ぬえの能楽通信blog

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『通盛』…「直ぐなる能」とは(その8)

2016-05-17 22:02:35 | 能楽
先ほど”前場では『主役』ではあるけれども『主人公』はなかったシテが、後場ではそれを取り返すかのように。。”なんて、まるでシテが後場で大活躍するかのように書いてしまいましたが、実際の舞台では、前述のように修羅能の常套として床几に掛かって戦語りはするけれどお、それは ほんの2~3分のことで、そのあとは小宰相との合戦前夜の仲睦まじい語らいの場面になる。。つまり、後場でもシテは、やはり動かないんですよね。

『通盛』という曲。。本当に「修羅能」という括りで考えてよい曲なんでしょうか。

ともあれ、舞台は合戦前夜の夫婦の語らいの場面。
ここは能では通盛が自分の亡きあと頼りとする人がない小宰相の行く末を心配したこと、自分が死んだら都に帰って跡を弔ってほしいと頼んだこと、などが語られていますが、じつは『平家物語』ではそれだけではない、かなり深い内容が夫婦の間で語られています。

まず、通盛は翌日の合戦を前にして、明日には戦死する、とう予感がありました。小宰相が乳母に語ったその夜の通盛の有様は、「いつもより心細げに打ち嘆きて『明日の軍には、一定討たれなんずと覚ゆるはとよ。吾いかにもなりなん後、人は如何し給ふべき』」と語ったとのこと。これに対して小宰相は「軍はいつもの事なれば」通盛が感じていた予感も気にはとめませんでした。

それどころか小宰相は逆に、これまで通盛に隠して言わなかった重大な事件を告げたのでした。

それが小宰相の懐妊で、これを聞いた通盛は「斜めならずうれしげにて」、私は三十歳になる今まで、子というものがなかった。同じくは男子であってほしいな、などと語りますが、一方ではやはり自分の死の予感が頭から離れないのでしょう、この世の形見に残しておく子なのだ、などとも語ります。

通盛は小宰相の身体もいたわって、もう何ヶ月になるのだ、気分はどうだ、この波の上、船の内の住まいがいつまで続くかわからないので、無事に身ふたつになってから後のことも気がかりだ、と細々と妻のことを気に掛けています。

能の舞台にこれらの夫婦の語らいの内容は描かれていませんが、先日、仙台での能楽ワークショップで能『通盛』のビデオを見せながら、『平家物語』に書かれているこの夫婦の語らいの内容をお知らせしたら、参加者から「それを知るとこの場面はまったく違った感じに見えてくる」という感想が出ていました。能『通盛』が作られた当時『平家物語』は、少なくとも現代よりはずっと人口に膾炙していたでしょうから、能の作者はそういう『平家物語』の中の通盛と小宰相の夫婦の物語が観客の中でイメージされることを予想して台本を簡素なままにしておいたのかも。

また『平家物語』では小宰相は後に乳母に、女は出産のときに「十に九は必ず死ぬるもの」とも語っています。当時の産科医療の現状というものはそんなものだったのでしょうが、夫婦の会話にそういう話題も出たかもしれません。こういう事も現代人の目から見えているものと、能『通盛』が作られた当時とではずいぶん印象が違う点なのかもしれません。

。。でもこの『平家物語』に書かれている内容を知ると、能では通盛は妊娠を知った妻に飲酒を勧めていることに。。ま、これはいいか。(汗)

ぬえがここで問題にしたいのは、合戦の前夜に、やっと逢瀬の機会を得た二人ですが、じつはこのときの二人の思いがまったく違う方向を向いていたのではないか、という点です。この曲のテーマにも関わる重要な問題だと思いますが、それは後ほど。。

さて勇猛で知られた通盛の弟の能登守教経が見咎めたことで、夫婦の逢瀬は破綻を迎え、通盛は戦場へと赴きました。

シテはツレの前から立ち上がり、常座に至りますが、なおもここで後ろ髪を引かれる思いで二足下がり、それからガラッと雰囲気を変えて器楽演奏による短い舞「翔」(かけり)となります。

「翔」は実際には舞と呼ぶべきかどうか疑問もあります。ほんの3~4分の短い間に囃子はかなり急激にテンポを速め、また緩め、と変化に富み、シテもそれにつれて動作しますが、動作、と言うよりはむしろ感情の起伏を表現していると言うべきで、だからこそ「翔」は修羅能の闘争の場面に使われるほか、狂女能に頻出して行方の知れない我が子や恋人の姿を求める女性のシテの狂おしい感情を表現したりします。

能『通盛』の中で「翔」はそれらとはちょっと違う、もう少し直裁的な使われ方をしています。
小宰相の前から立ち上がって合戦の場に向かった通盛。短い「翔」のあとにはシテは「さる程に合戦も半ばなりしかば。但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ」と言っていて、すなわちここでの「翔」は、一ノ谷での両軍入り交じっての合戦そのものを表している、と言えると思います。ツレとの逢瀬の場面から3~4分後には、おそらく妻と別れて半日後の通盛の、まさに戦場に屹立する姿を描き出すわけで、こういうところに能の場面転換の鮮やかさを見る思いです。

シテ「さる程に合戦も半ばなりしかば。但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ〈とワキヘ向き〉
ワキ「さて薩摩の守忠度の果はいかに。
シテ「岡部の六弥太。忠澄と組んで討たれしかば。あつぱれ通盛も名ある侍もがな。討死せんと待つ所に。すはあれを見よ好き敵に
〈と脇正の方へ出ヒラキ〉
地謡「近江の国の住人に。近江の国の住人に
〈と数拍子踏み〉。木村の源吾重章が鞭を上げて駈け来る〈扇高く上げ向こうを見〉。通盛少しも騒がず。抜き設けたる太刀なれば〈太刀を抜き正中へ行き〉。兜の。真向ちやうと打ち〈と一つ切りつけ〉返す太刀にてさし違へ〈と両腕組み左へそり返り安座〉共に修羅道の苦を受くる。憐みを垂れ給ひ。よく弔ひてたび給へ〈と左袖を掛けワキへキメ〉
地謡「読誦の声を聞く時は。読誦の声を聞く時は
〈と正へ向き面伏せ聞き〉。悪鬼心を和らげ。忍辱慈悲の姿にて〈と勇健扇仕ながら立〉。菩薩もこゝに来迎す〈と正先に胸ザシ仕て行き右拍子〉。成仏得脱の〈とフミビラキにて右へ廻り〉。身となり行くぞ有難き〈とワキへ向き合掌〉身となり行くぞ有難き〈と右ウケ左袖返しトメ拍子〉

ここは修羅能らしい場面で、シテは太刀を抜いて奮戦する有様を見せ(この能の中で唯一の多くの動作がある場面でしょう)、やがて(彼の予感通りに)通盛は討ち死にをすると、さてワキ僧に向かって弔いを頼みます。すなわち奮戦の場面は、その前夜の小宰相との逢瀬の場面などと ともどもに、観客は過去に遡ってそういう事件を目の当たりに見ているのではなく、これはシテによるワキ僧への懺悔のための仕方話だということになります。
コメント
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