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「聖母の曲芸師」

2012年05月14日 | 読書日記ーフランス

アナトール・フランス 堀口大學訳
(『詩人のナプキン』ちくま文庫 所収)



《あらすじ》
ルイ王の治世のフランスに、コンピエンヌ生れのバルナベと呼ぶ貧しい一人の曲芸師があって、手品と軽業を人に見せながら町から町へと渡り歩いていた。聖母を深く信仰する正直者の曲芸師は、あるとき僧院の院長と知り合い、そのまま出家する。仲間の僧侶達が各々に備わった技能の限りを尽くして熱心に聖母に祈りを捧げている様子を見て、バルナベは自身の無学と素朴を嘆くのであった。


《この一文》
“ ――ああ! 私の心のやさしさのすべてを捧げている神様の聖なる御母の頌徳のために、私の同僚たちがつくすような芸能を、私の持たぬのは悲しいことだ。ああ! ああ! 私は粗野でありかつは芸能の無い男なんだ。聖母さま、私はあなたさまのご用に捧げるために、感化力のある説教も出来ず、規則的に区分された論文も書けず、精細な画も描けず、と云ってまた、形の正しい石像を刻み得るでもなく、字数を合せ調子をとって進んで行く詩も書けないのでございます。私には何も出来ないのでございます。ああ! ”





『詩人のナプキン』は私のお気に入りのアンソロジーであり、私はアナトール・フランスが大好きであり、さらにその「聖母の曲芸師」は他にも多くの作品集に収録されているので、私はこれまでに何度も読んだことがありました。もちろん物語の大筋も頭に入っていたのです。

しかし、物語の大筋を把握していることと、細部についても詳しく理解しているということとの間には天と地ほどの開きがあるのだということを、私はあまりに巨大なアナトール・フランスの足もとに平伏し涙をこぼしながらあらためて痛感することになったのです。

今回もう一度「聖母の曲芸師」を読んでみると、驚くほどに心を打たれました。美しい物語だと分かっていたつもりでしたが、これまではこれほどではありませんでした。ほんの短い物語ですが、今日は途中から、温かいものが溢れ出てくるのを止めることができません。


この物語がどういうお話かというと、こんなお話です。ほぼ全部の要約なので、これから原作を読もうという方はご注意ください。

******

ひとりの信心深く正直な曲芸師が出家すると、同僚の僧侶たちは彼らの持つ立派な技能でもってラテン語の詩を作ったり、素晴しい石像や絵を描くことで聖母を熱心に信仰しているのを目の当たりにする。それに比べて曲芸師には曲芸以外に何の芸もなく、どうにかして聖母のために尽したいと願いながらも手立てを見つけられず悲嘆に暮れる。

ところが曲芸師はある時から元気よく起き出てはしばらく御堂にひとりっきりで籠るようになる。不審に思った院長と長老たちはこっそり彼の様子を戸のすきまからのぞくと、曲芸師は聖母像の前で、彼が以前に世の中で好評を受けた曲芸の数を尽くしているのであった。院長は曲芸師の無垢なことを知ってはいたが、この時は精神錯乱を起こしたのだと思い、瀆神であると言って、彼を御堂から引きずり出そうとする。

すると、祭壇から聖母が降りてきて、その衣の裾で軽業師の汗を拭ってやるのであった。院長と長老達は地に接吻し和唱する。
「心、愚直なる者は幸いなるかな、彼等神を見るべければなり」
「アアメン!」


*******

という、とても美しい物語です。私の要約よりも、この堀口訳を読むのをおすすめしたいですね。


さて、「無学と素朴」ということについて考えると、時々私も嘆きと悲しみの中に陥ってしまいます。どうして私たちはあれらの人のように優れていないのか。どうしてこんなにも分からないことばかり、できないでいることばかりなのか。なぜこんなふうに、何も持たないままで生きていかねばならないのだろうか。

けれども立派な他人と比べて自分を嘆いたりしなくても、何か少しでも誰かを喜ばせたり誰かが認めてくれるような能力を持っていたら、それだけでもこのバルナベのように私たちもまたこの世の中で美しく生きていくことができるのではないだろうか。不足や不満、嫉妬や羨望が人間をより高く遠いところへ突き動かそうとするのかもしれないけれど、その前に、まずそれぞれが持っているものを優劣なしに評価してやることができればなあ。その価値と意味を正しく知ることができたらなあ。そしたら、もしもそれが自分の求めているものとまるで違っていたにしても、せめて「何もない」なんて思わなくてもいいだろうし、そしたら「何もできない」なんて嘆かずに済むんじゃないのだろうか。

私は人生というものが誰にとってもそんなふうなものであってほしい。誰にでもそれぞれにできることがあり、どんなにささやかなことであってもそれによってせめてその分くらいは満たされたっていいはずだと思う。これは、ただ与えられたものに満足しろというのではなくて、立派で素晴しい、自分は持たぬなにかに憧れるのもいいけれど、比較するあまり自らの能力を低く扱いすぎたり能力があること自体を見過ごしてしまうことがないといい。誰にでもなにかしら美しいところはあるはずだ。いつかそれを、誰もが聖母の裾に拭われるように、優劣なしに評価してやることができたら。誰もがただ存在するだけで美しくなり得たら。我々が、我々自身の価値と意味を知ることができたら、我々自身の価値と意味を本当に理解することができたなら、私たちは不足も不満も忘れて、そのために誰とぶつかることもなく透き通って硬く丸い珠のようになって、安心して生きていくことができるようになるだろうか。違うのはそれぞれの色くらいでさ。遠くを目指すのは、それからだっていいはずじゃないか。だからまずは知らなければ。私のそれを。彼等のそれらを。


と、今回はこんなことを思いました。
無垢なるものへの眼差しが、アナトール・フランスの魅力のひとつだと感じますが、とくに無垢なるものが汚されぬほどに強く、傷つかぬほどに美しく描かれている時、私はなにか圧倒的なものの前に立たされ、溢れ出るなにかに押し流されてゆくのでした。






『キャピテン・フラカス』

2012年01月11日 | 読書日記ーフランス

テオフィル・ゴーティエ作 田辺貞之助訳(岩波文庫)



《内容》
あえて訳名をつければ「剛勇任侠の郷士」。時は十七世紀初頭、若き男爵シゴニャックが旅役者の一座に身を投じて織り成す波瀾万丈の大ロマン。(全三冊)


《この一文》
“「幸福の華やかさはわたくしを怖じけさせます。もしあのときあなたがお仕合せだったら、きっとわたくし逃げだしてしまったでございましょう。お庭のなかを、茨の蔓をわけていただきながら散歩しましたとき、野生の小さい薔薇の花を摘んで下さいましたわね。あれはわたくしに下される唯ひとつの贈り物でしたわね。わたくし、あれを胸へおさめるまえに、そっと一粒涙をこぼしましたの。そして、なにも申しあげませんでしたけれど、そのかわりにこの心を差しあげたのでしたわ。」”





入院中にベッドの中で読みふけった長篇。今回もゴーチエ先生の天才をまざまざと見せつけられた感じ。あー、面白いなあ! なんでこんなに面白いのだろう。全3冊のボリュームですが、加速度をつけて読み進められましたね。もう猛烈な面白さでしたよ!

物語の主人公である若きシゴニャック男爵は、名門貴族の末裔でありながら、いまや一族はすっかり落ちぶれて、破れ放題崩れ放題で廃墟同然の館に年老いた従僕ひとりと猫と犬、そして痩せ細った馬とわびしく暮らしている。そこへある晩、嵐によって足止めされた旅芸人の一座が宿を求めてやってくる。パリを目指して旅を続けているという一座の面々から、ここでくすぶっていないで我々とともにパリへ出ないかと誘われた男爵は、貴族の身分でありながら旅芸人に身を落とすのは躊躇われたものの、思いきって新しい世界へ飛び込むことにする。そしてシゴニャックの恋と冒険が始まった。

というお話。シゴニャック男爵と女優イザベルの恋愛模様が中心に描かれます。悪魔的に美しい恋敵ヴァロンブルーズ公爵との激しい鍔迫り合いにはハラハラさせられますし、窮地に追い込まれてはじめて田舎でじっとしてたから誰も知らなかったんだけど実はシゴニャックは剣の達人なんだよねと明かされる中二病的ご都合主義展開にも笑わせてもらったし、どこまでも慎ましくて麗しい男爵と女優の恋の行方を見守るのはとても面白かったです。

が、この物語にはもうひとつ、シゴニャックとイザベルの光り輝く清浄な恋とは対照的に、闇の中で燃え盛り血を噴き上げるように激しい愛の行方も描かれていました。私はむしろそれに夢中になった。いや、このカップルこそがむしろこの物語の核心だったのではなかったかとすら思う。そのくらいに強烈なもうひとつの愛の物語。

そのもうひとつの物語とは、盗賊アゴスタンと相棒である少女シキタのお話です。このふたりの愛の結着には、私は入院中の夜のベッドで思わず声をあげてしまいそうになるくらいに心を打たれました。もしもこの物語の中でシキタについてもっと多く描写されていたなら、私はきっとあの場面でむせび泣いたに違いありません。

 シキタよ、主役はお前だ!!!

シキタという少女は、まだ幼く、ぼさぼさの髪のなかでギラギラと大きな瞳を輝かせ、ひょろひょろした手足をして身にはぼろをまとっています。父親は盗賊で既に亡く、シキタは闇の中を獣のように走り抜けては、愛するアゴスタンの、血にまみれた仕事を手伝うのでした。このシキタとアゴスタンの二人組のキャラクターが異常に魅力的です。私の脳内では完全にアニメーション化されて再生されていました。これはウケる! ウケるぜ! シキタ萌え来るぜ!!

シキタとアゴスタンの登場する最初の方の場面を引用してみましょうか。

 “「ねえ、あたいの好きなアゴスタン、」とシキタが甘えるような口調で
 つづけた。「あの綺麗な人の首を切ったら、あたいに頸飾をおくれよ。」
 「そりゃ、お前によく似あうだろうな。お前のもじゃもじゃな髪の毛や雑
 巾のような襦袢やはげっちょろけのスカートにはまったくうってつけだろう。」
 「あたいはずいぶんあんたのために見張りをして、地面から靄があがると
 きや、露であたいの可哀想な素足がべとべとに濡れるときでも、様子を知
 らせに何度も馳けてきたんだよ。また、熱があって、沼地の縁の鵠のよう
 に歯ががたがた鳴ったり、草叢や藪のなかを匐ってくるのも苦しくてたま
 らないときでさえ、あんたの隠れ家へ食べ物をもってくるのをおくらした
 ことがあるかねえ。」”

シキタからアゴスタンへ向けられる愛情の激しさには震えました。あんなに鮮烈な愛の描写には滅多にお目にかかれません。
殺戮と略奪の中で育ったシキタには闇の魅力が備わっています。暴力と欲望の暗黒の中で、しかし善悪を超えて、なにか純粋で貴いものすら感じさせる魅力が、シキタの瞳にはあるのでした。

私はこのシキタという女の子と出会えたというだけでも、『キャピテン・フラカス』を読んだ甲斐があったというものです。それから男爵の恋敵である公爵のキャラもずいぶんと際立っていましたね。ヴァロンブルーズ公爵はたまらなく素敵! 蛇のように粘着質な暴君キャラでした。その上悪魔のように美しいときたもんだ。それでいて意外と素直で単純。はあはあ…!


さて、これはゴーチエ作品全般に言えることですが、『キャピテン・フラカス』もまたとても視覚的な小説で、鮮やかな世界が目の前にきらきらと展開されていきます。映画でも観ているような盛り上がり方です。1861~63年に書かれた作品ですが、物語が王道をゆくために古典的、ゆえにそれ以上古くもならず、登場人物の生き生きとしたキャラクター付けは今でも十分通用するほどにおそろしく現代的です。何と言ってもシキタ。シキタが凄い! とにかく面白いのです。

それからもうひとつ印象的だったのは、物語のところどころで描かれる豪華な食事の様子です。入院中で病院食に耐えていた私には刺激が強過ぎました。目の前をご馳走が次から次へとよぎっていくのに、手の届かないもどかしさ! あんなに食への欲求が高まったことはこれまでにありませんでした。焼き立ての大きな塊からそぎ落とされた肉片、泡立つクリーム、きらめく煮凝、腹が減ったなあ……と、生ハムやらベーコンやらの幻覚に悩まされて仕方がありませんでした。退院した当日(すでに夜)、帰宅するなり買い置きしてあった生ハムを貪ったのは言うまでもありません。泣くほど旨かった。ゴーチエ先生の筆力の偉大さよ……



というわけで、文句なしに面白い小説でした!







「夢大盡」

2011年06月18日 | 読書日記ーフランス


『リイルアダン短篇集(上)』辰野隆選(岩波文庫)

伊吹武彦訳





《あらすじ》
青年詩人のアレクシーは21歳の誕生日の夜を、友人である画家と音楽家とともに過ごしていた。アレクシーの宿には小さな開かずの扉があり、ときおりその隙間から苦しげな老人の声が洩れ出るのを聞いた三人は、それに興味を示すのだが……


《この一文》
“「ああ、お若い方、あなたですか!」老人は息も絶えだえに言葉を途切らせながら、ごく低い一聲で一語一語いつた。――「私はお前さんのいつてることを聞きました。そら……その聲に……聞き覚えがある。お前さんは話してゐましたね……王様のことを、流された人のことを……。私も夢想家です……私は一生夢を見て過ごしました!……さつきはお蔭で楽しうござんしたよ……最後の夢を見させて下さつたんだ! 夢! ……美しいもんですよ……だが……毎晩都の大路小路をうろついてゐると……時には見つかりますよ……夢を先づ先づ正夢にするだけのものが!……みんなはただ長い間の癖で……そんなものは、相手にしないだけの話です。――ところが……地味にして、気をつけて、見つけたものを巧く廻せば……長の年月には……なれますよ――金持に! 見て下さい!」 ”






とにかく、夢を見ないことには始まらないのです。

私もさまざまな夢を見ます。起きていても寝ていても、たくさんの夢を見てきました。時には具体的な夢を、こういう人間になりたいとか、こういう職業に就きたいとか、多くの夢が通り過ぎて行って、私はそのうちのどれひとつとして現実にすることはありませんが、心は爽やかです。実現しなかったということで私の心が曇ることはもはやなさそうです。そこは、わりとどうでもいいようなのです。いつのころからかそうなった。かつては、もちろんいくらかは苦しみましたが。

さて、しかし、それはどうしてそうなったんだろうと考えていたのですが、それは私が夢想家だったからなんだなあ。私は夢想家だったんだ。だからもうほかのものになる必要なんてないんだ。それだけではだめかもしれないけれど、とりあえず夢想家であることには違いないし、夢想家でいることは、私にはなによりも心地いい。たとえば人生に期待するものが「幸福感」であるとするならば、私は幸福ですよ。夢を見ていられれば。それだけでも充分に。


夢と言うと、いつか、こういうことを思いついたことがあります。私が現実世界で美しいものを見たり聞いたりすると、私がそれを忘れてしまっても、夢はいつまでもそれらを保管してくれていて時々私に見せてくれるんだと。現実の美しいものを夢の中に持ち込めるのだと。夢と現実とは繋がっているのだと。どちらも同時に美しくあることは可能であるのだと。私は夢想家ですが、それは現実を愛さないということではないですね。ただ、どちらでも同じように生きたいと思っているのです。できれば美しく。





ともかく、夢を見なければ始まりません。
この物語に登場するご老人のように、一生を夢を見ることに費やせたらいいなあ。そしたらきっと幸せな生涯だ。



夢、美しいもんですよ…!

ええ、ほんとうに。




「ビヤンフィラアトルの姉妹」

2011年03月29日 | 読書日記ーフランス


鈴木信太郎訳
『リイルアダン短篇集(上)』辰野隆選 所収
(岩波文庫)


《あらすじ》
貧しい門番夫婦の二人の娘、ビヤンフィラアトルの姉妹は、世間の偏見によれば穢らわしく困難な「夜の稼ぎ」に、真面目に慎ましく従事していた。心根が優しく、聡明で、堅実な姉妹であったが、あるとき妹のオランプが過ちをおかしてしまう。彼女は恋をしてしまったのだ…。

《この一文》
“されば、行為は形而下である限り無差別である。各人の意識のみ、ひとり、行為を善と為し或は悪と為すのである。この広大無辺の不統一の奥底に臥はる神秘的な点は、人間が、差別とか関心とかを勝手に拵へて、その国の風習が自分にこの行動或はあの行動と為させるに従つて、斯々(しかじか)の行動を寧ろ斯々の行動よりも自ら禁ずる、『人間』の閉ぢ籠められてゐるこの天賦の必然性にある。畢竟、全『人類』は、如何なる『法』が失はれたかはしらないが、その『法』を既に忘れてしまつて、しかもそれを手探りに思ひ起さうと努めてゐるのである、と言へるかもしれない。”



リラダンの短編はいつだって物悲しいなあ。灰色と、菫色の世界。美しいけれども悲しい。しかし、悲しいけれどもやはり美しいのであった。


この「ビヤンフィラアトルの姉妹」という物語の、結末をどう解釈したらよいのか私にはまだよく分からないのですが、お話のはじめの方の、この一文には強く心を惹き付けられるようです。

畢竟、全『人類』は、如何なる『法』が失はれたかはしらないが、その『法』を既に忘れてしまつて、しかもそれを手探りに思ひ起さうと努めてゐるのである、と言へるかもしれない。


うむ。
忘れてしまった何かを思い出したくて、手探りを続けているような気がします。以前からずっと、今も、これからも。思い出すためなのか、作り上げるためなのか、どちらなのか分からないけど、その「何か」のために私たちは前に進むのかもしれませんね。躓いたり、転げたり、そのたびに価値が転倒するのを恐れたりしながらも。


灰色と菫色の、静かで美しい世界。悲しいほどに美しい世界に、私を染み込ませたい。









「死期」

2010年11月30日 | 読書日記ーフランス

アベル・ユーゴ

P.-G.カステックス編 内田善孝訳
『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)所収



《あらすじ》
野営のために立ち寄った打ち捨てられた教会で、軽騎兵連隊の若き将校アルベールは真夜中のミサに出くわす。思いがけずミサの手助けをしたアルベールは、長年にわたる苦行から解き放たれた司祭からお礼にひとつだけ願いを叶えてやると言われ――。


《この一文》
“ アルベールは身震いにとらわれたが、勇気をだして言った。(人間は知らないでおいた方が幸せなことを常に知りたがるものだ。)「神父さま。私の生命(いのち)はいつまでもつのか教えて下さい。」 ”



アベル・ユーゴはヴィクトル・ユーゴのお兄さんだそうです。この短いお話はとても幻想的で美しく、しかも興味深いものでした。

アルベールは司祭から「あときっかり3年で生命が尽きる」というお告げを受け、それ以後、死を怖れずに戦い、戦争が終わり、故郷へ帰る。まだまだ長く生きられると信じていた頃にあれほど愛した美しい婚約者と再会するが気持ちは晴れず、躊躇したままで結婚する。家庭を持ち、家族から愛され、武功を立ててめざましい昇進もし、アルベールが幸福になるための条件は揃っているように見えた。しかし、もうすぐあの夜からちょうど3年、自分の命が尽きる時が迫っているのだ……。


*** 以下、重大なネタバレ注意 ***

物語の結末を書いてしまうと、アルベールの3年間は実はすべて夢であり、教会のそばで眠ってしまった彼は、翌朝同僚に起こされて、まだ生きている自分を、これがすべて一夜の夢であったことを発見するのです。

目が覚めた時のアルベールの心境の複雑さが、このお話を非常に興味深いものにしています。3年が過ぎて家族に見守られながら目をつぶったところで目が覚める。全部夢だった、自分はまだ生きている、これからもまだまだ生きていけるという安堵とともに、夢の中の幸福が、美しい妻と優しい母親、そして可愛らしい我が子、出世の栄光も、それら全てがただ夢でしかなかったという喪失感。喜びのような、悲しみのような、どちらともつかない気持ち。

思い出すのはやはり「邯鄲の夢」ですね。あのお話では貧しい若者が夢の中で栄華を極めたもののそこで目が覚め、翁から「人生とはこういうものだ」と告げられるというものでした。この書生は人生もまた夢のようなものだということに納得して帰っていくのですが、「死期」のアルベールの胸中にあるのはそういうものではないようです。


人生と夢。人はどうして夢を見るのか。夢を見て、それをどうとらえるべきなのか。夢の中の幸福を現実へ持ち出すことができないのは何故? 目が覚めて、失ってしまったものを思って胸を痛めているのだけれども、ひょっとすると、これもまだ夢の中で、ここでどんなに幸福を得られたとしても私はまた目ざめて、すべてが夢だったと思うのではないかしら。あるいはそんな私の世界もまた夢で、本当の私の人生はまったく別のところに存在しているのではないかしら。

生きているということは、そのうちの何割かを睡眠にあてるということでもあり、そこで夢を見てそれを覚えているならば、やっぱり夢というのは気になるものですよね。夢ってなんだろう。人生とはなんだろう。どちらも幻のようなものなのでしょうか。それとも、どちらも何か確かなものであるのでしょうか。あるいは、どちらかが幻で、どちらかが実体なのかな。




美しい夢も、楽しい夢も、惨めな夢も、恐ろしい夢も、いつかは醒める。はじまったものには終わりがある。そこは人生と同じかもしれませんね。私にもいつかそれをはっきりと知る時が来るのでしょう。いやもう二度と目ざめることがないならば、知ることが出来ないのかな。それは心残りだ。いや、心なんて残らないのかもしれないけどさ。

それはさておき、私は夢の中で死んだことはないけれど、目ざめて、まだ生きていたら、いったいどんな気持ちがするんだろうなあ。夢から覚めるのはそれに似た感触でしょうか。アルベールのようにぽっかりと穴があいたような気分。あの素敵な人ともう少し一緒にいたかった。でもあの怖いことが現実でなくて良かった。それならあれもまた夢だったら良かったのに。
毎晩夢を見れば、毎朝人生を生き直すことになるのかもしれません。そう考えると一瞬爽快な気持ちもわいてきますが、しかし同時にそれがいつまで続くのかという不安もあります。いつまで生きるの? いつまで夢を見続けるの?

 そして、いつどこですべてが終わってしまうのだろう。
 どんなに生きようと思っても、どんな夢を見ようとも、終わる時が来る。


この恐怖感のようなものについて少し考えさせられるような短編小説でした。恐ろしくもあり、願わしくもあり。たしかにそれは複雑な感情ですね。面白かった!





『シルヴェストル・ボナールの罪』

2010年07月14日 | 読書日記ーフランス

アナトール・フランス作 伊吹武彦訳(岩波文庫) 



《内容》
作者の出世作であり、代表作の一つに数えられる日記体の長篇小説。セーヌ河畔に愛書に囲まれてひっそりと暮す老学士院会員をめぐるエピソードが、静かなしみじみとした口調で語りつづけられる。古書にとりかこまれて育ち、多くの書物から深い知識を得たのち、その空しさを知った懐疑派アナトール・フランス(1844-1924)の世界がここにある。

《この一文》
“人間はそれぞれ勝手に人生の夢を見るものである。私は書斎のなかで人生の夢を見てきた。いよいよこの世を去るべき時が来たら、どうか本をならべた書棚の前の梯子の上で死なせていただきたいものである。 ”






『シルヴェストル・ボナールの罪』とありますが、「罪」らしい「罪」は私には見分けられませんでした。ボナール氏は可愛いジャンヌの結婚支度金にあてるために売却しようとしている書物の山から、こっそりと取っておきの本を抜き出します。そこに罪を感じていたようですが、これは罪なのかな。人はどんなふうに生きたとして、その途中でどんなふうに軌道を変えたとして、辿ってきた道筋で得たものをを手放すことができないことはあるだろうし、それらに執着することが罪であってほしくはないと私は思うわけですが、何を罪だと思うかは人それぞれで、要するにボナール氏はそれほどに控えめで善良な人生を送ったということでしょうか。

ボナール氏は書物のなかで、研究に没頭して、猫と家政婦がいるだけの静かな暮らしのうちに年を取っていきます。
物語は2部構成で、第一部は「薪」、引き蘢りの老学士院会員ボナール氏の家の屋根裏に不運な若い未亡人が住み着いて、生れたばかりの赤ん坊を可愛がっていると家政婦のテレーズから聞いたボナール氏は薪やスープなどささやかなものをその美しいと評判の女房に届けさせる。その後出世した奥さんと不思議な巡り合わせで再会するという話。
第二部は「ジャンヌ・アレクサンドル」、ボナール氏が若かった頃ただ一人愛した女性の孫娘と、これまた不思議な因縁で出会うこととなり、ボナール氏は孤児となっていたその娘の面倒を見てやりたいと思うようになるという話。

どちらかと言うと心温まる物語です。静かで優しいお話が続き、恐ろしい場面と言えばボナール氏が幼少期に体験した大尉の伯父さんがらみの逸話か、かつての想い人の孫娘ジャンヌを管理しているオールドミスの塾長から熱愛され求婚され、どこでどうなったのかボナール氏がそれを承諾したと思い込まれていたのが発覚した場面くらいでしょうか。あれは恐かった。その他はしみじみと大団円。本とばかり付き合ってきたボナール氏が、老いて初めて自らが素通りしてきた人や世界との交わりを持つようになる有様を美しく描いてあります。

そう、優しくて美しい物語なのです。けれどもところどころで、どうしてだか悲しみのような、いや空しさだろうか、なにかグサリグサリと胸に食い込むようなものを感じて仕方がありません。ボナール氏は学士院会員としてちゃんと研究の成果もあげて、情熱を燃やし続けてここまで来たというのに、ふと立ち止まったりするのです。もしかしたらすべて無駄だったのではないかと、もしかしたら自分にも父、祖父と呼ばれるような別の人生を送ることもあったのではないかと。立ち止まったところでジャンヌという娘を得たボナール氏は幸いです。ジャンヌとの出会いを通して、これまでに知らなかった世界の楽しさや美しさを発見することになったボナール氏は幸いです。ああ、こんなことがあったらどんなにか! まるで夢のような幸福です。あまりに幸福なので、ジャンヌの結婚というさらなる幸福の為に蔵書を売り払うことにしたボナール氏。でもすっかりやり遂げることができませんでした。それが彼の罪。ささやかすぎる罪。これは罪? 私にはやっぱり分からないや。

物語に哀しみを印象づけているのは、さらに結末の部分であるかもしれません。結婚したジャンヌとその夫、小さなシルヴェストル坊や、花と虫を愛するようになってパリから小さな村へ移り住んだシルヴェストルおじいさんのお話。ほんの短い文章ですが、堪え難いものがありました。美しい、けれども悲しい、それでいてやはり美しい世界。まるで夢のような描写で、胸がいっぱいに詰まってしまいます。文字の間ではなく、現実の人生を生きて、あたたかい愛情に包まれて、でもそこにもやはり悲しみが滑り込んできて、喜びもまた悲しみもまた通り過ぎていく――。この部分はボナール氏の夢なのかな。夢なのかもしれない。夢。夢。



“「美しい夢でございますね。そんな夢を見ようと思えば、よくよくの
 才がいりますわ」
 「では私は眠っていると才が出てくるわけですね」
 「夢を見ていらっしゃるときにです」と夫人はいい直し、「そして
 先生は、いつも夢を見ていらっしゃるのです」         ”







『少年十字軍』

2010年06月10日 | 読書日記ーフランス

マルセル・シュオッブ 多田智満子訳(王国社)


《収録作品》
*黄金仮面の王
*大地炎上
*ペスト
*眠れる都市(まち)
*〇八一号列車
*リリス
*阿片の扉
*卵物語
*少年十字軍


《この一文》
“――このようにして、と王は言った。いつも同じ黄金の面をわれらに向けるあの月も、おそらく暗く残忍な別の面をもつのであろう。 ”
  ――「黄金仮面の王」より


“世界の諸部分は、善の路をたどらぬときには、いずれもひとしく有罪である。”
  ――「少年十字軍」より





初めて読む短篇が多かったですが、やっぱり「黄金仮面の王」と「少年十字軍」の2篇に私は打たれました。この二つの物語は、何度読んでも胸を打ちます。
その他の物語は「ペスト」をはじめ暗く不気味なお話が多いです。その中では「卵物語」が童話風のほのぼのとした物語ながら、はっとするようなことも書かれてあって面白かった。


さて、私はおよそ5年前にも「黄金仮面の王」と「少年十字軍」の2篇を別の本で読んで記事を書いていますが、前回の読書と今回の読書は違っていたようです。2005年にこの2篇を読んだ時は、私はこんなことを書いています。

*****
人間の持つさまざまの価値の全ては、人間自身が好き勝手に作り上げたものに過ぎないのだということに思い至ります。人間は何も分からないまま、闇雲に生きているだけなのかもしれません。いつか知ることが出来ればいいと願う「真理」に「神」と名付けて信じることを信仰というのでしょうか。自分達が歩いている道がどんなところか、今どのあたりなのか見当も付かなくても進むしかない不安にああでもないこうでもないと言って対立し傷つけ合う人間は哀れで、しかもそういう風にしか存在できないところに自ら罪をおわせ呪いをかけているのでしょうか。しかし、罪をおうからこそ赦される可能性があるし、呪われるからこそそこから解き放たれる望みがあると考えるべきなのでしょうか。ふたつの物語は大体こんな展開だったと思います。人間によって作り上げられた価値を捨て去る、もしくは最初から持っていない者達だけに見える世界があるかもしれない。
*****

ふむ。あの時はそういうことを考えていたんだな。でも、今回はこういうふうには思わなかったな。ここについてはあまり問題に思わなかったや。全然こんなことは思わなかった。

では、何を思ったのかというと、特に、なにも。ただ、とても悲しくなりました。何が悲しいのか説明できませんが、とにかく悲しかった。

前回「もっと考えるしかない」と書いて、5年が経ちました。そして出てきた言葉が「悲しかった」。たったの一言。色々と思ったことはあったはずなのに、全然言葉になりません。なんてこった!
ま、でもそういうこともある。私にはこれらの物語はまだ複雑すぎるんだ。次はもうちょっと……。新しい短篇を読めたことは、ひとまずの収穫でした。とにかく、諦めずにいきたい。






『ふらんす怪談』

2010年06月08日 | 読書日記ーフランス

H.トロワイヤ 澁澤龍彦訳(青銅社版)



《収録作品》
*殺人妄想
*自転車の怪
*幽霊の死
*むじな
*黒衣の老婦人
*死亡統計学者
*恋のカメレオン


《この一文》
“「さもなければ、こんなものですよ、人生って、煙みたいなものです」と言った。「愛したり期待したり、恐れたりするだけの価値もないものです。空の空ですよ! かなり前から、あたしは遠いところへ出発する用意をしているんです!……」 ”
  ――「黒衣の老婦人」より




K氏が眠そうな顔をしていたので、私はちょうど読み始めたところの小説の一節を読んで聞かせてやろうと思い、「…「それで、わたしは二人を殺(ば)らしてやろうと決心したんです」と単調な声で言った。「まず男を先にやってやろう、とね。(略)……」」と朗読を始めました。するとK氏は呆れたように、「君はまたそんなものを読んでいるのか」と言うのです。私は答えました、「ええ、またこんなものを読んでいるんですよ、へへへ…」。

しかし、なんとなく私も眠くなってきたので、その日はそこで止めてしまいました。そして、後日残りを読んでみて、私はこのときには選択を誤っていたのかもしれないと気がついたのです。このあいだ読み聞かせようと思ったのは最初の「殺人妄想」という短篇でしたが、最後の「恋のカメレオン」のこの出だしのほうがよかったかもしれません。「アルベール・パンスレが、たったいま天上の鉤で首を吊ったばかりの時、ドアが開いて、黒い服の小男が礼儀正しく会釈しながら室内に入って来た。」――ね、面白そうでしょう、しかもこの「恋のカメレオン」はSF風味なんですよ、こっちの方がよかった。主人公のパンスレ君は「二十五歳で、地位もなく、将来もなく、家族もなく、恋人もない」ことに絶望して首を吊ったところからお話が始まるんですよ。その彼が、《性格実験体》となって、様々に人格を変えてゆくというお話。へへへ、今度はこれにしよう。


それとも、「黒衣の老婦人」の方がいいかしら。ここにはかなり強烈な性格のお婆さんが出てくるし。骸骨のような容貌で、ホテルというホテルを転々と渡り歩いている謎の老婦人が、作家である主人公を部屋に招いておいて、こう言うのです。「よかったら、このいやらしい飲物もお飲みになってごらんなさい。つぶされ損なった南京虫みたいな味がしますから! 買いつけの店を変えなくちゃね、これじゃあ! でも、あなたはお茶なんぞ、多分あまりお好きじゃない方でしょう? まあ、これがおいしいって? そりゃ何よりだったわ! あたしはどうもね、口にあわない、捨てましょう!」――ああ、なんと強烈なキャラクター! 自分でお茶を振る舞っておいて「捨てましょう!」だなんて!! 素晴らしい面白さです。物語の結末もとても意外で洒落が効いていたし、こちらの方がよかったかもしれないな。うん。私はこのお話がとても気に入りましたよ。


あるいは「死亡統計学者」がよいだろうか。統計学には興味がありますかね? 毎月の死亡者数をピタリと予想するラケル氏の物語。ピッタリ当りすぎて大変なことになりますよ。ふふふ。




というわけで、なんだか誰かに読んで聞かせたくなるような、洒落た感じの怪談集です。怪談集とは言っても、怖いというより、奇妙なお話が多いという印象でしょうか。私はとても楽しみました。こういうニヤッとしたくなるような物語はいいですね。ええ、本当にいいものです。

ついでに面白かったのは、「あとがき」のところで、訳者の澁澤龍彦氏は、この本を訳してみたのは別にトロワイヤに興味があったのではなくて、なんとなくこの短篇集(原題は『共同墓地』)を読んだら、ふと訳したくなったから……というようなことを書いていたことですね。そんな簡単に訳してしまえる訳者の才能に少しの妬ましさを感じてしまいましたが、いや、でもありがたいことです。


アンリ・トロワイヤは評伝で有名な人だと思っていましたが、小説もいくつか書いているようです。この本に収録されている「自転車の怪」は別のアンソロジーにも入っていて読んだことがありましたが、他にも結構あるようです。
また、亡くなったのは2007年で95歳、ほんの最近までご存命だったようです。知らなかったなぁ。おまけに私はこの人をフランス人だと思っていましたが、モスクワ生まれのアルメニア系ロシア人だそうで、ロシア革命の時にヨーロッパに移住、その後はパリに定住したらしい。なるほど。

ちょっと他の小説も読んでみたいですね。








「黄金の脳みそを持った男の話」

2010年05月12日 | 読書日記ーフランス

ドーデー
*『風車小屋だより』(岩波文庫)
*『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)



《あらすじ》
主人公は黄金の脳を持って生まれ、それを気前良く周囲の人間に分け与えたり、切り売りしたり、時には信頼していた人間から強奪されたりして、少しずつすり減らしながら生きていくのだが――。


《この一文》
夢のような話に見えますが、この物語りは一から十まで本当なのです…… 世の中には脳髄(あたま)で生活することを余儀なくされ、人生の最もつまらないもののために、見事な純金、自分の精髄で支払いをしている憐れな人たちがいます。これは彼らにとっては日ごとの悩みです。しかもやがてその苦しみに疲れた挙句には…… ”

 ――「黄金の脳みそを持った男の話」
   (ドーデー『風車小屋だより』岩波文庫 所収)




「黄金の脳みそを持った男の話」は、私が読んだ唯一のドーデーによる物語。すごく面白い。


ドーデーは意外と面白い人なんですね。私はこの間(2年くらい前?)ようやくその事実に気がついたわけですが、まだろくに作品を読んでいません。『風車小屋だより』もまだ全部は読んでいません。しかし、この「黄金の脳みそを持った男の話」は猛烈に面白いですよ。

上に引用したのは岩波文庫の『風車小屋だより』の中に収められているものですが、『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)というアンソロジーには「黄金の…」の初出の作品が入っていて、そちらは物語の内容や雰囲気が『風車小屋だより』のものとは違っています。しかし設定や構造、描写に違いはありますが、両者のあらすじはほとんど一緒と言えますね。


主人公は黄金の脳を持って生まれますが、それを気前良く周囲の人間に分け与えたり、切り売りしたり、時には信頼していた人間から強奪されたりして、少しずつすり減らしながら生きていきます。


このお話で描かれているのは、黄金の脳=輝かしい知性と才能とを持って生まれてきた芸術家や作家の姿であるようですが、彼らがその宝を損ねずに、その宝の輝きを一層増すように生きるためには、何がどうであったら良いのでしょうか。彼と、彼の周囲の人々は、彼の能力を酷使したりその成果を略奪したり、ついには食いつぶしてしまう以外に、どうだったら良いのでしょうか。

思うに、芸術家や作家に限らず、人が社会に生きていこうとするときには誰もが何かしら自分の生まれ持ったものを切り売りし、その対価として得たものによって暮らしを立てていると思うのですが、自分では切り売りしているつもりが実はただ無闇にそれを垂れ流していただけで、返ってくるものや手もとに残るものはほとんどなかったのだということに気がついたとき、いったいその人はどうなってしまうのでしょう。恐ろしいことですね。社会に生きるというのは、難しいものなんだなぁ。垂れ流そうが立ち尽くそうが、別に人生はそんなふうで構わないものなのかもしれないけれど、でも悲しいなぁ、世の中は悲しい。




『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)の「黄金の脳みそをもった男」の結末も私は好きなので、引用しておきたいと思います。あれこれと考えさせられます。私には何も良い手が思いつきませんけれども、いつかは誰か黄金の脳みそを活用できる誰かが、うまい手をひらめいてほしいものだと思います。


私に与えられたこのすばらしい富について考えてみると、悔いることしきりでした。今後は、もうほんの些細なかけらさえ残っていず、再び手にすることもないでしょう。脳の中の金を少しずつ切り売りして、失わせるにいたったこれまでの出来事のひとつひとつを、私の宝のかけらを残してきた人生の節々を思い起こしました。(中略)これからどうするのか? 何をすればよいのか? 救済施設で死に果てるのか、それとも、どこかの小間物屋の、たとえば『銀の糸巻き』屋の使い走りになるのか。まだ、四十才にもなっていないというのに、将来、私を待ち構えているのはそんなところでしょう。それから、悲嘆にくれ、ありったけの涙をしぼって泣いているうちに、私のように脳に頼って生きている沢山の不幸な人々のことに考えが及びました。財産もなく、自らの知性に助けを求めて生活の資を稼がざるを得ない、芸術家や作家。黄金の脳をもった男の苦悩を知るものは、この世では、私ひとりではないはずだと自分自身にいいきかせるのでした。 ”

 ――アルフォンス・ドーデ「黄金の脳みそをもった男」
  (『ふらんす幻想短篇 精華集』透土社 所収)






『架空の伝記』

2010年05月10日 | 読書日記ーフランス

マルセル・シュオッブ 大濱甫訳(南柯書局)



《あらすじ》
同時代最大の偉人を綿密に描写したり、過去において最も有名だった人物を描くのではなく、神に近い人であれ、凡人であれ、犯罪者であれ、その人独自の生活を同じ心遣いをもって語った架空の伝記集。


《この一文》
“神々のことはめったに口にせず、神々を気にかけることもなかった。神々が存在するかしないかは大した問題ではなく、神々が彼に対してなにもなし得ないことをよく承知していたのだ。その上、神々が人間の顔を天に向けさせ、四脚で歩く大部分の動物の持つ能力を奪いとり、わざと人間を不幸にしてしまったことを非難していた。生きるために食べなくてはならないように決めた以上、神々は人間の顔を木の根の生える地面に向けさせるべきだった、とクラテースは考えたのだ。人は空気や星を食べるわけにはゆかないのだ。
  ――「犬儒家 クラテース」より ”




人間の一生とはいったい何なのか。誰かの生涯を、別の誰かが語るとはどういうことなのか。世の多くの物語はそもそもこの『架空の伝記』のようなものではないだろうか。物語とはそういうものなのではないだろうか。誰かによって生み出される物語と、誰かによって生きられる人生との間には、実際どのくらいの隔たりがあるのだろうか。私が私を語ることは可能だろうか。あるいは私の人生もまた誰かによって語られる物語となり得るだろうか。

ということなどを考えましたが、どれもまとまりを欠いてただ流れてゆくばかりでした。ただ言えることは、この本はなかなか面白かったということです。


私の好みで判断すると、前半の人々の伝記が面白かったですね。色彩が豊かで美しく、神話のようで。あとに進むにしたがって伝記に描かれた人物が生きる時代もくだっていくのですが、古代においても近代においても、そこで語られる人々の人生はいずれも独特の雰囲気をもって描かれていることに変わりはありません。美しいこともあれば醜いこともあり。そして私には、どうしてだか時代が新しくなるにつれて彼らの生き様には惨めさやそれにともなう悲しみの色が増してくるような気がしました。
ここに描かれた古代の人の最期は、同じ死ぬにしても、どこか人を圧倒するような、偉大な何かを感じさせるところがあります。「犬儒家クラテース」は自らの思想に従って犬のように暮し、犬のように死にました。また宇宙の形相を描こうとした「絵師パオロ・ウッチェルロ」の物語は壮絶な印象を残します。それに対して、海賊に憧れて海賊となった貴族の「気紛れ海賊ステッド・ボニット少佐」などは描写はより具体的になった気がするものの人物の行動のスケールはやや小さくなったようにも思えます。
どうしてでしょう。

同じようなことをアナトール・フランスの『ペンギンの島』を読んだ時にも感じたのを思い出しました。この『架空の伝記』もまた、古代には古代の雰囲気を、近代には近代の雰囲気を持たせて架空の伝記を描いた結果として、読者にこういう印象を与えるのでしょうか。「その時代の文学らしい感じ」は、たしかにそれぞれのお話に感じられます。となると、古代には人間は偉大な人の偉大な様子を書き残したが、近代に至ってようやく凡人の、芸術世界から捨て置かれていた悲しみや惨めさという側面に目を向け、それを描けるようになったということなのでしょうか。分かりませんね、やっぱり私にはまとめられませんね。「序」で作者は、「神に近い人であれ、凡人であれ、犯罪者であれ、その人独自の生活を同じ心遣いをもって」語ると書いてあるように、たしかに「その人独自の生活」はどの物語にも描かれてありました。たぶん私は序文をもう一度注意深く読む必要がありそうです。



面白かったです。でも、一人一人の架空の伝記を面白い面白いと読みながら、次々と読み進むにつれて、その度に前のものを忘れてゆきました。そういう私が、私は少し悲しい。