ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設11周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

無色の能…『六浦』(その2)

2016-10-29 00:46:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
相模国六浦に到着したワキ一行は、この能の舞台となる称名寺に出かけることになります。

「着きぜりふ」などと呼ばれている部分で、「道行」である地点に到着したワキが、そのことを見所に宣言し、この地で休らうとか、何か不審な物を見つけて確かめようとするとか、次のアクションを起こし、多くはそれがキッカケとなってシテが登場する場面に繋がるところです。

能『六浦』ではこのところ、ワキのお流儀により大きく演出が異なるところです。このブログでは便宜的に ぬえが属する観世流の謡本に載る詞章を掲載していますが、これは かつて観世座の座付き流儀であった福王流の詞章に ほぼ依っているようです(小異はあることがありますが)。

この詞章によれば

ワキ「千里の行も一歩より起るとかや。遥々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ候程に。これははや相模の国六浦の里に着きて候。この渡りをして安房の清澄へ参らうずるにて候。又あれに由ありげなる寺の候を人に問へば。六浦の称名寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候。とワキは舞台中央に行き、ワキツレは地謡の前に着座して
ワキ「なうなう御覧候へ。山々の紅葉今を盛りと見えて。さながら錦を晒せる如くにて候。都にもかやうの紅葉の候べきか。又これなる本堂の庭に楓の候が。木立余の木に勝れ。ただ夏木立の如くにて一葉も紅葉せず候。いかさま謂はれのなき事は候まじ。人来りて候はゞ尋ねばやと思ひ候。

となっています。ところがこの部分、東京では最も勢力のある下掛宝生流ワキ方の詞章では次のようになっています。

ワキ「急ぎ候ほどに。これははや相模の国。六浦の称名寺とかや申し候。山々の紅葉今を盛りと見えて候に。これなる庭の楓ひと葉も紅葉せず。ただ夏木立の如くに候。謂われのなきことは候まじ。人に尋ねばやと思い候。
ワキツレ「尤もにて候。


いずれの場合も このあとワキは(下掛宝生流ではワキツレも)脇座の方へ歩み行き、その頃シテも幕を上げてワキを呼び止めることになります。「呼び掛け」と呼ばれるシテの登場の典型のひとつです。

この詞章を読み比べてみると、下掛宝生流の詞章はやや あっさりしているのに対して、やはり全体の詞章も長く、ワキが一人で舞台の中央に立って青葉のままの楓を発見する福王流の演出の方が少しく情趣という面では優れているかもしれませんね。

ところで、ぬえはじつは、この『六浦』という能の詞章には たくさんの不審を持っているのですが、この「着きぜりふ」にもそれを思います。これは福王流の詞章の場合だけですが、これによればワキは「これははや相模の国六浦の里に着きて候。この渡りをして安房の清澄へ参らうずるにて候。」と述べていて、どうもこれは日蓮本人か、日蓮宗の僧であることがイメージされているように思います。

話は脱線しますが、能には『鵜飼』『現在七面』などワキが日蓮であることが想定されている曲があります。「想定」と ぬえが言うのは、それらの能の中でワキが「自分は日蓮である」と名乗る曲がなぜかひとつもないからなのです。これが不思議なところで、これらの曲ではワキは「安房の清澄より出でたる僧にて候」などと名乗っていて、清澄とは日蓮が出家し、また日蓮宗を興した「清澄寺」であることは明白。そしてこの「清澄より出でたる僧」が登場する能は法華経を賛美する趣向で作られており、『現在七面』の話は身延山における日蓮の有名な事績がそのまま題材になっています。

能『六浦』のワキの役柄が日蓮だというのには証拠が乏しいとはいえ、福王流の詞章ではワキが すくなくとも日蓮宗の僧であると想定されていると考えるべきでしょう。

となると、このワキが「又あれに由ありげなる寺の候を人に問へば。六浦の称名寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候。」と言うのがやや不審ではあります。「称名」寺という以上、この寺が浄土宗であることが想定されるからで、日蓮宗と浄土宗は往時には対立関係にありましたから(これについては実際に ぬえが称名寺に参詣したときに、さらに新たな発見がありました。これについては後日ご紹介したいと思っています)

さて話題を再び能『六浦』に戻して、シテがワキを呼び止めます。

シテ「なうなう御僧は何事を仰せ候ぞ。

「呼び掛け」の定型の型で、シテは幕を上げるとワキの方へ向いて、脇座に行きかかるワキを呼び止めます。能ではシテの登場場面でよく用いられる「呼び掛け」なので、ぬえも何度もこのブログで説明していると思いますが、まことに能舞台の構造を活かした素晴らしい演出であると思います。

見所に突き出た本舞台にいるワキ一行に対して、これを呼び止めるシテははるか左後方の幕の中から声を掛けます。細長く楽屋に伸びる橋掛リをうまく活かして、ワキとシテとの距離感を。。遠くの方から ふと呼び止める感じがまずよろしいです。そうしてシテの姿がこの場面では見所に見えていないというのが また良いですね。ただシテの声だけが先に登場して、その姿はまだ見えない。そのうえ「呼び掛け」で登場するシテは、しばしば幽霊や神仏の化身であって、生身の人間ではないのですよね。そこで演者はあるいは神秘的に、または不気味に、おどろおどろしく、などシテのキャラクターを見所に想像させるように工夫を凝らして発声しています。この一句が能の成否を大きく左右する、と言っても誇張ではないと思います。

シテに呼び止められたワキは足を止め、シテの方へ振り返って応答します。

ワキ「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が。山々の紅葉今を盛りと見えて候に。これなる楓の一葉も紅葉せず候程に。不審をなし候。
シテ「げによく御覧じとがめて候。いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申しゝ人。紅葉を見んとてこの所に来り給ひし時。山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿とりあへず。いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。
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