が消えてしまうかも。。夕顔の不安が表されているこの歌ですが、事実、この日のうちに夕顔は物の怪に襲われて落命してしまうのですよね。。

僧が聞きつけた「女の歌を吟ずる声」は、まさに死を予感したかの歌だったのです。
『源氏物語』の研究では「予感」ではありえないでしょうが、中世に作られた能『夕顔』は、当時の『源氏』の解釈の上に成り立っているわけでもありますし、また能『夕顔』の作者は この歌に夕顔の運命を読み、ひょっとしたらこの歌一首が契機になってこの能を作ったのかも。

ともあれ、この歌ひとつ取っても能『夕顔』は語句の難解が鑑賞の大きな壁ではありますね。
『演劇』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 梅若研能会7月公演 | トップ | 何某の院の物語…『夕顔』(そ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

能楽」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。